娘の結婚相手と、話が合わない60代。二人きりになると時計の音ばかり聞いていた60歳の私が、彼の生まれた町のことを一つだけ聞いたお盆
カチ、カチ、カチ。
居間の掛け時計の音が、急に大きく聞こえました。
娘の真帆が「アイス買ってくる」と言って、近くの店に出ていったあとのことです。
居間には、私と、娘の夫の亮介さんの二人だけが残りました。
亮介さんは、座卓の向こうで、麦茶のコップを両手で持っていました。
私は、テレビのリモコンを手に取って、また置きました。
「……暑いですね」
「そうですね、はは」
亮介さんは、少し遠慮がちに笑いました。
それで、話は終わってしまいました。
カチ、カチ、カチ。
この時計は、こんなに大きな音で鳴っていたでしょうか。
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居間の掛け時計
私は六十歳です。
県庁のある市の中心から、路線バスで三十分ほどの町に住んでいます。
終点の一つ手前の停留所の、真ん前の家です。
夫の恒夫は六十三歳で、県の土木事務所で道路の見回りの仕事をしてきました。
定年のあとも、週に三日だけ、同じ事務所に通っています。
一人娘の真帆は三十二歳で、車で一時間ほどの市に住んでいます。
二年前に、職場で知り合った亮介さんと結婚しました。
亮介さんは三十四歳で、文房具を卸す会社で営業をしています。
生まれは、北のほうの、雪の多い港町だそうです。
二人は、年に四、五回、うちに顔を出してくれます。
お盆とお正月と、あとは夫の誕生日や、何かのついでのときです。
亮介さんは、穏やかな人です。
玄関では必ず「お邪魔します」と頭を下げ、帰りには食器を流しまで運んでくれます。
悪いところは、何もありません。
ただ、私と二人になると、話が続かないのです。
真帆がいるときは、三人でそれなりに話せます。
でも、真帆が台所に立ったり、買い物に出たりすると、居間が急に静かになります。
そのたびに、私は掛け時計の音を聞くことになりました。
「ご趣味は?」
初めのころは、私も一生懸命でした。
結婚して最初のお正月のことです。
おせちを並べた座卓で、私は亮介さんに次々と聞きました。
「亮介さん、ご趣味は?」
「えっと、特には……休みの日は、家で本を読むくらいです」
「お酒は、飲まれるの?」
「少しだけです」
「ご兄弟は?」
「弟が一人います」
「お仕事は、お忙しいの?」
「年度末は、少し」
聞けば、答えてくれます。
でも、答えは短くて、そこから先に広がりません。
五つ目か六つ目の質問をしたところで、亮介さんのお箸が止まっているのに気づきました。
その晩、台所で洗い物をしながら、私は真帆に小さな声で言いました。
「ねえ、何を話したらいいのか、分からないわ。あの人、うちに来て楽しいのかしら」
真帆が何か言いかけたとき、後ろで声がしました。
「あ、すみません。コップ、ここに置いておきます」
振り向くと、亮介さんが、空のコップを三つ持って、台所の入り口に立っていました。
「はは。ごちそうさまでした」
いつもの、遠慮がちな笑い方でした。
聞こえていたのかどうか、私には分かりませんでした。
三日後、真帆から電話がありました。
「お母さん、あのね。亮介、気にしてたよ」
「何を?」
「お母さんに、楽しくなさそうって思われたって。帰りの車で、『俺、話すの下手だから』って」
私は、受話器を持ったまま、何も言えなくなりました。
聞こえていたのです。
「亮介さんが悪いんじゃないのよ。お母さんが、うまく話せなくて」
「分かってる。亮介も分かってるよ。ただ、ちょっとね」
それからしばらく、亮介さんの顔を見るたびに、あの台所の入り口を思い出しました。
新聞の切り抜き
それからの私は、亮介さんが来る前に、話題を用意するようになりました。
新聞のニュースを読んでおく。
野球の結果を見ておく。
営業の仕事なら、景気の話がいいかもしれないと、経済の欄まで読みました。
冷蔵庫の横には、そのための切り抜きを、何枚も貼っていました。
でも、どの話題も、三往復くらいで終わってしまいます。
「最近、物の値段が上がりましたね」
「そうですね」
「お仕事にも、響くでしょう」
「ええ、まあ、少し」
カチ、カチ、カチ。
夫は、亮介さんと二人でいても、平気な顔をしています。
二人で黙ってテレビの相撲を見て、ときどき「今のはうまかったな」「そうですね」と言うだけです。
ある晩、私は夫に聞きました。
「あなた、亮介さんと二人で黙ってて、気まずくないの?」
「別に」
夫は、新聞をめくりながら言いました。
「黙ってても、いいんじゃないか。俺は、あいつが隣にいるの、嫌じゃないぞ」
「あなたはそうでも、私は困るのよ。何か話さなきゃって」
「お前は、真帆が小さいころから、そうだったな。参観日でも、先生と何か話さなきゃって」
夫は、それだけ言って笑いました。
言われてみれば、そうでした。
私は、黙っている時間が怖いのかもしれません。
停留所のベンチで
その話を、登美子さんにしたのは、七月の終わりでした。
登美子さんは、同じ停留所を使う、二軒隣の奥さんです。
年は私より四つ上で、毎週火曜日に、同じバスで市の病院の売店のパートに出ています。
私も火曜日は、同じバスで市の中心の図書館の近くまで行くので、停留所のベンチでよく一緒になります。
「うちの婿さんもね、最初は全然しゃべらなかったのよ」
登美子さんは、日傘をたたみながら言いました。
「それで、どうしたの」
「どうもしなかった。でもね、ある時、気がついたの。あの人、自分の田舎の話をするときだけ、声が大きくなるのよ」
「田舎の話?」
「そう。山の中の、みかんの畑の町なんだけどね。みかんの話になると、止まらないの」
登美子さんは笑いました。
「あなた、たくさん聞いてるでしょう。趣味は、仕事は、休みの日は、って」
「……ええ」
「それだと、面接みたいになるのよ。聞かれるほうは、答えを探すので精いっぱい」
バスが、坂の下から見えてきました。
「一つだけ聞けばいいの。それで、あとは、次に会うまで持って帰るの。聞いたことを、自分で少し調べておくのよ」
「調べる?」
「そう。うちは婿さんの町の天気を、毎朝ちょっとだけ見るようにしてるの。それだけで、次に会ったとき、話すことが一つあるでしょう」
バスの扉が開いて、私たちは乗り込みました。
窓の外を見ながら、私は亮介さんの生まれた町のことを考えていました。
雪の多い港町、ということしか、私は知りませんでした。
二年も家族でいるのに、それ以上を聞いたことがなかったのです。
お盆の、一つだけ
冒頭の、あの暑い日です。
お盆に、真帆と亮介さんが帰ってきました。
真帆がアイスを買いに出て、居間に二人が残されました。
「……暑いですね」
「そうですね、はは」
カチ、カチ、カチ。
私は、息を一つ吸ってから、言いました。
「亮介さんの生まれた町は、冬は、どのくらい雪が降るの?」
亮介さんは、少し驚いたような顔をしました。
それから、麦茶のコップを座卓に置きました。
「多い年は、一階の窓が埋まります」
「窓が?」
「はい。子どものころは、二階の窓から外に出てました。屋根の雪下ろしは、父と弟と三人でやって」
亮介さんは、両手で屋根の形を作りました。
「港のほうは、風が強いので、雪が横から来るんです。前が見えなくて、学校に行くときは、前の人のランドセルだけ見て歩きました」
私は、次の質問をしそうになるのを、こらえました。
「そう。前の人のランドセル」
それだけ言って、うなずきました。
「冬にしか揚がらない、小さな魚があるんです。祖母が、それを甘辛く煮るのが得意で」
亮介さんは、そこで少し笑いました。
いつもの遠慮がちな笑いより、少しだけ大きな声でした。
「すみません、つい。こっちは暑いから、雪の話なんて」
「ううん。聞きたかったの」
玄関で、真帆の「ただいま」という声がしました。
アイスの袋を持って居間に入ってきた真帆は、私たちの顔を見比べて、「何の話?」と聞きました。
「雪の話」
私と亮介さんが、同時に答えました。
図書館の地図
お盆が終わって、次の火曜日です。
私は、いつものバスで、市の中心の図書館に行きました。
郷土の本の棚ではなく、全国の地図の棚に行きました。
亮介さんが帰り際に教えてくれた町の名前を、地図で探しました。
海沿いに、小さく町の名前がありました。
港の印が、二つ並んでいます。
その町のことを書いた本は、一冊だけありました。
写真の多い、薄い本です。
冬の港の写真には、横なぐりの雪の中を歩く人が写っていました。
九月の終わりには、港のお祭りがあると書いてありました。
小さな魚の名前も、ちゃんと載っていました。
私は、家から持ってきた古いノートに、それを少しだけ書き写しました。
帰りのバスで、登美子さんと一緒になりました。
「調べたの?」
「ちょっとだけね。地図で、港を二つ見つけたの」
「それで十分よ」
家に帰ると、夫が珍しく、私のノートをのぞき込みました。
「ここか、亮介の町は」
夫は、地図の写しを指でなぞりました。
「海沿いの道が一本しかないな。冬に雪で止まったら、町の外に出られないだろう」
「分かるの?」
「道の仕事を四十年やってたんだぞ。こういう町は、除雪の順番で、みんな苦労する」
夫は、少しうれしそうでした。
その日から、私は朝のテレビの天気予報で、日本地図の北のほうを見るようになりました。
あの町のあたりに、雨のしるしがあるか、晴れのしるしがあるか。
それだけを見て、台所に戻ります。
一日のうちの、ほんの数秒のことです。
北のほうの、雨のしるし
九月の半ば、台風が一つ、日本海のほうを北へ上がっていきました。
朝の天気予報の地図で、渦の形が、あの町のあたりにかかっていました。
私は、お味噌汁の鍋の火を止めて、しばらく画面を見ていました。
港が二つある町です。
本の写真で見た、海沿いの一本の道を思い出しました。
亮介さんに、何か送ろうかと思いました。
でも、私は亮介さんの連絡先を知りませんでした。
二年も家族でいて、連絡はいつも真帆を通していたのです。
夜、真帆に電話をかけました。
「ねえ、台風、亮介さんの町のほうを通ったでしょう。港のほう、大丈夫だったかしら」
真帆は、少し黙ってから言いました。
「お母さん、よく知ってるね。亮介の町の場所」
「地図で見たのよ。この前」
「亮介の連絡先、送ろうか。直接聞いてあげたら?」
私は、少し迷ってから断りました。
「いいのよ。急にお母さんから来たら、亮介さん、また返事を考えなきゃいけないでしょう」
「そっか。じゃあ、伝えとくね」
次の日の夜、真帆から短いメッセージが届きました。
「港、大丈夫だったって。亮介、お母さんが心配してたって言ったら、ちょっと黙って、それから実家に電話してた。自分はまだ電話してなかったんだって」
私は、画面を見ながら、少し笑ってしまいました。
心配していたのは、私だけではなかったのです。
九月の終わりの、港のお祭り
十月のはじめ、夫の誕生日に、二人がまた来てくれました。
夕飯のあと、真帆が夫と二人で、庭に出ていきました。
夫が植えた菊を見せたかったのだと思います。
居間には、また私と亮介さんが残りました。
カチ、カチ、カチ。
今度は、話すことが一つだけありました。
「九月の終わりに、港のお祭りがあったんですってね」
亮介さんは、コップを持つ手を止めました。
「え、よくご存じですね」
「図書館で、町の本を見たの。写真の多い、薄い本」
「あの町の本、あるんですか」
亮介さんは、身を乗り出しました。
それから、ポケットからスマホを出しました。
「今年のお祭りの写真、母が送ってきたんです。見ますか」
小さな画面に、港に並んだ提灯と、法被を着た子どもたちが写っていました。
「これ、弟の子です。これが、僕の通ってた小学校で」
亮介さんは、一枚ずつ、指で送りながら話してくれました。
私は、ほとんど何も聞きませんでした。
「そう」「へえ」と言って、写真を見ていました。
夫の話も、しました。
「うちの人がね、地図を見て、海沿いの道が一本しかないって。冬に止まったら大変だろうって」
「そうなんです。高校のとき、雪で三日、町から出られなくて」
亮介さんは、また少し大きな声で笑いました。
庭から戻ってきた真帆が、入り口で立ち止まって、私たちを見ていました。
何も言わずに、台所のほうへ行きました。
その晩、帰り際に、亮介さんが玄関で言いました。
「お義母さん、今度、母に頼んで、あの小さい魚を送ってもらいます。冬になったら」
「いいのよ、そんな」
「いえ。祖母の煮方、母が覚えてるんで。食べてほしいんです」
次に会うまでに
それで、何もかも話せるようになったわけではありません。
港の話が一段落すると、居間にはまた、時計の音が戻ってきます。
カチ、カチ、カチ。
亮介さんは、やっぱり口数の少ない人です。
私も、黙っている時間には、まだ慣れていません。
夫のように、隣で黙って相撲を見られるようになるのは、ずっと先のことかもしれません。
冷蔵庫の横の切り抜きは、全部はがしました。
その代わりに、ノートの一ページに、亮介さんの町のことが少しずつ増えています。
港が二つあること。
九月の終わりのお祭り。
冬にしか揚がらない小さな魚。
一階の窓が埋まる年があること。
前の人のランドセルを見て歩いた道。
真帆は、電話で一度だけ言いました。
「亮介がね、お母さん、うちの町の本を読んでくれたって、何回も言うのよ」
「一冊だけよ。薄いの」
「うん。でも、うれしかったみたい」
電話を切ってから、私はノートを開きました。
次に会うまでに、私は何を一つだけ聞けばいいのでしょう。
聞きすぎて、また面接のようになってしまわないでしょうか。
それとも、いつか、何も聞かずに、あの時計の音を二人で聞いていられる日が来るのでしょうか。
あの町のことを知っていけば、亮介さんのことも、少しずつ分かっていくのでしょうか。
私には、まだ分かりません。
あなたなら、どうしますか?
家族の誰かと二人きりになったとき、黙っている時間が怖くて、質問を重ねてしまうことはありませんか。そのとき相手は、話したくて答えていたでしょうか。それとも、答えを探すので精いっぱいだったでしょうか。
いま、話が続かない相手がいるとしたら、その人の生まれた町や育った場所のことを、あなたはどれくらい知っているでしょうか。次に会うとき、一つだけ聞くとしたら、何を聞きますか。
この物語から、考えたいこと
1. たくさん聞くほど、面接に近くなる
話が続かないと、こちらはつい質問を増やします。
でも、聞かれるほうにとっては、一つずつ答えを探す時間が続きます。
一つだけ聞いて、あとは相手の話を待つほうが、話は広がることがあります。
2. 黙っている時間を、相手のせいにしない
口数の少ない人と二人になると、「楽しくないのかしら」と思ってしまいます。
でも、黙っていても隣にいるのが嫌ではない人もいます。
黙る時間を怖がっているのは、こちらのほうかもしれません。
3. 聞いたことを、次まで持って帰る
話は、その場で終わらせなくてもかまいません。
聞いたことを少しだけ調べて、次に会うまで覚えておく。
それだけで、次に会ったときの最初の一言が、自分の中に一つ残ります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
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この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。