息子の嫁に気を使うのに疲れた60代。帰ったあと三日も「あの一言」を考えていた65歳の私が、ごちそうを一品だけにした秋
台所の引き出しの、輪ゴムや保冷剤の入った段のいちばん奥に、四つ折りのメモが一枚入っています。
広告の裏に、ボールペンで書いたものです。
「保育園のことは、こちらから聞かない」
「味つけのことは、言わない」
「千夏さんの仕事のことは、聞かれたら『えらいわね』だけ」
「こはるの字がきれいでも、『和樹は』と比べない」
「帰り際に『また来てね』を三回言わない」
いちばん下の行だけ、インクの色が違います。
去年のお正月のあとに、書き足した行です。
息子の家族が帰ったあと、私はいつもこのメモを出して、一行ずつ指でなぞります。
言わなかったか。
言ってしまったか。
言ってしまった日は、三日くらい、台所で手が止まります。
来る前の日の、七品
私は六十五歳です。
山を切りひらいて造った住宅地の、坂の上の一戸建てに、夫と二人で住んでいます。
夫の誠一は六十八歳で、四十年、町の製材所に勤めていました。
いまは、家の裏の畑で、玉ねぎやなすを作っています。
一人息子の和樹は三十五歳で、車で三時間の町に住んでいます。
お嫁さんの千夏さんと、小学一年生のこはる、四歳の陽太の四人家族です。
年に三回、ゴールデンウィークと、お盆と、お正月に、車で帰ってきてくれます。
帰ってくる日が決まると、私の頭の中は、それだけになります。
二日前には、客間の布団を干して、網戸を外して洗います。
前の日には、朝からお米を研いで、ちらし寿司の具を煮て、茶碗蒸しの卵をこして、唐揚げの肉を漬けこみます。
煮しめ、酢の物、ポテトサラダ。
数えると、いつも七品になりました。
七品のうち、子どもたちが食べられる物を三つ。
千夏さんが好きそうな物を二つ。
和樹と夫の物を二つ。
そうやって考えていると、前の晩は、布団に入っても眠れません。
台所で鍋の火を止めたか、何度も起きて見に行きます。
「そんなに作らなくても、あいつらは食べきれんだろう」
夫は、毎回そう言います。
「だって、せっかく三時間もかけて来てくれるのよ」
私は、毎回そう答えました。
五年前のお盆
メモを書き始めたのは、五年前のお盆からです。
こはるが、二歳になったばかりのころでした。
夕飯のあと、居間でこはるがおむつを替えてもらっているのを見て、私はつい言ってしまいました。
「こはるちゃん、まだおむつなのね。和樹は、このころにはもう取れてたけど」
悪気は、まったくありませんでした。
ただ、思い出したことを口にしただけでした。
千夏さんは、おむつのテープを留めながら、小さく言いました。
「……すみません。保育園の先生とも、相談してるところで」
それから、「ちょっと車に忘れ物を」と言って、外に出ていきました。
戻ってきたのは、二十分ほどしてからでした。
その晩、客間から、和樹と千夏さんの話す声が、低く聞こえていました。
何を話しているのかは、分かりませんでした。
三日後、和樹から電話がありました。
「母さん、あのさ。こはるのおむつの話、千夏、けっこう気にしてたよ」
「ああ、あれ。そんなつもりじゃなかったのよ」
「分かってる。分かってるけど、千夏はそういうの、全部自分のせいだと思っちゃうんだよ」
電話を切ってから、私は台所の椅子に座って、広告の裏にボールペンで書きました。
「保育園のことは、こちらから聞かない」
それが、一行目でした。
それから五年、行は少しずつ増えていきました。
一行増えるたびに、私は千夏さんの前で、話すことが減っていきました。
減った分を埋めるように、料理の品数が増えていったのかもしれません。
「次は、ごちそう作らないでくださいね」
今年のお盆も、七品を作りました。
千夏さんは、いつものように台所に来て、「何か手伝います」と言ってくれました。
私は、いつものように「いいのよ、座ってて」と言いました。
千夏さんは、いつものように、それでも洗い物をしてくれました。
二泊して、帰る日の朝のことです。
車に荷物を積み終わって、こはると陽太がチャイルドシートに乗ったあと、千夏さんが玄関の前で私のほうに向き直りました。
「お義母さん、今回もごちそうさまでした」
「いいえ、何もなくて」
千夏さんは、少し笑って、それから言いました。
「お義母さん、次は、ごちそう作らないでくださいね。私たち、気を使っちゃうので」
私は、何と答えたのか覚えていません。
たぶん、「そうね」とか何とか、笑って言ったのだと思います。
車が坂を下りていくのを見送ってから、家に入って、台所の引き出しを開けました。
メモを広げて、一行ずつ指でなぞりました。
どの行も、守ったはずでした。
それなのに、「気を使っちゃう」と言われたのです。
その日から三日間、私は千夏さんの言葉を、何度も思い返しました。
作りすぎたのが、いけなかったのか。
「座ってて」が、よくなかったのか。
それとも、私がいること自体が、気を使わせているのか。
夜、夫が風呂から上がってきて、台所の電気がついているのを見て言いました。
「まだ起きてるのか」
「千夏さんに言われたこと、考えてたの」
「ごちそう作るなって話か」
夫は、冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注ぎました。
「あれは、言葉のとおりだろう」
「言葉のとおりって」
「お前、あいつらが来る前の晩、毎回寝てないだろう。千夏さんも、それを知ってるんだよ。夜中に台所の電気がついてるの、客間から見えるからな」
私は、何も言えませんでした。
気づかれているとは、思っていませんでした。
坂の下の、朝の散歩
四日目の朝、私は久しぶりに、坂の下の川沿いを歩きに行きました。
五十代の終わりから続けている、朝の散歩です。
でも、息子たちが来る前後の一週間は、いつも休んでいました。
川沿いのベンチのところで、散歩仲間の大西さんに会いました。
大西さんは私より四つ上で、毎朝、同じ時刻に同じベンチで休んでいる人です。
「あら、久しぶり。お盆は、にぎやかだったんでしょう」
私は、千夏さんに言われたことを話しました。
三日間考えたことも、話しました。
大西さんは、川のほうを見ながら、しばらく黙って聞いていました。
それから、こう言いました。
「そのお嫁さん、『次は』って言ったんでしょう」
「ええ」
「次も来るつもりなのよ。来るつもりの人が、来やすくしてほしいって言ったのよ」
私は、大西さんの顔を見ました。
「嫌われてたら、何も言わないで、来なくなるだけよ。うちの親戚にもいたもの、そういうの」
大西さんは、立ち上がって、腰を伸ばしました。
「あなた、たぶん、ごちそうの数で気持ちを見せようとしてたのね。お嫁さんのほうは、数えるのに疲れちゃったのよ」
帰り道、坂を上りながら、私はその言葉を何度も思い返していました。
ごちそうの数で、気持ちを見せようとしていた。
言いたいことを飲みこんだ分を、品数で埋めていた。
そう言われると、そうだったのかもしれません。
一品と、一つだけ
その週のうちに、私は二つのことを決めました。
一つ目は、ごちそうを一品だけにすること。
私が作るのは、和樹が子どものころから好きだった豚汁だけ。
ほかは、坂の下の商店街のお惣菜屋さんで、唐揚げと太巻きを買うことにしました。
二つ目は、帰りに持たせる物を、一つだけにすることです。
いつもは、畑の野菜と、漬物と、子どもたちのお菓子を、紙袋に三つも四つも詰めていました。
それを、千夏さんの好きな物ひとつだけにしようと思ったのです。
その晩、夫に話すと、夫は新聞をたたんで言いました。
「豚汁だけか」
「手抜きだと思う?」
「いや。俺は、あれがいちばんうまいと思ってた。七品の中で」
「そんなこと、一度も言わなかったじゃない」
「言ったら、お前、豚汁を八品目にしただろう」
私は、言い返せずに笑ってしまいました。
ところが、千夏さんの好きな物が、私には分かりませんでした。
八年も一緒に食卓を囲んできたのに、です。
考えているうちに、お盆の夜のことを思い出しました。
みんなが寝たあと、台所に水を飲みに行くと、千夏さんが一人で、テーブルに座っていました。
夫が製材所の昔の仲間の集まりでもらってきた羊羹を、薄く一切れ切って、お茶と一緒に食べていました。
私に気づくと、千夏さんは慌てて立ち上がりました。
「すみません、勝手に」
「いいのよ、いくらでも食べて」
「私、羊羹が好きなんです。祖母の家に、いつもあって」
千夏さんが自分のことを話すのを、私はそのとき初めて聞いた気がしました。
それなのに、次の日の朝には、七品の片づけに追われて、すっかり忘れていたのです。
十月の連休に、また帰ってくると連絡がありました。
私は、駅前の和菓子の売り場で、羊羹を選ぶことにしました。
選ぶ条件は、三つにしました。
一つ目は、日持ちすること。
三時間かけて車で持ち帰って、家に置いておいても、急いで食べなくていい物です。
二つ目は、常温で置いておけること。
車の中でも、帰ってからの台所でも、冷蔵庫の場所を取らないほうがいいと思いました。
三つ目は、大きな一本ではなく、小さく分かれていること。
千夏さんが、子どもたちが寝たあとに、一人で一つ開けられるように。
広告
売り場の人が、「ご進物ですか」と聞きました。
「いいえ。お嫁さんが、好きなので」
そう言ってから、少し恥ずかしくなりました。
ご進物より、ずっと軽い理由です。
でも、それがいちばん本当の理由でした。
豚汁と、ベンチの話
十月の連休の初日、私は朝七時に家を出て、川沿いを歩きました。
息子たちが着くのは、お昼の予定です。
いつもなら、その時間は台所で茶碗蒸しを蒸しているころでした。
ベンチには、いつものように大西さんがいました。
「今日でしょう、来るの。こんなところにいていいの」
「豚汁だけだから」
大西さんは、声を出して笑いました。
十二時すぎに、車が坂を上がってきました。
こはるが先に降りてきて、「おばあちゃん、背がのびたよ」と言いました。
千夏さんは、玄関で「お世話になります」と頭を下げてから、台所をのぞいて、少し不思議そうな顔をしました。
コンロの上には、豚汁の大きな鍋が一つあるだけでした。
「お義母さん、今日は」
「今日は、これだけ。あとは、下のお店の唐揚げと太巻き」
千夏さんは、何か言いかけて、それから笑いました。
「じゃあ、私、お皿だけ出しますね」
その夜、私は一度も、台所の電気をつけに起きませんでした。
言いたいことは、やっぱりいくつかありました。
陽太が豚汁の人参をよけていたこととか、千夏さんが髪を短くしていたこととか。
一つだけ、「陽太くん、人参、嫌いなの」と言ってしまいました。
千夏さんは、「最近なんです。保育園でも残すみたいで」と、普通の顔で答えてくれました。
それでも、その夜、私は布団の中で、その一言を少しだけ考えました。
三日ではなく、一晩だけでした。
帰る日の朝、私は、紙袋を一つだけ千夏さんに渡しました。
「これ、千夏さんに。子どもたちが寝たあとにでも」
千夏さんは、袋の中をのぞいて、少しのあいだ黙っていました。
「……覚えててくれたんですか。お盆の夜の」
「覚えてたんじゃなくて、思い出したのよ。一か月かかって」
千夏さんは、声を出して笑いました。
私が千夏さんの笑い声をちゃんと聞いたのは、そのときが初めてだったかもしれません。
年が明けて
大晦日の夕方、息子たちは、また車で三時間かけて帰ってきました。
私は、元日の朝も、川沿いを歩いてから、お雑煮の鍋を一つだけ火にかけました。
和樹が、台所の入り口で、鍋をのぞいて言いました。
「母さん、なんか今回、顔が楽そうだね」
「そう?」
「前は、俺らが着いたとき、いつも目が赤かったから。寝てないんだなって、千夏と話してた」
息子にまで気づかれていたとは、知りませんでした。
私は、お玉を持ったまま、「お正月だから、ゆっくり寝たのよ」とだけ答えました。
その日の午後、千夏さんが、細長い箱を私に差し出しました。
「これ、お義母さんと食べたくて。私の祖母の町のお店のなんです」
包みを開けると、羊羹が入っていました。
「お義母さんの好きなもの、私、まだ知らないので。とりあえず、私の好きなものを」
私は、箱を持ったまま、少し笑ってしまいました。
八年たって、ようやく、お互いの好きなものを一つずつ探しはじめたのです。
その夜、みんなが寝たあと、私と千夏さんは台所のテーブルで、その羊羹を薄く切って食べました。
「お義母さんは、何が好きなんですか」
千夏さんに聞かれて、私はすぐに答えられませんでした。
七品の献立ばかり考えてきて、自分の好きなものを、長いあいだ考えたことがなかったのです。
「……今度までに、考えておくわ」
引き出しの奥のメモは、まだ捨てていません。
でも、お盆のあと、行を書き足すことはやめました。
一月が過ぎて、裏の畑の霜柱が、朝の日に溶けるのが早くなりました。
二月の終わりには、坂の途中の梅が、ひとつ、ふたつと咲きはじめました。
ゴールデンウィークまで、あと二か月あります。
それまでに、自分の好きなものを一つ、決めておこうと思っています。
あなたなら、どうしますか?
家族が来るとき、あなたが「これだけはしてあげたい」と思って準備していることは何ですか。それは、相手が本当に望んでいることでしょうか。それとも、言えない気持ちを埋めるためのものでしょうか。
言ってしまった一言を、何日も考え続けてしまうことはありますか。その一言を、相手は今も覚えていると思いますか。
この物語から、考えたいこと
1. もてなしの量で、気持ちを伝えようとしていないか
品数を増やすのは、歓迎の気持ちからです。
でも、受け取る側は、その量に見合うお礼や気づかいを返さなければ、と感じることがあります。
量を減らしても、気持ちまで減るわけではありません。
2. 「言わないこと」を増やすほど、話せることが減っていく
失敗した一言をくり返さないために、言わないことを決めるのは大切です。
ただ、それが増えすぎると、相手の前で話せることがなくなってしまいます。
言わないことを数えるより、相手のことを一つ知ろうとするほうが、距離が縮まることもあります。
3. 相手の好きなものを、一つ知っているか
長く家族でいても、お嫁さんの好きなものを知らないことはあります。
聞けば早いことでも、聞けないまま何年もたつことがあります。
一つ知ると、渡すものも、話すことも変わってきます。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(日持ちする・常温で置いておける・大きな一本ではなく小さく分かれている)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
車で持ち帰っても急がなくていい、小分けの羊羹
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- 販売ページの記載:小形羊羹5本入り(5種類が各1本)
- 販売ページの記載:賞味期限は製造から1年、高温多湿を避けて涼しいところで保存
- 販売ページの記載:箱の大きさ 15.2×8.8×2.3cm
- 選ぶときは、賞味期限・保存方法・1本の大きさを見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。