子どもが巣立ったあと
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娘の家に、行っていいのか迷う61歳。「いつでも来てね」に二年返事ができなかった私が、先に宿を取ってから送った一行

駅の改札で手を振って見送る女性の後ろ姿
kuroko

「お母さん、いつでも来てね。うちは相変わらず狭いけど笑」

娘の由佳から、そのLINEが届いたのは、五月の連休の終わりでした。

その前に私が送ったのは、庭のつつじの写真一枚です。

つつじの返事に、「いつでも来てね」がついてきました。

私は、台所の椅子に座って、返事を打ちました。

「ありがとう。そのうちね」

送ってから、画面の上のほうを少しさかのぼりました。

去年の秋にも、同じやりとりがありました。

「いつでも来てね」

「ありがとう。そのうちね」

その前の春にも、ありました。

「そのうち」が、もう二年続いていました。

新幹線で二時間

私は六十一歳です。

山に囲まれた盆地の町の、駅から車で十分の二階建てに、夫の隆と二人で暮らしています。

夫は六十三歳で、農機具の販売店で、今も週に四日、修理の仕事をしています。

娘の由佳は三十四歳です。

四年前に結婚して、新幹線で二時間の町のマンションに住んでいます。

夫の圭介さんは三十六歳で、家で仕事をすることが多い人です。

子どもはまだいません。

そのことについて、私は聞かないと決めています。

由佳は、小さいころから手のかからない子でした。

高校を出て町を離れてからも、月に一度は電話をくれます。

仲が悪いわけではありません。

電話では、よく笑います。

ただ、私は二年間、娘の家に行っていませんでした。

「そのうちね」と返すたびに、胸のどこかがちくりとします。

でも、行くと言えば、娘は布団を用意して、掃除をして、仕事の予定をずらすでしょう。

それを思うと、また「そのうち」と打ってしまうのです。

二年前の、三泊

二年前の十月、私は一度だけ、娘の家に泊まりに行きました。

三泊四日でした。

娘の家は二部屋で、一つは寝室、もう一つは圭介さんの仕事部屋です。

一日目の夜、娘は寝室のドアを開けて言いました。

「お母さんは、ベッド使って。私たちはリビングで寝るから」

「いいわよ、私、床で。毛布があれば寝られるから」

「だめ。お母さんは腰が冷えるでしょう。私たちは平気」

押し問答のすえ、私はベッドで寝ました。

娘と圭介さんは、リビングの床に冬の毛布を敷いて寝ていました。

次の朝、圭介さんが、腰に手を当てて伸びをしていました。

私の顔を見ると、すぐに手を下ろして、「おはようございます」と笑いました。

昼間、二人が出かけているあいだ、私は台所の引き出しを片づけました。

せめて何か役に立ちたかったのです。

箸とスプーンを分けて、使っていない保存容器を下の段にまとめました。

夕方、帰ってきた娘は、引き出しを開けて、少し黙りました。

「お母さん、ありがとう。……でも、ここ、圭介が決めた並びだったの。あの人、料理するから」

「あら、ごめんなさい。戻しておくわ」

「いいよいいよ、大丈夫」

娘はそう言って、夜のうちに、自分で元に戻していました。

三日目の夜、お風呂から出たとき、リビングから娘の声が聞こえました。

電話をしていたのです。

「ごめん、今週はお母さんが来てるから、土曜は無理なの。また今度ね」

私は、脱衣所で髪を拭きながら、動けなくなりました。

友達との約束を、私のために断っていたのです。

帰りの日、駅のホームで、娘は笑って言いました。

「また来てね」

その目の下が、少しくすんでいるように見えました。

新幹線の窓から、ホームの娘が小さくなっていくのを見ながら、私は決めました。

呼ばれても、もう泊まりには行かない。

私が行けば、あの子のベッドがなくなって、あの子の週末がなくなる。

それから、二年です。

「そのうち」の二年

「行けばいいじゃないか」

夫は、何度かそう言いました。

「あなたは行かないの」

「俺が行ったら、もっと狭いだろう。お前が行ってこい」

夫は、娘の家に一度しか行ったことがありません。

結婚した年の夏に、日帰りで顔を見に行っただけです。

「泊まるところがないのよ。二部屋しかないんだから」

「日帰りにすればいい」

「新幹線で二時間よ。日帰りだと、向こうにいられるのは四時間くらい。それで、お昼の支度をさせて、片づけをさせて、帰るの?」

夫は、それ以上は言いませんでした。

私の中では、娘の家に行くことは、泊まるか、行かないかの、どちらかしかありませんでした。

泊まれば、迷惑をかける。

日帰りでは、あわただしくて、かえって気を使わせる。

だから、行かない。

それが、いちばん迷惑をかけない方法だと思っていました。

娘から「いつでも来てね」が届くたびに、私はそれを、娘のやさしさだと受け取っていました。

言わないと悪いから、言ってくれているのだと。

圭介さんの電話

九月のはじめ、夫の畑でとれた梨を、娘の家に送りました。

二日後の夜、電話が鳴りました。

出ると、圭介さんでした。

「お義母さん、梨、ありがとうございました。由佳、今お風呂なんで、代わりに」

「わざわざありがとう。元気にしてる?」

「元気です。二人で、もう半分食べちゃいました」

少し世間話をしたあと、圭介さんが、ふと声の調子を変えました。

「あの、お義母さん。うちの近くに、いい宿があるんですよ」

「宿?」

「駅の裏の、川沿いの古い宿です。うちから歩いて十分くらいで。僕の両親も、来るときは、いつもそこに泊まるんです」

私は、受話器を持ち直しました。

「夜は向こうでゆっくりして、昼にうちに来て、ごはんを食べて帰るんです。うちの親、それがいいって。僕らも気が楽だし」

圭介さんは、少し言いよどんでから、続けました。

「由佳が、ちょっと気にしてて」

「何を?」

「お義母さんが来なくなったの、自分が何かしたからじゃないかって。引き出しのこと、言い方がきつかったかなって、たまに言うんです」

私は、しばらく声が出ませんでした。

引き出しのことを気にしていたのは、私のほうだと思っていたのです。

「そんなこと、全然ないのよ」

「そうですよね。僕もそう言ってるんですけど」

電話を切ってから、私は台所のテーブルで、二年分のLINEを読み返しました。

「いつでも来てね」

「いつでも来てね」

「いつでも来てね」

言わないと悪いから言っている言葉だと、私は思っていました。

でも、三回も同じことを書く子ではありません。

あの子は、たぶん、本当に待っていたのです。

泊まるか、行かないか。

二つしかないと思っていたのは、私だけでした。

先に宿を

その晩、夫が寝たあとで、私はスマホで、娘の町の宿を探しました。

圭介さんが言っていた宿の名前は、聞かないでおきました。

圭介さんのご両親と、同じ宿に泊まるのは、なんとなく気が引けたのです。

自分で、探してみたかったのもあります。

一人で予約をするのは、初めてでした。

画面の人数の欄を「1」にすると、いくつか候補が出てきました。

大きなホテルは、駅の表側に集まっていました。

私が決めた条件は、三つです。

娘の家から、歩いて行ける距離であること。

一人でも、一泊から予約できること。

夕食はつけず、素泊まりか朝食だけであること。

夜は、自分一人で、その町を歩いてみたかったのです。

見つけたのは、川沿いの小さな宿でした。

娘の家から、地図で見て十五分ほどです。

予約のボタンを押す前に、三回、日付を確かめました。

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予約の確認のメールが届いてから、由佳にLINEを送りました。

「十一月の八日に、そちらの町に一泊します。宿はもう取りました。九日のお昼だけ、会えますか。忙しかったら、会わずに帰るので気にしないで」

送ってから、胸がどきどきしました。

娘に、こちらの予定を先に渡したのは、初めてだったかもしれません。

返事は、五分もしないうちに来ました。

「え! 来るの! 九日、空いてる。お昼、うちで食べよう。圭介が何か作るって」

その下に、両手を上げた猫のスタンプがついていました。

川沿いの、一人の夜

十一月の八日、夫が駅まで車で送ってくれました。

後ろの座席に、紙袋が一つ置いてありました。

「由佳に。持ってけ」

中身は、夫が軒下で作った干し柿でした。

二十個ほど、新聞紙に包んでありました。

「あなたが持っていけばいいのに」

「俺は店がある。……それに、二人で行ったら、あいつは余計に気を使うだろう」

夫はそう言って、改札の前で車を止めました。

娘の町に着いたのは、午後の三時でした。

宿に荷物を預けて、私は一人で、川沿いの道を歩きました。

娘が毎日通っている道です。

娘が話していたパン屋の前を通り、娘がときどき行くという図書館の前を通りました。

ここで、あの子は暮らしているのだと思いました。

電話の声だけでは分からなかった町が、少しずつ形になっていきました。

夕方、商店街の小さな定食屋で、一人で夕食をとりました。

宿に戻って、窓から暗い川を見ていると、少しだけ寂しくなりました。

歩いて十五分のところに娘がいるのに、私は一人で、知らない部屋にいるのです。

でも、その寂しさは、二年前の脱衣所で感じたものとは違っていました。

誰にも、ベッドを譲らせていない。

誰の週末も、取り上げていない。

それだけで、布団に入ってからも、胸のあたりが軽かったのです。

九時を過ぎたころ、夫に電話をかけました。

「着いたか」

「着いたわよ。夕方、由佳の町を歩いてきたの」

「由佳には会ったのか」

「まだ。明日のお昼」

「なんだ、せっかく行って、今夜は会わないのか」

「会わないの。今夜は、私一人」

夫は、少し黙ってから、笑ったような声を出しました。

「変なやつだな」

「あなたが言ったのよ。日帰りにすればいいって。これは、その半分」

「半分か」

「泊まるのと、日帰りの、あいだ」

夫は「そうか」と言って、それから、店の軽トラックのタイヤの話を少しだけして、電話を切りました。

窓の外で、川の音がしていました。

二年前の夜、娘の家のベッドで、私は一睡もできずに、リビングの床で寝返りを打つ音を聞いていました。

今夜は、知らない町の、知らない部屋で、川の音を聞いています。

どちらが寂しいのか、自分でもよく分かりませんでした。

ただ、明日のお昼のことを考えると、布団の中で、少しだけ顔がゆるみました。

九日の、お昼

次の日のお昼、娘の家のチャイムを鳴らしました。

ドアを開けた由佳は、エプロンをしていました。

「いらっしゃい。圭介が張り切ってるよ」

台所では、圭介さんが鍋をかき回していました。

「お義母さん、座っててください。今日は僕の当番なんで」

私は、あの引き出しのほうを見ないようにして、テーブルにつきました。

煮込みのスープと、パンと、サラダが並びました。

干し柿を渡すと、由佳は袋をのぞいて笑いました。

「お父さんの干し柿だ。今年も軒下にぶら下がってるの?」

「ぶら下がってるわよ。三十個」

三人で、三時間ほど話しました。

私は台所に立ちませんでした。

皿を下げようとすると、圭介さんに「当番なんで」と止められました。

帰りぎわ、玄関で靴をはいていると、由佳が言いました。

「お母さん、宿、どうだった?」

「よかったわよ。川の音が聞こえて」

「そっか。……よかった」

由佳は、それ以上は何も言いませんでした。

引き出しのことも、二年のことも、どちらも口にしませんでした。

私も、聞きませんでした。

駅まで、由佳が歩いて送ってくれました。

改札の前で、由佳は「また来てね」とは言わずに、「次、いつにする?」と聞きました。

二回目の、帰りぎわ

二回目は、翌年の四月でした。

同じ川沿いの宿に、また一泊しました。

今度は、自分から宿の人に「前にも来ました」と言えました。

お昼は、娘と二人で、川沿いの桜の下を歩きました。

圭介さんは仕事で出かけていて、娘の家に戻ったのは、夕方の四時でした。

新幹線の時間まで、一時間あります。

お茶を飲んでいると、由佳が立ち上がって、寝室の隣の押し入れを開けました。

「お母さん、ちょっと見て」

押し入れの下の段に、布団が一組、入っていました。

透明な袋に入ったまま、値札もついたままでした。

「これ、二年前に買ったの。お母さんが帰ったあと、すぐ」

「……私の?」

「うん。圭介が、次はお義母さんをベッドから追い出さなくていいようにって。床に敷けば、仕事部屋でも寝られるから」

娘は、少し照れたように笑いました。

「一回も出番がなかったけど」

私は、何も言えませんでした。

あの二年のあいだ、私は「行かないこと」で娘に気を使っていると思っていました。

その間ずっと、この布団は、袋のまま、ここで待っていたのです。

「宿もいいけどさ」

由佳は押し入れを閉めながら、言いました。

「次は、泊まっていってよ」

私は「うん」とも「ううん」とも言えずに、ただうなずきました。

次に行くとき、宿を取るのか、この家に泊まるのか。

まだ、決めていません。

帰りの新幹線の中で、私は何度も、あの押し入れの下の段を思い出していました。

透明な袋の中で、白い布団は四つにたたまれていました。

袋の口は、買ったときのテープで留めたままでした。

その上に、由佳の字で「お母さん用」と書いた付箋が一枚、貼ってありました。

付箋の端は、二年分、少しだけ反り返っていました。

あなたなら、どうしますか?

子どもの家に行きたいのに迷っているとき、あなたの頭の中には、いくつの行き方がありますか。

泊まるか、行かないか、のほかに、相手の負担を少し減らせる方法を、一つ考えられますか。

この物語から、考えたいこと

1. 「いつでも来てね」は、本当のことかもしれない

言わないと悪いから言ってくれている、と受け取ると、行かないことが相手への気づかいになります。

でも、同じ言葉を何度もくれるなら、それはただ、待っているという意味なのかもしれません。

2. 行かないことも、相手に気を使わせている

迷惑をかけないために行かない、という選択は、相手からは「何かしてしまったのでは」と見えることがあります。

遠慮は、こちらが思っているほど、相手に伝わらないものです。

3. こちらの予定を先に渡す

宿を自分で取り、会える時間だけを伝えると、相手は「迎える準備」ではなく「会う予定」を考えればよくなります。

泊まるか行かないかの二つのあいだに、いくつもの行き方があります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

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この記事について

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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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