子どもが巣立ったあと
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子どもが結婚しないのが心配な64歳。電話で「その話」をしないと決めた私の、一年の電話

駅のホームで電車を待つ女性の後ろ姿
kuroko

「言わない、言わない」

受話器を取る前に、私は小さな声でそう言いました。

台所には誰もいません。

夫は庭で、夏のあいだ使った朝顔の支柱を片付けていました。

十月の、日曜の夜七時です。

息子の直樹に電話をかけるのは、だいたい月に一度、この時間と決めています。

私は六十四歳です。

三つ上の夫と、二人で暮らしています。

直樹は三十六歳。

大学に入るときに家を出て、今は電車で二時間ほどの町で、一人で暮らしています。

結婚は、していません。

「言わない」というのは、そのことです。

四分十二秒

電話を切ると、スマホの画面に通話時間が出ます。

去年の暮れの電話は、四分十二秒でした。

その前は六分ちょっと。

その前の前は、十一分ありました。

数字を覚えているのは、切ったあと、いつもそこを見てしまうからです。

短くなっているのは、分かっていました。

理由も、本当は分かっていました。

私が毎回、同じところに話を持っていくのです。

「ちゃんと食べてる?」

「寒くなったね。そっちも冷える?」

ここまでは、いいのです。

直樹も「食べてるよ」「こっちも寒い」と、普通に答えます。

そのあとに、私が「そういえば」と言います。

「そういえば、角の佐藤さんのところの息子さん、来月結婚するんだって」

「そういえば、あんたの小学校の同級生の、ほら、背の高かった子。二人目ですって」

直樹は「へえ」と言います。

それから少しして、「うん、じゃあ、また」と言います。

「そういえば」のあと、電話はいつも終わりに向かいました。

私は、遠回しに聞いているつもりでした。

正面から「結婚しないの」と聞いたことは、一度もありません。

だから、嫌な思いはさせていないと思っていたのです。

「それ、俺に言われても」

一度だけ、遠回しではなくなった夜があります。

二年前のお正月でした。

直樹が三日間、帰ってきていました。

二日目の夜、夫が先にお風呂に入り、台所で私が洗い物をしていると、直樹がお茶を取りに来ました。

湯のみを出してやりながら、私は言いました。

「お母さんね、元気なうちに孫の顔が見られたら、もう何もいらないのよ」

言ってから、しまったと思いました。

でも、口から出た言葉は戻りません。

直樹は、急須を持ったまま、少し黙っていました。

「……それ、俺に言われても困るよ」

「困らせるつもりじゃないのよ」

「分かってる。分かってるけどさ」

直樹はそれ以上何も言わずに、お茶を持って二階へ上がっていきました。

私は、流しの水を出しっぱなしにしたまま、しばらく立っていました。

次の日、直樹は予定どおり夕方までいました。

昼間は夫と二人で、破れていた網戸を張り替えていました。

居間から、二人の笑う声が聞こえていました。

私のいる台所には、あまり来ませんでした。

帰りぎわ、玄関で靴をはきながら、直樹は言いました。

「母さん、体に気をつけて」

優しい声でした。

でも、私の顔は見ていませんでした。

「心配は、心配だよ」

その晩、夫に聞きました。

「あなたは、心配じゃないの」

夫は新聞をたたんで、少し考えていました。

「心配は、心配だよ」

意外な答えでした。

夫はずっと、気にしていないのだと思っていたのです。

「でもな、俺も言われたんだよ。親父に。三十を過ぎたら、会うたびに」

夫が結婚したのは、三十三のときです。

私と出会う前の話は、ほとんど聞いたことがありませんでした。

「どう思ったの」

「実家に帰るのが、面倒になった」

夫はそう言って、少し笑いました。

「親父が悪いわけじゃないんだけどな」

私は何も言えませんでした。

直樹の足が遠のいているのは、仕事が忙しいからだと思っていました。

そう思っていたかったのかもしれません。

叔母の電話

去年の九月、母の妹にあたる叔母から電話がありました。

叔母は八十を過ぎて、耳が少し遠くなっています。

大きな声で、近所の話や、庭の柿の話をひとしきりしたあとで、叔母が聞きました。

「直樹くんは、まだ一人なの」

「そうなの。もう三十六よ。私、気が気じゃなくて」

つい、本音が出ました。

叔母は「そうねえ」と言ってから、急に笑いました。

「あんたも、なかなか結婚しなかったものねえ」

私が結婚したのは、二十九のときです。

私たちの頃は、それでも遅いほうでした。

「姉さんね、あのころ親戚の集まりで何を言われても、『あの子にはあの子の段取りがあるのよ』って、それしか言わなかったのよ」

私は、受話器を持ったまま黙ってしまいました。

知りませんでした。

母は、私に一度も結婚のことを聞かなかった人です。

そのかわり、毎月、小包が届きました。

米と、干し椎茸と、母の漬けた梅干しと、手作りの味噌です。

味噌は、地元の新聞紙で何重にも包んでありました。

手紙は、入っていませんでした。

私は町の信用金庫に勤めていて、一人の部屋で、その新聞紙を広げて読むのが好きでした。

結婚が決まったとき、一度だけ母に聞いたことがあります。

「お母さん、私が結婚しないの、気にならなかったの」

母は、台所で大根を切りながら言いました。

「気になったわよ。だから、毎月、味噌を詰めてたの」

あのときは、冗談だと思って笑いました。

叔母の電話を切ったあと、あれは冗談ではなかったのだと、三十五年たって分かりました。

母は、言うかわりに、詰めていたのです。

一年だけ、その話をしない

その晩、夫に言いました。

「私、来年の十月まで、直樹に結婚の話はしないことにする」

夫は、湯のみを置いて私の顔を見ました。

「一年か」

「ええ。そういえば、も言わない」

「長いぞ」

夫は、少し面白がっているようでした。

「言わないかわりに、何か送ろうと思うの。お母さんがしてくれたみたいに」

最初に送ったのは、梨でした。

近所の農家さんで、形のいいものを十個、箱に詰めてもらいました。

一週間ほどして、直樹から短いメールが来ました。

「梨ありがとう。うまかった。一人だと十個は多いから、半分は会社で配った」

責められたわけではありません。

むしろ、ちゃんとお礼を言ってくる子です。

でも私は、そのメールを読んで考えこんでしまいました。

私は、直樹が今どんなふうに暮らしているのか、ほとんど知らないのです。

次の電話で、結婚の話のかわりに、それを聞いてみました。

「台所、使ってるの」

「ご飯は炊くよ。おかずは、帰りに買ってくる」

「毎日?」

「だいたい。平日は九時過ぎるから」

それだけのやりとりでしたが、私には初めて聞く話でした。

炊いたご飯と、買ってきたおかず。

それなら、送るものは決まったと思いました。

新聞紙に包む瓶

十一月のはじめ、隣の町の大きな食料品の売り場に行きました。

調味料の棚の前で、私は三十分ほど立っていました。

決めた条件は、三つです。

一人で使い切れる、小さな瓶であること。

常温で日持ちして、開けるまで冷蔵庫に場所をとらないこと。

炊いたご飯や、買ってきたおかずに、かけるだけで使えること。

料理をしない子に、料理をさせるものは送りたくありませんでした。

それから、もう一つだけ、自分の中で決めていたことがあります。

受け取ったときに、重たくないものにすること。

「結婚の話のかわり」を、息子に背負わせたくなかったのです。

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選んだのは、三種類の小さな瓶でした。

家に帰って、段ボールに詰めました。

瓶が割れないように、地元の新聞で一本ずつ包みました。

包みながら、母の味噌のことを思い出していました。

夫が居間から来て、段ボールの中をのぞきこみました。

「手紙は入れないのか」

「入れない。お母さんも、入れなかったから」

「そうか」

夫はしばらく黙って見ていましたが、やがて新聞の束から一枚を抜いて、私に渡しました。

地元の高校の野球部が、秋の大会で勝ち進んだという記事でした。

直樹が卒業した高校です。

「これで包め。一番上に」

私は、言われたとおりにしました。

手紙は、入れませんでした。

送り状の品名の欄に「調味料」とだけ書いて、郵便局に持っていきました。

窓口で「中身は割れ物ですか」と聞かれて、「瓶です。新聞で包んであります」と答えました。

帰り道、少し足が軽くなっていました。

言いたいことを、一つも書かずに送ったのに、何かを渡せた気がしたのです。

十日ほどして、直樹から短いメールが来ました。

「届いた。ありがとう。赤いの、うまい。あと野球の記事、懐かしかった」

梨のときより、一行だけ長いメールでした。

「言わない、言わない」の冬

それからの電話は、毎回、受話器を取る前の独り言から始まりました。

「言わない、言わない」

十二月の電話は、七分でした。

直樹が、会社の忘年会で幹事をした話をしました。

二月の電話は、九分でした。

雪で電車が止まって、会社に泊まった話をしました。

私は、「そういえば」を何度も飲みこみました。

飲みこむたびに、胸のあたりが重くなりました。

言わないことが、こんなに体力のいることだとは知りませんでした。

一度だけ、電話を切ったあとで、台所の椅子に座りこんだことがあります。

「今日も、言わなかった」

口に出してみると、自分をほめたいのか、責めたいのか、よく分かりませんでした。

居間から夫が「どうだった」と声をかけてきました。

「九分」

「長くなったな」

夫はそれだけ言って、またテレビのほうを向きました。

三月の末、公民館の体操教室で、房江さんに聞かれました。

房江さんは、同じ町内で三十年のつきあいがある人です。

「直樹くん、まだなの」

「さあ。最近、聞いてないの」

房江さんは、目を丸くしました。

「えらいわねえ。私なんて、娘に会うたびに言っちゃって。この前なんか、電話に出てくれなかったわよ」

房江さんは笑っていましたが、少し寂しそうでもありました。

「えらいんじゃないのよ。言いたいのを、我慢してるだけ」

私がそう言うと、房江さんは「それが、えらいのよ」と言いました。

その夜は、なかなか寝つけませんでした。

このまま一年たって、何も変わらなかったらどうしよう。

そう考えると、我慢していることに意味があるのか、分からなくなりました。

四月の電話で、直樹が言いました。

「来月、同期の結婚式でさ。受付、頼まれちゃって」

来た、と思いました。

口のすぐそこまで、「あんたは」が出かかっていました。

私は、台所のテーブルの角をぎゅっと握りました。

「……スーツ、クリーニングに出しときなさいよ」

電話の向こうで、直樹が笑いました。

「母さん、それ毎回言うよね」

その日の通話時間は、十二分でした。

夫のスマホの写真

五月の連休に、夫がスマホを差し出してきました。

「これ、あいつから来たぞ」

写真が一枚ありました。

白いご飯の上に、赤い粒の散った調味料がかかっていて、その横に、コンビニの唐揚げが並んでいました。

その下に、直樹の文字がありました。

「これ、どこで売ってるの。なくなりそう」

「なんで、お父さんに聞くのかしら」

私が言うと、夫は少し困った顔で笑いました。

「お前に聞くと、長くなると思ったんだろ」

私も笑ってしまいました。

夫と直樹が、ときどき連絡をとっていることは、そのとき初めて知りました。

野球の結果や、網戸の張り替えの道具の話をしているのだそうです。

「あいつ、この前言ってたぞ」

夫は、スマホをしまいながら言いました。

「最近、母さんとの電話が楽だって」

私は返事ができずに、流しのほうを向きました。

夕方で、窓の外の空が、少しだけ赤くなっていました。

一年目の十月

今年の十月、また日曜の夜七時になりました。

約束の一年です。

受話器を取る前に、いつもの独り言を言いかけて、やめました。

もう、言わなくてもいい気がしたのです。

言いたくなくなったわけではありません。

結婚のことは、今も気になります。

佐藤さんのところに孫が生まれたと聞いた日には、夜、布団の中で考えてしまいます。

気にならない母親になれたわけでは、ないのです。

ただ、気になっていることと、それを口に出すことは、別にしておけるのだと分かりました。

母が、そうしていたように。

電話は、仕事の話から始まりました。

直樹は、春から後輩を二人任されたのだと言いました。

「教えるのって、難しいんだよ。言いすぎると、黙っちゃうし」

「そうね。言いすぎると、黙っちゃうのよね」

私が同じことを繰り返すと、直樹は「なんで母さんがしみじみしてんの」と笑いました。

それから、夫の膝の話と、庭の柿の話をしました。

高校の野球部が、今年も秋の大会に出ているという話もしました。

しばらくして、直樹が言いました。

「あのさ、母さん」

私は、少し息を止めました。

一年前なら、この「あのさ」のあとに続く言葉を、勝手に一つだけ思い浮かべていたと思います。

「この前の、また送って。赤いやつ。あれがあると、ご飯が進むんだよ」

私は、声を出して笑いました。

「二本入れとくわね」

「助かる。あと、包んである新聞。あれ、地元のだろ。つい、全部読んじゃうんだよね」

切るとき、画面の通話時間は、十六分でした。

最後に、直樹が言いました。

「母さんも、何か欲しいものあったら言ってよ」

私は少し考えてから、言いました。

「じゃあ、また電話してちょうだい。長いのを」

あなたなら、どうしますか?

気になっていることを、口に出さずにいられる期間は、どれくらいでしょうか。一か月でしょうか、一年でしょうか。言わずにいるあいだ、その気持ちをどこに置いておくかを、先に決めておくのも一つの方法かもしれません。

子どもに何かを送るとしたら、あなたは何を選びますか。子どもが今どんな台所で、どんな夕食をとっているのかを、あなたはどれくらい知っているでしょうか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 遠回しでも、聞いていることは伝わっている

正面から聞かなければ、相手に負担はかけていないと思いがちです。

けれど、「そういえば」から始まる誰かの結婚の話は、毎回、同じ場所に着地します。

電話が短くなっていくのは、相手が冷たくなったからではなく、その着地点が見えているからかもしれません。

2. 気になることと、口に出すことは、分けておける

子どもの結婚が気になるのは、親として自然な気持ちです。

その気持ちを消そうとしなくてもいいのだと思います。

ただ、気持ちを持っていることと、それを相手に渡すことは、別のことです。

3. 送るものは、相手の暮らしから選ぶ

こちらが送りたいものと、相手が暮らしの中で使えるものは、同じとは限りません。

一人分の量、使い切れる大きさ、手間のかからなさ。

相手の台所を思い浮かべて選ぶと、送るものが、そのまま会話の入口になることがあります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(一人で使い切れる小さな瓶・常温で日持ちする・ご飯やおかずにかけるだけで使える)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

一人暮らしの息子に送る、小瓶の調味料

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  • 販売ページの記載:具入りのラー油・110g×6個
  • 販売ページの記載:主な原材料は食用とうもろこし油・赤唐辛子・フライドガーリック・食用ごま油など。一部に小麦・アーモンド・ごま・大豆を含む
  • 選ぶときは、一瓶の量・入り数・原材料を見ると選びやすくなります。食物アレルギーのある方に送る場合は、原材料の表示をご確認ください。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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