娘と買い物に行かなくなった。「忙しいだろうから」と二年誘えなかった59歳の私が、「私のバッグを一つ選んで」と頼んだ十一月
衣替えの日、押し入れの天袋から、紙袋がひとつ出てきました。
駅ビルに入っている服の店の、白い紙袋です。
持ち手のひもが、指のあたるところだけ、少しけば立っていました。
中には、小さく折りたたんだレシートが二枚、入っていました。
一枚は、その服の店のものです。
ストールが一点と、カットソーが一点。
もう一枚は、同じ駅ビルの喫茶店のものでした。
ホットケーキが二つと、紅茶が二つ。
日付は、どちらも、二年前の十一月の第二土曜日でした。
私は、天袋の前の踏み台に立ったまま、しばらくその二枚を見ていました。
それが、娘と二人で買い物に行った、最後の日でした。
第二土曜日の駅ビル
私は五十九歳です。
地方の町の、駅から歩いて七分の古いマンションの一階に、夫と二人で住んでいます。
一階なので、ベランダの先に、猫の額ほどの庭がついています。
週に三日、市民プールの受付でパートをしています。
夫の正樹は六十二歳で、町の自動車教習所で教官をしています。
土曜日も仕事で、休みは水曜日です。
娘の智美は三十一歳です。
電車で一時間の町で一人暮らしをしながら、小さな設計事務所で働いています。
智美が高校生のころから、毎月第二土曜日は、二人で駅ビルに服を見に行く日でした。
誰が決めたわけでもありません。
最初は、制服の下に着るカーディガンを買いに行ったのがきっかけでした。
それから、なんとなく、毎月の決まりごとになりました。
三軒か四軒、店を回って、何も買わない日もありました。
最後に、喫茶店でホットケーキを一枚ずつ食べて帰ります。
大学生になっても、就職して最初の二年も、その日は続きました。
智美が家を出てからは、月に一度が、季節に一度になりました。
そして、二年前の十一月を最後に、一度も行っていません。
LINEは、ときどきやりとりしています。
智美は、休みの日に作ったごはんの写真や、事務所の近くの猫の写真を送ってきてくれます。
仲が悪くなったわけではないのです。
ただ、「買い物に行かない?」の一言だけが、この二年、どうしても打てませんでした。
「お母さんの好きな服」
二年前の十一月のことを、ときどき思い出します。
その日、智美は、紺色のワンピースを体に当てて、鏡の前に立っていました。
「これ、どうかな。仕事にも着られそうで」
「ちょっと地味じゃない? あなたには、前に着てた明るい色のほうが似合ってたわよ」
智美は、何も言わずにワンピースを戻しました。
次の店で、智美が灰色のセーターを手に取ったときも、私は言いました。
「それ、首のところが詰まりすぎてない?」
三軒目で、智美は何も手に取らなくなりました。
結局、その日に買ったのは、私が「これ、いいじゃない」と言った、からし色のストールと、白いカットソーだけでした。
喫茶店で、ホットケーキを半分ほど食べたところで、智美がフォークを置きました。
「お母さん、あのね」
「うん?」
「お母さんと来ると、自分の服なのに、お母さんの好きな服を探してる気がするんだよね」
責めるような言い方ではありませんでした。
笑いながら、少し困ったように言ったのです。
「そんなつもりじゃ、なかったのよ」
「分かってる。分かってるんだけどさ」
智美は、そう言って、残りのホットケーキを食べました。
帰りの電車で、私たちは、仕事のことや、夫のことを話しました。
服の話は、一度も出ませんでした。
次の月の第二土曜日が近づいたとき、私は誘うのをやめました。
「忙しいだろうから」
夫には、そう言いました。
自分にも、そう言い聞かせました。
本当は、また同じことを言ってしまうのが怖かったのです。
誘って、断られるのも怖かったのです。
「忙しいだろうから」は、そのどちらも見なくてすむ、便利な言葉でした。
ストールの写真
九月の終わりの日曜日、智美からLINEで写真が届きました。
事務所の近くに新しくできたという、パン屋の前で撮った写真です。
智美が、紙袋を顔の横に持ち上げて、少しすました顔で笑っていました。
「新しいパン屋さん。ここのくるみパン、おいしいよ」
私は、写真を大きくして、何度も見ました。
智美の首に、からし色のストールが巻いてありました。
二年前の十一月に、あの店で買ったものです。
私が「これ、いいじゃない」と言った、あのストールでした。
まだ九月で、ストールを巻くには少し早い季節です。
たまたまその日、肌寒かっただけかもしれません。
それでも、私は、スマホを持ったまま、台所の椅子から立ち上がれませんでした。
あの日のことを、智美は嫌な思い出にはしていなかったのかもしれない。
そう思ったのは、二年のあいだで初めてでした。
少し迷ってから、私は返事を打ちました。
「そのストール、まだ使ってくれてるのね」
返事は、五分ほどで来ました。
「え、うん。これ、首がちくちくしないから。お母さんが選んだやつでしょ」
お母さんが選んだやつ。
その一行を、私は何度も読み返しました。
その夜、夫が夕刊を読みながら、ふいに言いました。
「そういえば、智美が正月に帰ってきたとき、お前の鞄の角がすり切れてるって言ってたぞ」
「私の鞄?」
「玄関に置いてあった、茶色いやつだ。あれ、何年使ってるんだって」
十年使っている、肩掛けの鞄です。
角の革がはげて、白っぽくなっていました。
「どうして、そのとき言ってくれなかったの」
「俺に言ったんだよ。お母さんに言うと、気にするからって」
夫は、新聞をめくりながら、それだけ言いました。
プールの受付で
次の週、パート先の市民プールで、同じ受付の水野さんに話してみました。
水野さんは私より三つ上で、娘さんが二人いて、二人とも結婚して遠くに住んでいます。
平日の午後の受付は、お客さんが少なく、話をする時間があります。
「娘と、もう二年も買い物に行ってないの。忙しいだろうから、誘ってないんだけど」
水野さんは、会員証の束を輪ゴムでまとめながら、私の顔を見ました。
「忙しいって、娘さんに聞いたの?」
「聞いてはいないけど」
「じゃあ、それ、娘さんの忙しさじゃなくて、あなたの怖さなんじゃない」
水野さんは、はっきり言う人です。
私は、言い返す言葉が見つかりませんでした。
「分かるわよ。私もそうだったもの。誘って断られたら、立ち直れない気がしてね」
水野さんは、輪ゴムを指に引っかけて、少し笑いました。
「それでね、下の娘に言われたの。『お母さんの誘い方って、付き合ってあげる、なんだよね』って」
「付き合ってあげる?」
「そう。買い物、付き合ってあげようか、って。それだと、娘のほうが、お母さんに付き合ってもらう側になるでしょう。気が重いのよ、向こうも」
水野さんは、受付の窓口の外を見ながら言いました。
「だから私、頼むことにしたの。『お母さんの眼鏡、選んでくれない?』って。頼まれると、人は、来やすいのよ」
私は、夫の言っていた、すり切れた鞄の角のことを思い出していました。
日にちを書いた一行
その晩、私は台所の椅子に座って、スマホを開きました。
「久しぶりに、買い物に行かない?」
打ってから、消しました。
これでは、付き合ってあげる、と同じです。
「お母さん、鞄を買いたいんだけど、一緒に見てくれない?」
これも、消しました。
「一緒に」と書くと、また二人で私の好きなものを探す日になってしまう気がしたのです。
三十分ほどかけて、最後に送ったのは、こういう文でした。
「智美にお願いがあります。お母さんの普段用のバッグを、一つ選んでもらえませんか。十一月九日か、十六日の土曜日。あなたの町の駅まで行きます。お昼は、お母さんがごちそうします」
送信してから、すぐに画面を伏せました。
返事が来たのは、次の日の昼休みでした。
「十六日なら大丈夫。どんなのがいいの? 条件、教えて」
私は、条件と聞いて、少し笑ってしまいました。
設計の仕事をしている智美らしい聞き方でした。
私は、自分で使う場面を思い浮かべながら、条件を三つ書いて送りました。
「肩にかけられること。財布と、小さい水筒と、文庫本が入ること。軽いこと。色と形は、智美に任せます」
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最後の一行を書くのに、少し時間がかかりました。
色と形を人に任せたことは、これまで一度もなかったのです。
改札の前の、十一時
十一月十六日の土曜日、私は、電車で一時間かけて、智美の町の駅に行きました。
出かける前、夫が、玄関で小さな封筒を渡してくれました。
「智美の昼飯代だ。お前が出すって書いたんだろう」
「どうして知ってるの」
「智美から、俺にもLINEが来た。『お母さんに呼び出された』ってな」
封筒には、夫の角ばった字で「昼飯代」と書いてありました。
改札を出ると、智美が、柱の横に立って手を振っていました。
眼鏡をかけて、底の平らな靴をはいていました。
二年前には、見なかった姿です。
「お母さん、その鞄だね。角、すごいことになってる」
智美は、私の肩の茶色い鞄を見て、笑いました。
お昼は、駅の近くの、智美がよく行くという小さな洋食屋さんで、ハンバーグを食べました。
智美は、食べながら、事務所で任されたという小さな図書室の設計の話をしてくれました。
本棚の高さを、子どもの目の高さに合わせて、何度も描き直しているそうです。
「子どもって、一番上の段は見ないんだよ。だから、見てほしい本は、下から二段目に置くの」
私は、「そうなの」と「へえ」だけを言って、聞いていました。
二年前の私なら、「そんなに遅くまで仕事して大丈夫なの」と、きっと口をはさんでいたと思います。
黙って聞いていると、智美の話は、思っていたよりずっと長く続きました。
この子は、こんなふうに仕事の話をする人になっていたのだと、ハンバーグを切りながら思いました。
それから、駅のそばの鞄の店に入りました。
智美は、私の書いた三つの条件を、スマホの画面に出したまま、棚を一つずつ見ていきました。
持ち上げて重さを確かめ、中に手を入れて、ポケットの数を数えています。
私は、少し離れたところで、その背中を見ていました。
二年前とは、立っている場所が逆でした。
十五分ほどして、智美が一つのバッグを持ってきました。
深い緑色の、布と革を合わせた、肩にかけるバッグでした。
私なら、たぶん、選ばない色です。
家にある鞄は、どれも黒か茶色でした。
「これ、どう。文庫本と水筒、入れてみて」
私は、鞄から文庫本と水筒と財布を出して、そのバッグに入れてみました。
三つとも、きちんと収まりました。
肩にかけると、思っていたよりずっと軽く感じられました。
鏡の前に立って、私は、口を開きかけました。
「でも、黒のほうが、何にでも」
そう言いそうになって、口を閉じました。
「……それ、いいわね」
智美は、私の顔をじっと見て、それから吹き出しました。
「お母さん、今、黒って言いかけたでしょ」
「言いかけてないわよ」
「言いかけた。口が『く』の形になってた」
二人で、店の中で、声を出して笑ってしまいました。
レジで、店の人が、新しいバッグを白い紙に包んでくれました。
私は、茶色い鞄の中身を、その場で新しいバッグに移しました。
「次は、お母さんが」
帰りの時間、智美は、駅の改札まで送ってくれました。
改札の前で、智美は、少し言いにくそうに言いました。
「お母さん、次は、お母さんが私の選んでよ」
「私が?」
「冬のコート、探してるんだ。条件は、あとで送るから」
智美は、そう言って、手を振りました。
電車の中で、私は、ひざの上の新しいバッグを何度も見ました。
深い緑色は、窓の外が暗くなると、ほとんど黒のように見えました。
家に帰って、今日のレシートを、財布から出しました。
鞄の店のものと、洋食屋さんのものの二枚です。
私は、押し入れの天袋から、あの白い紙袋をもう一度出しました。
二年前の二枚の横に、今日の二枚を入れました。
夫は、それを見て「なんだ、それ」と聞きました。
「記録よ」
私がそう言うと、夫は「そうか」とだけ言って、新しいバッグを手に取って、しばらく眺めていました。
「緑か。お前が選んだんじゃないな」
「分かる?」
「三十年、黒と茶色しか見たことがない」
夫は、そう言って、少し笑いました。
その夜、智美から、コートの条件が届きました。
「前が開けやすいこと。自転車に乗れる長さ。色はお母さんに任せます」
色はお母さんに任せます、の一行を、私は長いあいだ見ていました。
二年前、私はあの子の服を選ぶたびに、自分の好きな色を押しつけていました。
今度、店の棚の前に立ったとき、私は、あの子の好きな色を選べるのでしょうか。
そもそも、三十一歳の智美が、今どんな色を好きなのか、私はまだ知らないのです。
あなたなら、どうしますか?
「忙しいだろうから」と、声をかけずにいる相手はいませんか。その「忙しい」は、本人から聞いたことでしょうか。それとも、断られるのが怖くて、自分で決めたことでしょうか。
もし「付き合って」ではなく「選んで」と頼むとしたら、あなたは、誰に、何を選んでもらいますか。
この物語から、考えたいこと
1. 「忙しいだろうから」は、誰の理由か
大人になった子どもに遠慮するのは、自然なことです。
でも、その遠慮が、自分の怖さを隠すための言葉になっていることもあります。
相手の忙しさは、聞いてみるまで分かりません。
2. 「付き合って」より「選んで」
一緒に出かけようと誘うと、相手は「付き合う側」になります。
何かを選んでほしいと頼むと、相手には役目ができて、来る理由がはっきりします。
条件を先に伝えておくと、頼まれた側も迷わずにすみます。
3. 相手の「今の好み」を、知っているか
子どもの好みは、学生のころのまま止まって見えがちです。
でも、仕事を持ち、一人で暮らすうちに、好きな色も、はく靴も変わっていきます。
それを知るには、口を出すより、黙って見ている時間のほうが役に立つこともあります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
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