子どもが巣立ったあと
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息子夫婦が泊まりに来ない60代。客用布団を三日干して待っていた64歳の私が、朝ごはんを駅前の喫茶店に移した連休

喫茶店のテーブルで向かい合う二人の手元
kuroko

「今度の連休な、駅前のホテル取ったから」

息子の聡から電話がかかってきたのは、九月のはじめの昼前でした。

私はそのとき、二階のベランダで、客用の布団を叩いていました。

十月の連休に、息子夫婦が帰ってくると聞いていたからです。

一か月も前から干しはじめるのは、さすがに早いと自分でも思っていました。

でも、晴れた日に干しておかないと、落ち着かないのです。

「ホテル?」

「うん。駅の前に新しいのができただろ。あそこ」

「うちに泊まればいいじゃない。布団、いま干してるのよ」

「いや、もう取っちゃったから。夕飯は、そっちで食べるよ」

電話を切ったあと、私は布団たたきを持ったまま、しばらくベランダに立っていました。

干したばかりの布団から、日なたのにおいがしていました。

二階の六畳

私は六十四歳です。

湖のそばの町の、県道沿いの一戸建てに、夫と二人で住んでいます。

二十八年前に建てた家で、二階に六畳の部屋が二つあります。

一つは聡が高校を出るまで使っていた部屋で、もう一つを、私は「客間」と呼んできました。

夫の博之は六十七歳で、三年前まで町の消防署に勤めていました。

三十八年、火事や事故の現場に出てきた人です。

聡は三十六歳で、新幹線で二時間ほどの町で働いています。

五年前に、同じ職場の美和さんと結婚しました。

子どもはまだいません。

息子夫婦が帰ってくるのは、年に二回です。

お盆か秋の連休に一回、お正月に一回。

そのたびに、私は客間の支度をしてきました。

布団は三日続けて干します。

シーツは洗って、アイロンをかけます。

枕カバーは、美和さんが来るようになってから、白い無地のものを新しく買いました。

部屋の隅には、小さなごみ箱と、ティッシュの箱と、コップを一つ置きます。

自分の家に帰ってくるような気持ちで泊まってほしい。

そう思って、五年間、同じ支度を続けてきました。

その布団で、今度は誰も寝ないのです。

三年前の、くしゃみ

泊まらない理由に、心当たりがないわけではありませんでした。

三年前のお正月のことです。

一日目の夜、客間のほうから、くしゃみの音が何度も聞こえてきました。

一回や二回ではありません。

夜中の一時を過ぎても、止まりませんでした。

次の朝、台所に下りてきた美和さんは、目が赤くなっていました。

「おはようございます」

「おはよう。眠れた?」

「はい、あの……少しだけ」

美和さんは、そう言いながら、またくしゃみをしました。

私は、お味噌汁をよそいながら言ってしまいました。

「ちゃんと干したんだけどね。三日も」

言ってから、しまったと思いました。

美和さんは、下を向いて言いました。

「すみません。私、ほこりに弱くて」

「母さん」

聡が、横から小さな声で言いました。

「そういう意味じゃないって」

「分かってるわよ。古い家だから、ごめんなさいね」

笑ったつもりでしたが、声がとがっていたのは、自分でも分かりました。

その朝の食卓は、お箸の音ばかりが聞こえていました。

二人はその年、予定どおり二泊して帰っていきました。

次のお盆も、その次のお正月も、客間に泊まっていきました。

美和さんは、それからくしゃみをしなくなりました。

私は、布団を干す日を三日から四日に増やしていました。

「嫌われたのかしら」

電話のあった日の夕方、私は夫に話しました。

夫は、庭の柿の木の下で、落ちた実を拾っていました。

「聡たち、連休は駅前のホテルに泊まるんですって」

「そうか」

「そうか、って。うちに部屋があるのに」

「向こうが楽なほうでいいじゃないか」

夫は、拾った柿をかごに入れながら言いました。

「嫌われたのかしら。三年前のこと、まだ気にしてるのかもしれない」

「そんなこと、分からんだろう」

夫は、それ以上は何も言いませんでした。

私は、台所で夕飯の支度をしながら、何度も同じことを考えました。

布団が悪かったのか。

私の言い方が悪かったのか。

それとも、この家そのものが、あの子たちにとって居心地が悪いのか。

次の週の木曜日、公民館の卓球の練習のあとで、悦子さんにも話しました。

悦子さんは同じ町内に住んでいて、年は私より三つ上です。

娘さんが二人いて、どちらも結婚して県外に住んでいます。

「うちの上の娘の夫婦もね、駅前に泊まるのよ」

悦子さんは、ラケットを袋にしまいながら言いました。

「最初は、私もがっかりしたわ。部屋も布団もあるのにって」

「それで、どうしたの」

「どうもしないの。夕飯だけ、うちで食べていくのよ。泊まらないと分かってるとね、夕飯の時間が長くなるの」

「長くなる?」

「そう。泊まるときは、みんな、明日もあるからって早く切り上げるでしょう。泊まらないと、ここで話しておこうって思うみたい」

悦子さんは笑って、それから少し真顔になりました。

「あなた、泊まってほしいのは、あの子たちのため? それとも自分のため?」

私は、すぐには答えられませんでした。

仮眠室の布団

その夜、夫がお風呂から上がってきて、居間でお茶を飲んでいるときに、急に言いました。

「消防署にはな、仮眠室ってのがあったんだ」

「知ってるわよ。何年も泊まりの勤務をしてたじゃない」

「あそこの布団は、毎日干してあった。当番が、ちゃんと干すんだ」

夫は、湯のみを両手で持っていました。

「それでもな、若いのは最初の一年、ほとんど眠れん。布団のせいじゃない。自分の布団じゃないと、人は眠れないもんなんだ」

私は、黙って夫の顔を見ました。

「三年前の正月な」

夫は、少し言いにくそうに続けました。

「夜中に便所に起きたら、美和さんが、階段の下のところに座ってた。廊下の電気をつけて、膝を抱えて」

「え?」

「三時ごろだった。眠れないんですって、笑ってた。くしゃみだけじゃなかったんだと思うぞ」

私は、そんなことを一度も聞いていませんでした。

「どうして、言ってくれなかったの」

「言ったら、お前、布団を五日干すだろう」

夫は、それだけ言って、湯のみを台所に持っていきました。

次の日、私は思い切って聡に電話をかけました。

「ねえ、美和さん、うちだと眠れないの?」

聡は、少し黙ってから言いました。

「……父さんから聞いた?」

「ううん。三年前のお正月のこと、急に思い出して」

「美和な、どこに泊まっても、よく眠れないんだよ。向こうの実家に帰っても、夜中に起きてる」

「向こうのお家でも?」

「うん。だから向こうに帰るときも、近くに宿を取ってる。母さんには言いにくくて、ずっと黙ってたんだ。布団、いつも干してくれてるの、知ってたから」

電話を切ってから、私は二階の客間に上がりました。

窓を開けると、湖のほうから、少し冷たい風が入ってきました。

押し入れの中で、干したばかりの布団がふっくらしていました。

誰かのためにと思って続けてきたことが、相手に「言いにくいこと」を増やしていたのかもしれません。

夕飯だけの献立

連休までの一か月、私は布団を干しませんでした。

干さないでいると、晴れた日のたびに、手が落ち着きませんでした。

その代わりに、夕飯のことを考えました。

泊まらないのなら、夕飯は夜の八時半までです。

いつもなら三日に分けて出していた料理を、一晩に全部並べようとして、途中でやめました。

悦子さんの言っていた「夕飯の時間が長くなる」は、料理が多いということではないはずです。

聡の好きな里芋の煮っころがしと、美和さんが前に「おいしい」と言ってくれた、湖でとれた小魚の甘露煮。

あとは、夫が釣ってくるかもしれない魚を焼くだけにしました。

それから、もう一つ決めたことがありました。

次の日の朝ごはんです。

いつもなら、朝は私が六時に起きて、ごはんを炊いて、二人が下りてくるのを待っていました。

でも今度は、二人は駅前のホテルにいます。

わざわざ朝から家まで来てもらうのも、気が引けました。

それで、電話で聡にこう言いました。

「次の日の朝は、お母さん、駅前の喫茶店にいるから。起きたら、来てくれたらいいわ。来なくてもいいのよ」

「喫茶店? 母さんが?」

「そう。一回、行ってみたかったの」

嘘ではありませんでした。

駅前の角にある、朝七時から開いている喫茶店です。

二十八年この町に住んでいて、前を通るたびに気になっていたのに、一度も入ったことがありませんでした。

連休の一週間前、私は下見に行きました。

一人で喫茶店の扉を押すのは、何年ぶりだったでしょう。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

カウンターの中から、私と同じくらいの年の男の人が声をかけてくれました。

窓際の席に座って、トーストとコーヒーを頼みました。

出てきたトーストは、思っていたより厚く切ってありました。

「朝は、何時ごろが空いていますか」

「八時を過ぎると、少し落ち着きますよ。連休は、ホテルのお客さんが見えますけどね」

私は、窓の外の、駅前のホテルの白い壁を見ていました。

あそこに、聡と美和さんが泊まるのです。

八時半の玄関

連休の初日、二人は夕方の五時に着きました。

夫が駅まで車で迎えに行きました。

玄関で、美和さんが紙袋を差し出しました。

「お義母さん、これ、向こうのお菓子です」

「ありがとう。上がって、上がって」

二人とも、いつもより荷物が小さく見えました。

泊まる荷物は、ホテルに置いてきたのです。

その晩の食卓は、たしかに、いつもと少し違いました。

聡は、仕事で新しく任された係のことを、自分から話しました。

美和さんは、里芋を二つおかわりして、作り方を聞いてきました。

夫は、湖で釣った小魚の話を、三回目になっても楽しそうにしていました。

誰も「明日もあるから」とは言いませんでした。

気がつくと、八時を回っていました。

「そろそろ、行こうか」

聡が言って、美和さんが食器を流しまで運んでくれました。

「いいのよ、置いといて」

言いかけて、私は口を閉じました。

「じゃあ、お皿だけ、お願いね」

美和さんは、少しほっとしたような顔で、お皿を重ねていました。

夫が車のキーを持って立ちました。

「送ってくる」

玄関で、二人の背中を見送りました。

車のライトが県道に出て、見えなくなりました。

家の中に戻ると、急に静かになりました。

二階の客間は、電気もつけずに、暗いままです。

そのとき、やっぱり少し寂しいと思いました。

泊まっていってくれたら、この家に、あと二人分の寝息があったのです。

食卓のお皿を洗いながら、私は、明日の朝のことだけを考えるようにしました。

七時の窓際

次の日の朝、私は六時に起きました。

いつもの癖で、お米をとごうとして、手を止めました。

今日は、ごはんを炊かなくていいのです。

夫は、「俺は家で食う」と言って、新聞を広げていました。

「行ってらっしゃい」

夫に見送られて家を出るのは、ずいぶん久しぶりでした。

駅までは、歩いて二十分です。

湖のほうから、薄い霧が上がっていました。

喫茶店に着いたのは、七時を少し過ぎたころでした。

「おはようございます。この前の方ですね」

マスターが、覚えていてくれました。

窓際の、この前と同じ席に座りました。

トーストとコーヒーを頼んで、持ってきた文庫本を開きました。

八時を過ぎたころ、ホテルの自動ドアが開いて、二人が出てくるのが見えました。

美和さんが、先にこちらに気づいて、小さく手を振りました。

「お義母さん、おはようございます」

「おはよう。眠れた?」

言ってしまってから、三年前と同じ言葉だと気づきました。

でも、美和さんは笑って言いました。

「はい。夜中に一回起きましたけど、そのあと、また寝られました」

「そう。よかった」

聡は、私の向かいに座って、店の中を見回していました。

「母さんが、こういう店に一人で座ってるの、初めて見たよ」

「お母さんもね、初めて来たの。この前」

「この前?」

「下見よ。一人で入れるかどうか、分からなかったから」

聡が、声を出して笑いました。

美和さんは、メニューを見ながら言いました。

「ここのトースト、すごく厚いですね」

「そうなの。私も、最初びっくりしたの」

三人で、厚いトーストを食べました。

聡は、ホテルの朝の窓から湖が見えたと話しました。

美和さんは、あの甘露煮を、今度自分でも作ってみたいと言いました。

九時を過ぎて、お店が少し混みはじめたころ、美和さんが言いました。

「お義母さん。お正月も、ここで会えますか」

私は、少し考えてから答えました。

「ここ、お正月もやってるのかしら。聞いておくわね」

帰り道、私は湖のほうを回って、遠回りして帰りました。

押し入れの布団

連休が終わって、二人は帰っていきました。

私は、それですっかり気持ちが晴れたわけではありません。

今でも、二階の客間の前を通ると、少しだけ胸がつかえます。

あの布団に、もう息子夫婦が寝ることはないのかもしれない。

そう思うと、五年分の干した日が、どこへ行ったのか分からなくなります。

でも、美和さんが夜中に階段の下で膝を抱えていたことを思うと、その寂しさを口に出す気にはなれませんでした。

十月の終わりに、喫茶店の前を通ったら、窓に紙が貼ってありました。

「元日のみお休み、二日の朝七時から営業します」

私はそれをスマホで撮って、聡に送りました。

「二日の朝なら、会えます」

返事は、その日の夜に来ました。

「駅前、また取った。二日の朝、行く。美和がトーストの予約してって」

十一月に入ると、湖から吹く風が冷たくなりました。

庭の柿の実は、夫が全部とってしまい、枝には葉っぱが数枚だけ残っています。

晴れた日に、私は一度だけ、客用の布団をベランダに干しました。

誰も寝る予定のない布団です。

それでも、干している間は手が落ち着きました。

夕方、取り込んだ布団は、客間の押し入れではなく、自分の寝室の押し入れにしまいました。

寒くなったら、自分の布団の上に重ねて使うつもりです。

朝の霧が、日ごとに濃くなっていきます。

もうすぐ、この町に初めての霜が下ります。

あなたなら、どうしますか?

子どもの家族が帰ってきたとき、あなたが「当たり前」だと思って続けている支度は何でしょうか。その支度を、相手は本当に頼んでいたでしょうか。一度だけやめてみたら、何が困って、何が困らないと思いますか。

家に泊まらないと言われたとき、真っ先に「嫌われたのかもしれない」と思ったことはありませんか。泊まる場所とは別に、あなたが相手と会える場所や時間を、家の外に一つ作るとしたら、どこを選びますか。

この物語から、考えたいこと

1. 泊まらない理由は、こちらのせいとは限らない

泊まらないと言われると、つい自分の家や自分の言葉に原因を探してしまいます。

でも、どこに泊まってもよく眠れない人もいます。

理由を聞けないまま、自分のせいだと決めてしまうと、相手はますます言いにくくなります。

2. 支度が多いほど、相手は言いにくくなる

布団を干す、シーツにアイロンをかける、部屋を整える。

どれも相手を思っての支度ですが、それを知っている相手ほど「ここでは眠れない」と言えなくなります。

支度を一つ減らすことは、相手に言いやすさを渡すことでもあります。

3. 会う場所は、家の中だけでなくてもいい

夕飯だけ家で食べ、朝は外で会う。

それだけでも、家族が顔を合わせる時間は残ります。

家の外の場所は、迎える側にとっても、自分が一人で出かける先になります。

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振り返りチェック

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この記事について

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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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