子どもが巣立ったあと
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娘が結婚して寂しい56歳。「これから何がしたいの」に答えられなかった私が、台所の壁で始めたこと

玄関から外へ出かけていく女性の後ろ姿
kuroko

その朝は、夜のうちに降った雨がやんだばかりでした。

四月の二週目で、団地の前の桜はもう半分以上散っていました。

濡れたアスファルトに花びらが張りついて、薄い桃色のまだら模様になっていました。

引っ越しのトラックは、九時ちょうどに来ました。

娘が家を出たのは、四月でした。

五十六歳。一人娘です。

段ボールは、全部で十四箱でした。

最後の一箱をトラックに積み終えると、娘は玄関で靴を履きながら言いました。

「じゃあね。落ち着いたら、ごはん食べに来てよ」

「うん。気をつけてね」

私は、それしか言えませんでした。

トラックの後ろを、娘と、この秋に夫になる人の車がついていきました。

角を曲がって見えなくなるまで、私は濡れた花びらの上に立っていました。

新居は、車で四十分のところにあります。

近いのに、行く口実がありません。

「これ、持っていく?」

娘が出ていってから、私は電話をかけるようになりました。

用事は、いつも物でした。

お米が余りました。

娘がいた頃と同じ五キロの袋を買ってしまって、二人では減らないのです。

冬物の毛布が、押し入れに一枚残っていました。

「これ、持っていく?」と聞くために、私は電話をかけていました。

「毛布? あっちの家、床暖房あるから大丈夫」

「そう。お米もあるんだけど」

「お米はこの前もらったのが、まだあるよ」

娘は「いらない」と言うこともあれば、「じゃあ今度」と言うこともありました。

今度、がいつなのかは分かりません。

それでも私は、次に渡せるものを探していました。

冷蔵庫を開けて、何か余っていないかを見るのが癖になっていました。

作りすぎた切り干し大根。

いただきものの梨。

娘が好きだった、駅の向こうのパン屋の食パン。

冷蔵庫の扉を開けたまま、これは口実になるだろうか、と考えている自分がいました。

五月の連休に、一度だけ新居へ行きました。

梨を六つと、切り干し大根の入ったタッパーを持っていきました。

娘は「わあ、ありがとう」と受け取ってくれました。

玄関先で十分ほど話して、私は帰りました。

上がっていけば、と言われたのに、断ったのは私です。

帰りの車の中で、自分が何をしに行ったのか分からなくなりました。

式場からの帰り道

さかのぼって、三月のことです。

式場の打ち合わせの帰りでした。

娘の運転する小さな車の助手席で、私は膝の上に料理の見本の写真を広げていました。

夕方で、フロントガラスの向こうの空がオレンジ色になっていました。

信号待ちのとき、娘が前を向いたまま言いました。

「お母さんは、これから何がしたいの」

悪気のない質問でした。

「私がいなくなったら、時間できるでしょう。何かやりたいこととか、ないの」

私が答えられなかっただけです。

「何って、べつに」

そう言って、話を娘の新居のことに戻しました。

「それより、カーテンの寸法、ちゃんと測ったの?」

「測ったよ。お母さん、話そらした」

娘は笑って、それ以上は聞きませんでした。

でも、その夜、その質問がずっと残りました。

何がしたいのか、自分でも知らなかったのです。

十七歳の娘に言ったこと

答えられなかった理由に、心当たりがありました。

娘が高校二年のとき、私は駅前の公民館でコーラスをやっていました。

週に一度、火曜の夜です。

娘の成績が落ちて、塾の送り迎えが必要になって、私はコーラスをやめました。

誰に頼まれたわけでもありません。

自分で決めたことでした。

その年の秋、娘と大げんかをしました。

塾をさぼって友だちと出かけていたのが分かった夜です。

「お母さんはね、あなたのためにコーラスもやめたのよ」

言った瞬間に、しまったと思いました。

娘は、台所の入口に立ったまま、私の顔をじっと見ていました。

「頼んでないよ、そんなこと」

娘の声は、怒っているというより、困っているように聞こえました。

その夜、娘の部屋からは、しばらく物音がしませんでした。

次の朝、娘は何も言わずに塾のかばんを持って出ていきました。

私は、あの一言を謝りませんでした。

謝れば、やめたことを後悔していると認めるような気がしたのです。

それから、私は自分のために何かを始めることを、どこかで避けてきたのだと思います。

また誰かのせいにしてしまうのが、怖かったのかもしれません。

台所の壁の、二十年ぶん

うちの台所には、壁掛けのカレンダーがあります。

冷蔵庫の横の柱に打った釘に、毎年同じ場所に掛けてきました。

近所の米屋さんが年末に配ってくれる、名入れのカレンダーです。

一日の欄は、はがきの半分くらいの大きさでした。

そこに、家族の予定を書いてきました。

娘の試験、夫の健康診断、娘の成人式、夫の単身赴任の帰宅日。

二十年ぶんくらい、そうしてきました。

夫が名古屋に単身赴任していた八年間は、金曜の欄に「夜 帰宅」と書くのが決まりでした。

娘の中学の三年間は、部活の試合の日程で、欄がすき間なく埋まっていました。

五月の終わりのある日、使い終わった四月のページを破ろうとして、手が止まりました。

四月の欄には、「引っ越し」「式場 最終打ち合わせ」「電気の名義変更」と、娘のことばかりが並んでいました。

五月の欄は、夫の歯医者と、町内会の清掃の日だけでした。

改めて見ると、そこには私の予定がひとつもありませんでした。

娘が出ていって、書くことが半分になりました。

空いた欄を見ているうちに、思ったのです。

私には、書くことがなかったのではなく、書く欄がなかったのだと。

欄はいつも、家族の誰かのためにありました。

そこに自分の用事を書くのは、なんだか割りこむような気がしていたのです。

パート先の休憩室で

その週、パート先のスーパーの休憩室で、富田さんと一緒になりました。

富田さんは六十二歳で、レジの仕事を十五年続けている先輩です。

お弁当を食べながら、私はカレンダーの話をしました。

「笑っちゃうでしょう。二十年、自分の予定を一回も書いてないのよ」

富田さんは、卵焼きを箸でつまんだまま、少し考えていました。

「書くことがないんじゃなくて、書くところがないのよね。うちもそうだった」

「富田さんも?」

「うちは手帳だったけどね。家族の予定で埋まって、自分の分は余白に小さく書いてたの」

富田さんは、卵焼きを口に入れてから続けました。

「平日の昼、行ってみたら。駅の反対側の庭園、平日の昼はほとんど人がいないわよ。秋には菊も並ぶし」

庭園があることは知っていました。

でも、入ったことは一度もありませんでした。

いつも、娘の送り迎えの車の中から、塀だけを見ていたのです。

左の欄は、私の欄

六月のはじめ、私は新しいカレンダーを探しに行きました。

条件は三つ決めていました。

家族の予定を、人ごとに分けて書けること。

台所の柱の、いつもの釘に掛けられる大きさであること。

予定が変わったときに、書いて消せること。

選んだのは、一日の欄が四つに分かれているものです。

家族それぞれの予定を、色を分けて書けるようになっています。

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三つでよかったのですが、四つでよかったのだと思います。

欄がひとつ余っているほうが、あとで誰かが増えたときに困りません。

書き分けるためのペンも、同じ売り場で選びました。

条件は、四つの色がそろっていること、狭い欄にも書ける細さであること、ホワイトボードの面で消せることでした。

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家に帰って、古いカレンダーを釘から外しました。

夫が、居間から顔を出しました。

「新しいのにするのか。まだ年の途中だろう」

「うん。欄が分かれてるのがよかったの」

夫は新しいカレンダーの前に立って、四つの欄を指でなぞりました。

「四つもいるか。二人だぞ」

「ひとつ余ってるほうがいいのよ」

夫は「そうか」と言って、左から二つ目の欄を指さしました。

「じゃあ、俺はここか」

いちばん左を、私の欄にしました。

そう決めたのは、夫が二つ目を選んだあとでした。

先に書く、という順番

決めたのは、順番だけです。

月の初めに、まず自分の欄を書く。

そのあとで、夫の予定を書き足す。

最初の月は、二つしか書けませんでした。

歯医者と、美容院です。

左の欄の空白が、思っていたよりずっと広く見えました。

夫の欄のほうが、ゴルフの練習や町内会の会議で、よほど埋まっていました。

「なんだ、俺のほうが忙しいじゃないか」

夫はカレンダーを見て、少し得意そうに言いました。

「そうよ。私はこれから書くの」

言ってから、自分でも少し驚きました。

これから書く、という言い方をしたのは、初めてだったと思います。

二か月目に、庭園に行く日を書きました。

平日の昼です。

火曜日にしました。

コーラスをやめた、あの火曜日です。

書いたのは私ですが、その日の夜、夫が私の欄を見て言いました。

「この日、昼から雨らしいぞ。行くなら午前にしたらどうだ」

夫が私の欄を読んでいるとは、思っていませんでした。

その火曜日、私は午前のうちに家を出ました。

一人で行きました。

入口で「一名です」と言うのに、少し勇気が要りました。

受付の女性は、何ごともないように券を渡してくれました。

門をくぐると、外の車の音が急に遠くなりました。

平日の午前の庭園は、思っていたよりずっと人が少なかったです。

私のほかには、スケッチブックを抱えた年配の男性と、ベビーカーを押した若いお母さんがいるだけでした。

池のまわりの砂利道を、一周するのに四十分かかりました。

誰かの歩く速さに合わせなくていいので、気になった石灯籠の前で、何度も立ち止まりました。

池の鯉が、私の足音に気づいて寄ってきました。

餌を持っていないのが、なんだか申し訳ない気がしました。

途中の東屋に、秋の菊の展示の案内が貼ってありました。

十月の半ばから、一か月続くそうです。

私はその日付を、スマホに写真で残しました。

売店で、みたらし団子を一本買って、ベンチで食べました。

帰りのバスに乗ったとき、ちょうど雨が降り始めました。

窓に当たる雨粒を見ながら、夫の言うことを聞いておいてよかった、と思いました。

家に帰ると、夫は居間でテレビを見ていました。

「降られなかったか」

「ちょうどバスに乗ったところで降ってきた」

「そうか」

夫はそれ以上何も聞きませんでしたが、夕飯のとき、庭園の池に鯉はいたのか、とだけ聞いてきました。

娘が来た日

秋に、娘夫婦を初めて家に呼びました。

式から一か月がたった、十一月の日曜日です。

私は、朝から筑前煮と茶わん蒸しを作りました。

お米も、毛布も、用意しませんでした。

台所に入ってきた娘が、カレンダーを見て言いました。

「あれ、カレンダー変えたんだ。四つに分かれてる」

「そう。左がお母さん、その隣がお父さん」

娘は、左の欄を上から下まで眺めて言いました。

「お母さん、最近どこ行ってるの」

私は、庭園の話をしました。

十月から始まった菊の展示が思ったより長くて、足が疲れたこと。

売店のみたらし団子がおいしかったこと。

三回目に行ったときには、受付の人に「また来てくださったんですね」と言われたこと。

娘は「へえ」と言って、写真を見せてと言いました。

スマホの写真を一枚ずつ送っていくと、娘は途中で手を止めました。

「お母さん、こういう写真撮るんだね。知らなかった」

横から画面をのぞいていた娘の夫が、言いました。

「この菊、すごいですね。お義母さん、今度僕らも連れてってください」

「え、ほんとに?」

娘が、少し照れたように夫の腕をつつきました。

娘の新居の話は、その日はほとんどしませんでした。

お米の話も、しませんでした。

帰りぎわ、娘は玄関で靴を履きながら、振り返りました。

「お母さん、あのとき答えられなかったやつ、今なら何て言う?」

私は少し考えて、「まだ分からない」と言いました。

娘は「そっか」と笑って、ドアを開けました。

四つ目の欄

娘たちが帰ったあと、洗い物を終えて台所の電気を消そうとしたとき、カレンダーの右端に目がとまりました。

四つ目の、誰のものでもない欄です。

十二月の第一週の日曜日のところに、見覚えのない字がありました。

鉛筆で、小さく書いてありました。

「庭園 いっしょに?」

娘の字でした。

いつ書いたのか、私は気づいていませんでした。

ほかの日は、まだ真っ白です。

左の欄には、来月の美容院と、火曜日の庭園と、富田さんとのお茶の日が、私の色で書いてあります。

二つ目の欄には、夫のゴルフの練習が三つ。

三つ目の欄は、今は何も書いていません。

娘がいた頃の色のペンは、ペン立ての中で、キャップがはまったままになっています。

右端の欄の鉛筆の字は、ホワイトボードの上で、指でこすれば消えてしまいそうな薄さでした。

私はまだ、その字の横に返事を書いていません。

あなたなら、どうしますか?

もし来月のカレンダーに、あなただけの予定を書くとしたら、何を書きますか。

そして、それを書く欄は、今どこにありますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 口実を探しているうちは、自分の予定は空いたまま

渡すものを探す時間は、こちらの予定を埋めません。

口実がなくなると困る、というときは、埋めるものが足りていない合図かもしれません。

2. 書くことがないのではなく、書く欄がない

家族の予定を書く場所はあっても、自分の欄がないことがあります。

欄を作ると、書くことのほうが後からついてきます。

3. 順番を変える

家族の予定を入れてから残りを使うと、残りません。

先に自分の分を書いてから、あとを埋めます。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(家族の予定を分けて書ける・台所の壁に掛けられる・書いて消せる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

家族の欄が分かれたカレンダー

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  • 販売ページの記載:月間の紙のカレンダーと、書いて消せるホワイトボードの週間予定表の組み合わせ
  • 販売ページの記載:1日の欄を4分割し、4色で家族4人まで書き分けられる
  • 販売ページの記載:本体サイズはH465×W310×D18mm・掲載期間は2027年1月〜12月・日曜始まり
  • 選ぶときは、書き分けられる人数・本体の大きさ(掛ける場所に合うか)・書いて消せるかを見ると選びやすくなります。

書き分けて消せる4色のペン

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  • 販売ページの記載:4色・ボール径0.38mm
  • 販売ページの記載:品番 LKFB-80UF(パイロット フリクションボール4 スリム)
  • 選ぶときは、色の数・字の細さ(書く欄の大きさに合うか)を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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