娘から連絡が来ない58歳。既読を何度も確かめていた私が、送る中身を変えた日
送ったのは、朝の八時でした。
「体調どう? ちゃんと食べてる?」
夫を送り出して、洗濯機のスイッチを入れたすぐあとです。
既読がついたのは、八時四十分です。
娘が会社に向かう電車の中で、開いたのだと思います。
返事は、その日の夜の九時に来ました。
「うん、大丈夫」
四文字でした。
私はその四文字を、お風呂上がりの髪を拭きながら、何度も読み返しました。
大丈夫、の前に「うん」がついている。
それは、機嫌がいいということなのか、面倒だということなのか。
四文字のあいだに、十二時間と二十分がはさまっていました。
一日に、何度も開いていました
五十八歳。娘の美咲は三十三歳で、新幹線で二時間の他県に住んでいます。
結婚して四年、夫婦とも働いていて、忙しいのは分かっています。
分かっていても、私は画面を開いてしまうのです。
洗濯物を干しながら、一回。
掃除機をかけ終わって、一回。
週に三日、近所の歯医者で受付をしていますが、昼休みにも一回。
既読がついたか。
ついたのに返事がないのは、何時間か。
そういうことを、洗濯ばさみをつまみながら考えていました。
返事が短い日は、もっと落ち着きませんでした。
「大丈夫」だけの日は、何か言えないことがあるのではないか。
「うん」だけの日は、怒っているのではないか。
ある晩、夕食のときに夫に聞いてみました。
「ねえ、美咲から『うん』だけって、どういう意味だと思う?」
夫は、焼き魚の骨を外しながら答えました。
「『うん』って意味だろう」
「そうじゃなくて」
「あいつも忙しいんだよ。俺だって、会社のメールは『了解』しか打たん」
夫の言うことは、たぶん正しいのです。
自分でも、みっともないと思っていました。
思いながら、食器を洗い終わると、また開いていました。
用のない日にも、私は何か送る理由を探していました。
親戚から桃が届けば、「桃がたくさん来たけど、送ろうか?」。
テレビで大雨のニュースを見れば、「そっちは大丈夫?」。
娘の好きだったお菓子が店に並んでいれば、写真を撮って「これ、まだ好き?」。
どれも、娘を気にかけているつもりでした。
桃には「大丈夫、こっちでも買えるから」と返事が来ました。
大雨には、既読だけがつきました。
お菓子には、三日後に猫のスタンプがひとつ。
冷蔵庫に貼った町内会の予定表を見ながら、次は何を理由にしようかと考えている自分に、ある日ふと気づきました。
送った文章を、並べて見ました
五月の終わりの雨の日、歯医者の仕事が休みで、家に一人でいました。
ソファに座って、娘とのトーク画面を、上へ上へとさかのぼりました。
娘の返事は飛ばして、私が送った分だけを読みました。
一か月ぶんです。
体調どう。仕事は忙しい。ちゃんと寝てる。風邪ひいてない。あの件どうなった。
あの件というのは、娘夫婦が考えている引っ越しのことです。
全部、質問でした。
そして全部、娘のことでした。
私のことは、一行も書いていませんでした。
庭のあじさいが色づいたことも、歯医者の先生が眼鏡を替えたことも。
私の一か月は、送った文章の中のどこにもありませんでした。
娘からすれば、返事は「宿題」だったのだと思います。
答えなければいけないものが、毎朝届いていたのです。
満員電車の中で、それを開く娘の顔を想像してみました。
私はスマホを伏せて、しばらく雨の音を聞いていました。
母の手帳のこと
その晩、思い出したのは、自分の母のことです。
母は十年前に亡くなりました。
遺品を片付けたとき、鏡台の引き出しから小さな手帳が出てきました。
表紙の角が丸くすり切れた、手のひらくらいの手帳です。
中を開くと、日付のところどころに、鉛筆で小さな丸がつけてありました。
私に電話をかけた日に、丸がつけてありました。
月に四つか五つです。
丸の横に、ときどき短い書き込みがありました。
「かぜ なおった?」
「孫 運動会」
その中に、一つだけ意味の分からない書き込みがありました。
「ホタルブクロ 言えず」
私は手帳を持ったまま、しばらく考えました。
それで、ある夕方の電話を思い出しました。
子どもたちがまだ小さくて、私は台所で揚げ物をしていました。
下の子が泣いていて、上の子は宿題の分からないところを聞いてきていました。
そこへ電話が鳴りました。
「もしもし、あのね。今日ね、裏の土手に」
「お母さん、ごめん。今、忙しいから」
「あ、そうね。ごめんね。またかけるわね」
電話は、それで切れました。
母が土手で何を見つけたのか、私はとうとう聞かないままでした。
母からの電話は、正直に言えば面倒でした。
「今、忙しいから」と切ったことも、何度もあります。
母は、丸をつけながら、次にかける日を決めていたのでしょう。
ホタルブクロというのが花の名前だということだけは、なんとなく知っていました。
どんな花なのかは、知りませんでした。
その手帳のページを思い出して、私は自分の送信欄を閉じました。
「今日の空」
決めたのは、ひとつだけです。
娘のことを聞くのをやめる。
代わりに、その日の私の小さな出来事を、写真一枚で送る。
最初は、それもなかなか送れませんでした。
写真だけ送って、何の用かと思われないか。
「どうしたの?」と、かえって心配させないか。
次の朝、台所の窓を開けると、雨上がりの空に、細長い雲が一本だけ伸びていました。
私はそれを撮って、送りました。
「今日の空」
それだけ書きました。
はてなマークは、打ちませんでした。
返事は来ませんでした。
来なくていいことにしていたので、平気でした。
と言いたいところですが、その日も三回くらいは画面を開きました。
二日目は、玄関の前に咲いていた小さな花を撮りました。
白くて、真ん中が黄色い、爪の先ほどの花です。
名前が分かりませんでした。
「玄関の花。名前は分かりません」
そう書いて送りました。
名前を調べるために、歩くようになった
花の名前が分からないまま送るのが、なんとなく落ち着きませんでした。
スマホで調べようとしても、何と打てばいいのかが分かりません。
「白い花 小さい 真ん中黄色」では、似たような写真が何百枚も出てきました。
土曜日、夫と駅前の本屋に行って、植物の本の棚の前に立ちました。
大きくて写真のきれいな図鑑が、何冊も並んでいました。
でも、それは家の本棚に置く本です。
私が欲しかったのは、道ばたで花を見つけたときに、その場で開ける本でした。
手に取って確かめたのは、三つです。
鞄に入れて持ち歩ける大きさかどうか。
庭の花だけでなく、道ばたの草まで載っているかどうか。
花の色や咲く季節から、その場で引けるかどうか。
「そんな本、何に使うんだ」
隣で夫が言いました。
「娘に送る花の名前を調べるの」
夫は少し首をかしげて、それから「ふうん」と言いました。
三つの条件に合う一冊を選んで、それを買いました。
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図鑑と、スマホと、小さな財布。
それを入れて肩にかけても、手が空いている鞄がひとつ欲しくなりました。
しゃがんで花をのぞくとき、両手が使えるほうがいいからです。
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朝のごみ出しのあと、少し回り道をするようになりました。
家から歩いて十分の、川沿いの土手です。
道ばたの草にも名前があることを、五十八歳にして知りました。
玄関の花は、ハキダメギクでした。
掃き溜めで見つかったから、そういう名前になったのだと書いてありました。
こんな名前をつけられた花があるのだと、しばらく笑っていました。
その日の写真は、それにしました。
「玄関の花の名前、分かりました。ハキダメギク。かわいそうな名前」
土手の上の人
土手を歩くようになって二週間ほどしたころ、茶色い柴犬を連れた女の人に声をかけられました。
「何か、珍しいものでもありました?」
私がしゃがみこんで、草の写真を撮っていたからです。
「いえ、名前を調べてるんです。娘に送ろうと思って」
「あら、いいわね。娘さん、植物がお好きなの?」
「いいえ、全然」
言ってから、自分でもおかしくなって笑いました。
その人は坂井さんといって、毎朝この土手を犬と歩いているそうです。
「この先の橋の下あたり、六月になると、ホタルブクロが咲くのよ」
私は、思わず顔を上げました。
「ホタルブクロ、ですか」
「そう。釣り鐘みたいな、うす紫の花。下を向いて咲くの」
「そこに、咲くんですか」
「毎年ね。昔は、このへんの土手にたくさんあったらしいわよ」
家に帰って、図鑑を開きました。
ホタルブクロは、六月から七月に咲く花でした。
子どもが花の中に蛍を入れて遊んだことから、その名前がついたと書いてありました。
母の手帳の、あの書き込みを思い出しました。
母の家の裏にも、土手がありました。
橋の下の、うす紫
六月の半ば、雨の上がった朝に、橋の下まで歩きました。
草の間に、うす紫の花が、いくつも下を向いて咲いていました。
指先ほどの鐘が、風が吹くたびに小さく揺れていました。
私は、しばらくその前にしゃがんだまま、写真を撮るのを忘れていました。
母は、あの日の電話で、これを言いたかったのだと思います。
「今日ね、裏の土手に、ホタルブクロが咲いたのよ」
たぶん、それだけのことでした。
それだけのことを、私は「今、忙しいから」で切ったのです。
母は怒りもせずに、手帳に「言えず」と書いて、丸をつけました。
三十年近くたって、その花の前で、私はやっとその続きを聞いた気がしました。
写真を一枚撮って、娘に送りました。
「ホタルブクロ。おばあちゃんの家の裏にも、咲いていたそうです」
次の日曜日、夫が「その橋の下とやらに、連れていけ」と言いました。
朝ごはんのあと、二人で土手を歩きました。
夫と並んで歩くのは、いつ以来だったか思い出せません。
橋の下に着くと、夫はしゃがみこんで、うす紫の花をしばらく眺めていました。
「お義母さん、これが好きだったのか」
「たぶんね。電話で言いかけて、私が切っちゃったの」
夫は何も言わずに立ち上がって、少し先の草むらを指さしました。
「あれは何だ。黄色いの」
私は鞄から図鑑を出して、その場で引きました。
「オオキンケイギク、だって」
「長い名前だな」
帰り道、夫は二回、道ばたの花を指さして「これは」と聞きました。
一回は分かって、一回は分かりませんでした。
三か月後の返事
娘から返事が来るようになったのは、二か月目の終わり頃です。
最初は「かわいい」の一言でした。
ホタルブクロの写真の、三日後です。
それまでの「うん」や「大丈夫」とは、少し違う四文字でした。
そのうち、夜の九時ごろに、ぽつぽつと言葉が届くようになりました。
「今日のは何?」
「それ、会社の植え込みにもある」
そのうち、「その道どこ?」と聞かれました。
家から歩いて十分の、川沿いの土手だと答えました。
お盆に、娘が一人で二泊だけ帰ってきました。
二日目の夜、縁側でスイカを食べながら、娘がぽつりと言いました。
「お母さんの写真ね、朝の電車で見るの、けっこう楽しみにしてるんだよ」
「そうなの」
「前はさ、朝にLINE来ると、ちょっと身構えてた。何か答えなきゃって」
娘は、スイカの種を皿の端に並べながら続けました。
「ごめんね。返事、いつも遅くて」
「いいのよ。返事がいらないものを送ってるんだから」
そう言いながら、私は少しだけ、鼻の奥がつんとしました。
謝らせたかったわけではありません。
娘は娘で、あの四文字を打つたびに、何かを考えていたのだと思います。
帰る日の朝、玄関で靴をはきながら、娘が言いました。
「今度、その道歩いてみたい」
まだ一緒に歩いてはいません。
秋の連休にと思っていましたが、娘の引っ越しが決まって、それどころではなくなりました。
でも、歩く道があるというのは、呼ぶ口実とは違うものだと思っています。
手帳の丸
娘が帰った次の日、私は駅前の文具売り場で、小さな手帳を一冊買いました。
母の手帳と同じくらいの、鞄の内ポケットに入る大きさで、一日に一行だけ書ける欄のあるものです。
写真を送った日に、小さな丸をつけることにしました。
返事が来た日ではなく、私が送った日に、です。
丸の横には、その日の花の名前を書きます。
今、その手帳は、台所の電話台の上にあります。
隣には、角のすり切れた母の手帳が並べてあります。
私の手帳の九月のページには、丸が十一個あります。
ハキダメギク、ツユクサ、ヒメジョオン、エノコログサ。
丸のついていない日も、同じくらいあります。
どちらの手帳にも、六月のページに「ホタルブクロ」と書いてあります。
母の字は鉛筆で、私の字はボールペンです。
母のほうには「言えず」とあり、私のほうには何も書き足していません。
あなたなら、どうしますか?
最後に送った連絡に、あなた自身のことは何行書いてありましたか。
そして、明日ひとつだけ送るとしたら、何の写真を撮りますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 質問は、相手にとって宿題になる
「どう?」「ちゃんとしてる?」は、答える義務を作ります。
心配して送ったものが、負担として届くことがあります。
2. 自分のことを書くと、返事を待たなくてよくなる
近況は、返事がなくても成立します。
送る理由が「知りたいこと」から「知らせたいこと」に変わるからです。
3. 送るものを探すと、外に出る理由ができる
写真を一枚送ると決めると、撮るものを探すようになります。
探すために歩くうちに、こちらの一日が増えます。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(持ち歩ける・道ばたの草も載っている・その場で引ける)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
持ち歩ける草花の図鑑
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- 販売ページの記載:320ページ・西東社・2024年2月発売
- 販売ページの記載:寸法は13.2×1.9×18.2cm
- 選ぶときは、大きさ(鞄に入るか)・載っている種類・引きやすさ(花の色や季節から探せるか)を見ると選びやすくなります。
図鑑が入る小さめのショルダーバッグ
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- 販売ページの記載:重量260g・タテ23×ヨコ36×マチ13cm
- 販売ページの記載:ショルダー全長122cm・撥水
- 選ぶときは、重さ・入れたいものが入る大きさか・斜めがけの長さを見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。