息子が結婚して寂しい。63歳の私が、お嫁さんに「何もしない」と決めた日
式の日、私は泣きませんでした。
チャペルの扉が開いて、白いドレスのお嫁さんが入ってきたときも。
次男の悠介が、少し裏返った声で「誓います」と言ったときも。
両家の挨拶で、夫が原稿を二回読み間違えたときも。
私はずっと笑っていたと思います。
泣いたのは、その一週間後の火曜日です。
朝十時ごろ、ベランダから取り込んだ洗濯物を、居間の畳の上でたたんでいました。
夫のシャツ、私のブラウス、タオルが四枚。
靴下を片方ずつ合わせていて、手が止まりました。
悠介の紺色の靴下が、一足もなかったのです。
当たり前のことでした。
悠介はもう、この家で洗濯物を出さないのですから。
六十三歳。
上の子の雄一は、十年前に仕事で札幌へ行きました。
そして今度は、下の子が結婚して、家を出ていきました。
これで、子どもの洗濯物は二度と出ません。
私は、夫のシャツを膝にのせたまま、しばらく声を出して泣きました。
誰もいない、平日の午前中でした。
湯のみを持つ手
お嫁さんの早紀さんに初めて会ったのは、式の一年半前、秋のお彼岸のころでした。
「今度の日曜、連れていくから」
悠介からそう電話があって、私は前の日から家じゅうを拭いてまわりました。
玄関に入ってきた早紀さんは、小柄で、髪をひとつに結んだ人でした。
「はじめまして。早紀と申します」
深く頭を下げた拍子に、手土産の紙袋ががさっと鳴りました。
居間に通して、私は来客用の湯のみでほうじ茶を出しました。
早紀さんは「いただきます」と両手で湯のみを持ち上げました。
その手が、小さく震えていました。
湯のみの中のお茶が、細かく波を立てていたのを覚えています。
「緊張するわよね。うちは何も気を遣わなくていいのよ」
私はそう言いながら、自分の声が少し高くなっているのに気づきました。
早紀さんは「はい」と笑って、お茶を一口だけ飲みました。
帰ったあと、夫が言いました。
「いい子じゃないか」
「ええ。感じのいい人ね」
本心でした。
ただ、あの震える手を見てから、私はこの人に何を言えばいいのか、分からなくなっていました。
私の一言で、あの手がまた震えるのかもしれない。
そう思うと、こちらから何かを言うのが怖くなったのです。
段ボールいっぱいの野菜
それなのに、式のあと、私は一度だけ失敗をしました。
五月の連休明け、二人の新居に荷物を送ったのです。
親戚の畑でもらった玉ねぎとじゃがいも。
私が漬けたらっきょう。
悠介が子どもの頃から好きだった、甘い卵焼きの作り方を書いた紙。
それから、便箋三枚の手紙です。
新しい生活はどうか。
台所の使い勝手はどうか。
悠介は朝が弱いから、目覚ましを二つかけさせてほしい。
書きたいことが次から次へと出てきて、封筒がふくらみました。
荷物が届いたはずの日の夜、私は悠介にLINEを送りました。
「荷物、届いた?」
既読になりませんでした。
次の日の朝、もう一度送りました。
「らっきょうは冷蔵庫に入れてね。届いたかしら?」
その日の夜、悠介から電話がかかってきました。
「母さん、荷物ありがとう。届いてるよ」
「よかった。早紀さん、何か言ってた?」
悠介は、少し黙りました。
「あのさ、早紀、昨日の夜中の一時まで、お礼の手紙書いてたんだよ」
「え?」
「便箋三枚もらったから、三枚で返さなきゃって。下書きまでしてさ」
私は、受話器を持ったまま何も言えませんでした。
「悪いことしたとか、そういうんじゃないよ。ただ、あいつ真面目だからさ」
悠介の声は、責める声ではありませんでした。
それが、かえってこたえました。
数日後、早紀さんからきれいな字の手紙が届きました。
便箋は、きっちり三枚でした。
「今日は何を作るの」
その手紙を読みながら、私はずっと忘れていたことを思い出していました。
四十年近く前、私も早紀さんと同じ立場だったのです。
夫の母、つまり私の義母は、悪い人ではありませんでした。
お産のときには一週間泊まりこんで、上の子のおむつを替えてくれた人です。
ただ、月に二度、決まって夕方の五時ごろに電話がかかってきました。
「もしもし、私。今日は何を作るの」
私はそのたびに、台所のメモ帳を見ながら答えました。
「今日はさばの味噌煮と、ほうれん草のおひたしです」
「あら、そう。あの子、さばは好きだったかしら」
電話を切ったあと、私はいつも少し疲れていました。
そのうち、電話が来そうな日には、朝のうちに献立を決めてメモ帳に書いておくようになりました。
答えを用意しておかないと、落ち着かなかったのです。
一度、夫に言ったことがあります。
「お義母さん、なんで毎回献立を聞くのかしら」
夫は「さあ。暇なんだろう」と笑っただけでした。
義母は、十二年前に亡くなりました。
今思えば、義母はただ、息子の家の台所の話がしたかっただけなのだと思います。
けれど当時の私には、答えを用意しなければならない電話でした。
便箋三枚の手紙も、「届いた?」のLINEも、同じだったのです。
私はいつの間にか、あの電話をかける側に立っていました。
「嫁は敵」なんて思っていないのに
六月のはじめ、公民館の体操教室の帰り道でした。
いつも一緒に帰る宮本さんが、「息子さんの結婚式、どうだった」と聞いてくれました。
宮本さんは私より四つ上で、息子さんが二人、どちらも結婚しています。
「いい式だったわ。お嫁さんもいい人で」
そこまで言って、私は言葉に詰まりました。
公園の横の坂道で、立ち止まってしまいました。
「……本当は、寂しくて」
口に出したのは、初めてでした。
夫にも、札幌の雄一にも、言ったことがありません。
息子の結婚を喜べない母親のように聞こえるのが、嫌だったのです。
「お嫁さんを、取られたとか思ってるわけじゃないのよ。敵だなんて、思ったこともないの」
「分かってるわよ」
宮本さんは、手に持っていたタオルで首の汗をふきました。
「おめでたいのと寂しいのはね、一緒に来るのよ。どっちかが嘘ってわけじゃないの」
「宮本さんも、そうだった?」
「そうよ。上の子のときなんか、式の次の日に寝こんだもの」
宮本さんは笑いました。
それから、少し真面目な顔になって言いました。
「私ね、下の子のときは決めたの。お嫁さんには、何もしないって」
「何もしない?」
「そう。何かしてあげたくなったら、それは自分が寂しいときなのよ。だから、何もしないの」
私は、段ボールいっぱいの野菜と、便箋三枚の手紙を思い出していました。
あれは、早紀さんのためだったのでしょうか。
それとも、洗濯物の中に悠介の靴下がないことに、耐えられなかった私のためだったのでしょうか。
三つの「しない」
その夜、私は台所のテーブルで、義母の電話のときに使っていたのと同じような小さなメモ帳を開きました。
そして、三つだけ書きました。
用がないのに連絡しない。
呼ばれない限り、家には行かない。
料理も掃除も、口を出さない。
書いてみると、どれも「しない」ことばかりでした。
これで本当にいいのか、自信はありませんでした。
何もしなければ、そのまま遠くなってしまう気もしたのです。
だから、ひとつだけ、することも決めました。
年に二回、季節の変わり目に、お茶を送る。
母の日でも、誕生日でもない、何でもない時期にです。
記念日に送ると、相手はお返しを考えなければなりません。
何でもない時期なら、ただ届くだけで済みます。
テレビを観ていた夫に、メモ帳を見せました。
「何だ、これは」
「悠介たちへの、私の決まりごと」
夫は老眼鏡を額に上げて、しばらく読んでいました。
「お前が決めたんなら、それでいいんじゃないか」
それから、一番下の「お茶」の行を指さしました。
「これは、俺の名前も入れておいてくれ」
台所のカレンダーの十一月と五月のところに、私は小さく「お茶」と書きました。
重すぎないもの
十一月のはじめ、朝晩が冷えるようになってきたころ、最初のお茶を選びに出かけました。
デパートのお茶売り場には、立派な木箱に入ったものもたくさん並んでいました。
最初は、つい高いほうへ目が行きました。
安いものを送ったと思われたくない気持ちが、どこかにあったのです。
でも、手に取って考えました。
あまり立派な箱が届いたら、早紀さんはまたお礼の手紙を書くでしょう。
それでは、便箋三枚のときと同じです。
だから、条件を三つにしました。
郵便受けの横に置いても邪魔にならない、小さな箱であること。
二人で飲みきれる量であること。
お返しを考えなくてすむくらいの、重すぎない値段であること。
家に帰ってから、同じ条件で探し直して、缶が二つ入った小さな箱のものに決めました。
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添える手紙は、一筆箋に三行だけにしました。
便箋は、もう使わないと決めていました。
行の数が少なくて、封筒に入れずに箱の上にのせられる大きさのものを、文房具の売り場で一冊だけ選びました。
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最初は、いつもの癖で、「お仕事はどう?」と書きかけました。
そこで手を止めて、紙を一枚捨てました。
二枚目に、こう書きました。
「寒くなってきました。お茶を送ります。返事はいりません」
返事はいらない、と書くのは、早紀さんのためでもあり、自分のためでもありました。
待つ時間を、自分で作らないためです。
一筆箋の最後に、夫の名前と私の名前を並べて書きました。
半年後の、短いLINE
最初の年は、何も返ってきませんでした。
悠介から「お茶届いたって」と一言あっただけです。
それでいいと決めていたので、私はスマホを何度も開かないようにしていました。
それでも、十一月の終わりまでは、郵便受けをのぞくたびに少し期待していた自分がいます。
正直に書くと、そうでした。
年が明けて、春になりました。
五月の連休が終わったころ、二回目のお茶を送りました。
一筆箋には、こう書きました。
「新茶の季節になりました。お茶を送ります。返事はいりません」
三日後の夜、台所で洗い物をしていると、スマホが鳴りました。
早紀さんからのLINEでした。
早紀さんから直接連絡が来たのは、式のあと初めてでした。
「お茶、届きました。ありがとうございます」
それだけでした。
絵文字も、スタンプもありません。
短い文でしたが、私は泡のついた手をふいて、三回読み返しました。
「どうした」
居間から夫が顔を出しました。
「早紀さんから。お茶、届いたって」
夫は「そうか」と言って、また居間に戻っていきました。
少しして、居間から夫の声がしました。
「よかったな」
私は、返事を打ちかけて、やめました。
「こちらこそ、ありがとう。二人で飲んでね」とだけ送りました。
「季節が変わったな、って」
その次の年のお正月、悠介と早紀さんが、二人でうちに来てくれました。
二人が来るのは、式のあと二度目です。
私は、前の晩からおせちを作りかけて、途中でやめました。
呼ばれたときだけ行く、と決めたのと同じで、来てくれたときに全部を用意しすぎないようにしようと思ったのです。
煮しめと、お雑煮だけにしました。
食事のあと、私がお茶を淹れようと立ち上がると、早紀さんが言いました。
「お義母さん、私が淹れてもいいですか」
「あら、じゃあお願いしようかしら」
早紀さんは台所に立って、急須にお湯を注ぎました。
四つの湯のみに、少しずつ順番についでいきます。
私は、その手元を見ていました。
手は、少しも震えていませんでした。
初めてこの家に来た日、湯のみの中で細かく波を立てていたお茶を、私は思い出していました。
早紀さんは、湯のみを私の前に置きながら言いました。
「あのお茶が届くと、ああ季節が変わったな、って思うんです」
「そう」
私は、それだけ答えました。
よかった、と言えばよかったのかもしれません。
でも、そのときは声が出ませんでした。
のどの奥が、急に熱くなっていたからです。
悠介が横から言いました。
「早紀、あの缶、空いたら洗って取ってあるんだよ。ペンとか入れてる」
「ちょっと、言わなくていいから」
早紀さんが笑って、悠介の腕をたたきました。
それから、早紀さんは湯のみを両手で持ったまま、私の顔を見ました。
「お義母さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「なあに」
「お義母さんって、ふだん夕ごはん、何を作ってるんですか。うち、いつも同じになっちゃって」
私は、すぐには答えられませんでした。
四十年前、夕方五時の電話の向こうから聞こえていた言葉と、ほとんど同じだったからです。
でも、今度は、聞いてくるのは早紀さんのほうでした。
「そうねえ。この前は、さばの味噌煮を作ったわね」
「さばの味噌煮、悠くん好きなんです」
「知ってるわよ。あの子が小学生のころから作ってるもの」
四人で、少し笑いました。
「元気でいてくれたら」
正直に言えば、寂しさは今もあります。
台所の食卓には椅子が四脚あって、ふだんは二脚が余っています。
火曜日の洗濯物は、今も少ないままです。
ただ、寂しさの向きが変わりました。
「帰ってきてほしい」から、「元気でいてくれたらいい」へ。
それがいつ変わったのかは、自分でもよく分かりません。
たぶん、返事を待たない一筆箋を書くようになってからだと思います。
二人が帰ったあと、夫と二人で湯のみを洗いました。
夫が、ふきんを持ったまま言いました。
「さばの味噌煮の作り方、書いて送ってやったらどうだ」
「それは、聞かれたらね」
私は湯のみを伏せながら答えました。
夫は少し考えて、それから言いました。
「次のお茶は、五月だったな。今度は俺が買いに行ってくる」
あなたなら、どうしますか?
もし年に二回だけ、何かを送るとしたら、何を選びますか。
そして、そこに一行だけ添えるとしたら、どんな言葉にしますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 寂しさと、祝う気持ちは同時にある
息子の結婚がうれしいことと、寂しいことは、両立します。
どちらかが本心でどちらかが嘘、ということではありません。
2. よかれと思った連絡が、宿題になることがある
質問の形の連絡は、相手に答える義務を作ります。
自分が嫁の立場だった頃を思い出すと、距離の測り方が見えてくることがあります。
3. 「何もしない」も、ひとつのやり方
連絡を減らすことは、関心をなくすことではありません。
年に二回、返事のいらない形で気持ちを届ける。それで足りることもあります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(何でもない時期に送れる・重すぎない)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
季節に送るお茶
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- 販売ページの記載:原材料は緑茶(静岡県産)
- 販売ページの記載:内容量は70g入×2缶・箱に入った状態
- 販売ページの記載:箱のサイズは縦9.7×横19.5×高さ9cm
- 選ぶときは、内容量・箱の大きさ(郵送しやすいか)・日持ちの表示を見ると選びやすくなります。
三行で書き終わる一筆箋
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- メーカー:ミドリ(MIDORI)
- 販売ページの記載:50枚入り・横罫5行・サイズ 縦84×横177mm
- 選ぶときは、行の数(何行で書き終わるか)・大きさ・枚数を見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。