子どもが巣立ったあと
PR

子ども部屋が空いて寂しい57歳。出ていった日のままの娘の部屋で、私が午後を過ごすようになって

空いた部屋の窓際で編み物をする女性
kuroko

カチ、カチ、という音がします。

夜の十時すぎ、二階の廊下を歩いていると、閉めたドアの向こうから聞こえてくるのです。

娘の部屋の、壁掛け時計の音です。

四月に娘が家を出てから、あの部屋のドアはずっと閉めたままです。

誰もいない部屋で、時計だけが動いています。

その時計が五分進んでいることを、私は知っています。

高校一年の春、朝に弱い娘が「これで遅刻しないから」と言って、自分で進めたのです。

それから八年、誰も直していません。

私は五十七歳です。

夫と二人、郊外の二階建てに暮らしています。

ドアを閉めておく理由

娘のあかりは、今年の春に大学院を出て、仙台の会社に就職しました。

上の息子は、とうに大阪で所帯を持っています。

末の娘が出ていって、家には夫と私だけが残りました。

娘の部屋は、二階の南側の六畳です。

ベッドと机と本棚、それに小さな鏡台があります。

机の上には、大学のときのノートが三冊、置いたままになっています。

出ていった朝のまま、何も動かしていません。

いつ帰ってきてもいいように。

それが、私の理由でした。

掃除は、土曜日の午前中にします。

窓を開けて、掃除機をかけて、ベッドのシーツの上のほこりを払います。

十五分ほどで終わると、窓を閉め、カーテンを引いて、ドアを閉めます。

閉めるとき、いつも少しだけ胸がつかえました。

息子が出ていったときは、こうではありませんでした。

息子の部屋には、翌年にはもう夫の本棚が入っていました。

「まだ下に、あかりがいるから」

あのころの私は、そう思っていたのだと思います。

「あんた、自分の部屋ってあるの?」

九月のはじめ、スーパーの前で喜美子さんに会いました。

あかりが小学生のころ、PTAで一緒に役員をした人です。

入り口のベンチに並んで座って、少し話しました。

「あかりちゃん、仙台だってね。寂しいでしょう」

「部屋がね、そのままなの。まだ何も触れなくて」

喜美子さんは、ふうんと言ってから、急にこう聞きました。

「あんた、自分の部屋ってあるの?」

私は少し考えて、答えました。

「台所かしら」

二人で笑いました。

笑いながら、本当にそうだと思いました。

本を読むのは食卓の端で、読みかけのまま、夕飯の支度で脇へよけます。

居間のテレビは夫のものです。

家の中に、私が座ったまま一時間じっとしていられる場所は、どこにもありませんでした。

「うちなんてね、息子の部屋、今は私のミシン部屋よ」

喜美子さんはそう言って、買い物袋を持って立ち上がりました。

そのときは、よその家の話として聞いていました。

五月の連休の、ファスナーの音

本当は、春に一度、失敗しています。

五月の連休に、あかりが二泊で帰ってきたときのことです。

私は張り切って、カーテンを洗い、新しいシーツを買い、ベッドを整えて待っていました。

「部屋、全部そのままにしてあるからね」

玄関でそう言うと、あかりは「ありがと」と笑いました。

二日目の晩、夕飯のあとでした。

仕事の話を聞いているうちに、私はつい言ってしまったのです。

「そんなに忙しいなら、こっちで仕事を探したら? 部屋もこのままなんだし」

あかりの箸が止まりました。

「お母さん、それ、言われると困る」

「困るって、何が」

「私、向こうでやるって決めて行ったんだよ。部屋がそのままって言われるとさ、帰ってくるの、ちょっと重くなる」

あかりは、責める言い方ではありませんでした。

だから余計に、何も言い返せませんでした。

その夜、廊下を通ると、閉めたドアの向こうで、ファスナーを閉める音がしました。

帰りの荷物を詰めていたのだと思います。

じいっ、という長い音でした。

翌朝、駅まで車で送る間、私たちはラジオの天気予報ばかり聞いていました。

あかりが帰ったあと、私はその部屋のシーツを、また新しいものに替えました。

誰も寝ない部屋のシーツを替えて、何をしているのだろうと思いました。

「物置にしていいよ」

九月の連休に、あかりがまた帰ってきました。

今度は一泊だけです。

二階に荷物を置きに上がったあかりが、部屋の中から声を上げました。

「うわ、時計、まだ五分進んでる」

私は廊下で、少し笑いました。

「誰も直してないもの」

あかりは部屋をぐるりと見回して、それから、何でもないことのように言いました。

「ねえ、この部屋さ、物置にしていいよ」

「え?」

「私の物、押し入れに入るだけ入れとくから。あとは好きに使って」

私は、拍子抜けして、廊下に立ったままでした。

半年のあいだ、私が閉めたり開けたりしてきたドアを、あかりは一言で開けてしまったのです。

「でも、帰ってきたとき、困るでしょう」

「帰ってきたら、布団を敷ければいいよ。ここ、家で一番日当たりがいいのに、もったいないじゃん」

その日の午後、あかりは自分で押し入れを片付けました。

ノートや本を段にまとめ、鏡台の上の小物を箱に入れ、本棚は一段だけ自分のために残しました。

四十分ほどで終わりました。

私はそのあいだ、手を出しませんでした。

出してはいけない気がしたのです。

作業の途中で、あかりが言いました。

「お母さん、スリッパの音、昔と変わらないね。ぱたぱたって」

「そう?」

「階段、上がってくるの、すぐ分かる」

私の古いスリッパは、かかとのない、つっかけるだけのものでした。

階段を上がるとき、半分脱げかけて、ぱたん、と鳴るのです。

「時計は、そのままでいいや」

片付け終わったあかりは、そう言って、壁の時計を見上げていました。

窓際に、椅子を一脚

あかりが帰った週の土曜日、私は部屋の前でしばらく立っていました。

押し入れの中に、あかりの物がきちんと収まっています。

ベッドと机と、一段だけの本棚が残りました。

それでも、何を置けばいいのか分かりませんでした。

物置にしていいと言われても、置きたい物があるわけではなかったのです。

ふと、物置にしまったままの籐の椅子を思い出しました。

結婚したときに実家から持ってきた、ひじ掛けのついた椅子です。

子どもが小さいうちは場所がなくて、二十年以上、物置の奥に立てかけてありました。

「あれ、二階に上げたいんだけど」

夕方、夫に言うと、夫は新聞を置いて立ち上がりました。

「どこに置く」

「あかりの部屋の、窓のところ」

夫は物置から椅子を出し、雑巾でほこりを拭いてから、階段を上がっていきました。

「重いぞ、これ」

そう言いながら、途中で一度も下ろしませんでした。

窓際に椅子を置くと、夫は腰に手を当てて、部屋を見回しました。

「ここ、こんなに明るかったんだな」

夫がこの部屋に入ったのは、何年ぶりだったのでしょう。

午後の日差しが、椅子の座面の半分くらいまで差し込んでいました。

午後二時からの一時間

次の週から、午後の二時から三時を、あの部屋で過ごすことにしました。

昼の片付けを済ませて、二階へ上がります。

最初の日は、十分ももちませんでした。

椅子に座って本を開くと、洗濯物を取り込んだかどうかが気になります。

下りていって確かめ、また上がってきます。

今度は電話が鳴った気がして、また下ります。

一時間のうちに、四回、階段を往復しました。

四回目に上がるとき、古いスリッパが三段目で脱げて、段の下まで落ちていきました。

手すりにつかまって、片足のまま、しばらく動けませんでした。

十月に入ると、午後でも床が冷たくなってきました。

日の当たる窓際はいいのですが、ドアの近くの床は、靴下だけだとひんやりします。

スリッパを替えよう、と思いました。

条件は三つにしました。

かかとまで包んで、階段で脱げないこと。

底がやわらかくて、夜の廊下で足音が響きにくいこと。

家で洗えること。

店で手に取って、底を指で押して、やわらかさを確かめてから選びました。

広告

それから、下に下りるのは一時間に一度まで、と決めました。

二回目の日には、下りたのは一回だけでした。

三回目の日には、一度も下りませんでした。

その日、三時ちょうどに、ドアを軽く叩く音がしました。

夫でした。

夫は、その月から週に二日、在宅で仕事をするようになっていました。

「お茶、入ったぞ。下に置いとく」

それだけ言って、階段を下りていきました。

ドアは開けませんでした。

下へ行くと、食卓に湯のみが二つ並んでいて、片方にだけ湯気が立っていました。

夫の分は、もう半分ほど減っていました。

「ずっと二階にいたから、呼ぶのも悪いかと思って」

「三時まで待ってたの?」

「時計見てたら、ちょうど三時だった」

夫はそう言って、新聞に目を戻しました。

それから、夫が在宅の日は、三時にドアが二回鳴るようになりました。

私は一度も頼んでいません。

読んでいる本は、図書館で借りた、昔読んだことのある小説です。

二十代のころに一度読んで、筋を半分忘れていた本です。

食卓の端で読んでいたころは、同じ段落を三回読んでも頭に入りませんでした。

窓際の椅子では、一時間で四十ページほど進みます。

読み終わったページの数を、しおりに鉛筆で小さく書くようにしました。

編みかけのものを、置いておく場所

あの部屋でしていることは、本を読むことと、編み物です。

編み物は、あかりが中学生のころまで続けていました。

最後に編んだのは、あかりの通学用の、紺色のマフラーです。

それきり、編み針は三十年近く、裁縫箱の底に眠っていました。

最初のうちは、毛糸と編み針を紙袋に入れて、毎日一階から持って上がっていました。

終わると、また紙袋に戻して、一階へ持って下ります。

ある日、階段の途中で紙袋が傾いて、毛糸玉が一つ、廊下を転がっていきました。

拾いながら、どうして毎日持って下りているのだろうと思いました。

置いておけばいいのです。

あの部屋に。

私の物を、あの部屋に置いたことは、それまで一度もありませんでした。

置くための入れ物を探しました。

ふたがついていて、ほこりが入らないこと。

持ち手があって、掃除のときに片手で動かせること。

椅子の横に置いて、邪魔にならない大きさであること。

かごを椅子の横に置いた日、部屋が少しだけ違って見えました。

娘の部屋の中に、私の物が一つ、置かれていました。

「で、ここは何の部屋なの」

十月の終わり、喜美子さんがお菓子を持って遊びに来ました。

「見せてよ、その部屋」

二階に上がると、喜美子さんは窓際の椅子に座って、外を眺めました。

「いいじゃない。うちのミシン部屋より、ずっと明るい」

それから、振り返って聞きました。

「で、ここは何の部屋なの。あかりちゃんの部屋? あんたの部屋?」

私は答えられませんでした。

押し入れにはあかりの物が入っていて、本棚の一段もあかりの物です。

窓際の椅子とかごは、私の物です。

「どっちでもないかしら」

「どっちでもない部屋ね」

喜美子さんは、それが一番いいわね、と言って笑いました。

帰りぎわ、喜美子さんは階段の上で振り返りました。

「あんた、足音しなくなったわね。前は二階に上がると、すぐ分かったのに」

十一月の、二泊

十一月の半ば、あかりが友だちの結婚式で帰ってきました。

二泊です。

私は、前のようにシーツを買い替えたりはしませんでした。

押し入れの上の段に、布団を一組出しておいただけです。

あかりは荷物を持って二階へ上がり、部屋のドアを開けて、しばらく入り口に立っていました。

「なんか、いい部屋になったね」

そう言って、窓際の椅子に座りました。

横のかごのふたを開けて、中をのぞいています。

「編み物、また始めたんだ」

「午後にね。一時間だけ」

「何編んでるの」

「まだ決めてないの。手を動かしてるだけ」

あかりは、編みかけの毛糸を指でつまんで、少し眺めていました。

その夜、布団を敷くのに、私は椅子を窓から少し離しました。

あかりが、自分で椅子の向きを直していました。

窓の外が見えるように、元の向きにです。

夜中に廊下を通ると、ドアの向こうから、あかりが誰かと電話で笑っている声がしました。

時計のカチ、カチ、という音も、かすかに聞こえました。

五月の夜の、ファスナーの音とは違いました。

あかりが仙台に戻ったあと、土曜日にいつものように部屋へ入りました。

掃除機をかける前に、ふと壁の時計を見上げました。

針が、居間の時計と同じ時刻を指していました。

八年間、五分進んでいた時計です。

あかりが、帰る前に直していったのだと思います。

何も言わずに。

寂しさが、すっかりなくなったわけではありません。

夕方、二階の廊下を通ると、今でもドアの向こうに誰かがいるような気がすることがあります。

それでも、ドアは開けたままにしています。

十二月に入って、あかりからLINEが届きました。

「年末、二十九日から帰るね。お母さんの部屋に、布団敷いて寝ていい?」

お母さんの部屋。

私は、そこでしばらく指が止まりました。

「どうぞ。椅子はそのままにしておくね」

そう返して、二時になるのを待ってから、二階へ上がりました。

あなたなら、どうしますか?

家の中に、あなたが座ったまま一時間じっとしていられる場所はありますか。台所や食卓の端ではなく、途中で立ち上がらなくていい場所です。

もし空いた部屋があるとしたら、その部屋を「帰ってきたときのため」に整えておきますか。それとも、窓際に自分の椅子を一脚置いてみますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 閉めたドアは、誰のためだったのか

「いつ帰ってきてもいいように」は、子どものためのように見えます。

けれど、部屋をそのままにしておくことが、帰ってくる側には「期待」として届くこともあります。

主人公のドアを開けたのは、娘の軽い一言でした。

2. 「自分の部屋」を持ったことがない

台所、食卓の端、居間の隅。

家族のいる家で、自分のためだけの場所を持ったことがない人は少なくありません。

部屋を全部変えなくても、椅子を一脚置くだけで、そこは「座っていていい場所」になります。

3. 名前のない部屋でもいい

娘の物と自分の物が同じ部屋にあって、どちらの部屋とも言えない。

それを中途半端と思わなくてもいいのかもしれません。

帰ってきた人が椅子の向きを直してくれるなら、その部屋はもう、閉めておく部屋ではありません。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(かかとまで包んで階段で脱げない・底がやわらかい・家で洗える)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

かかとまで包むルームシューズ

広告

  • 販売ページの記載:かかと付き・底に滑り止め・丸ごと水洗いできる
  • 販売ページの記載:サイズは23.0〜23.5cmから26.0〜26.5cmまでの4種類・9色
  • 選ぶときは、かかとがあるか・洗えるか・サイズの幅を見ると選びやすくなります。足の甲が高い方や幅の広い方は、販売ページのサイズの説明もご確認ください。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

次の物語

この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

記事URLをコピーしました