子どもが巣立ったあと
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娘と旅行すると気を使って疲れる58歳。帰りの電車で「楽しかった?」と聞かれた私が、次の旅で最初に書いた行き先

午後の居間で窓の外を見る女性
kuroko

朝の九時を少し過ぎた温室の中は、土と水のにおいがしていました。

天井のガラスから入る光が、大きな葉っぱの上で白く光っています。

私は、池のそばの木のベンチに腰を下ろしました。

「座る」

そう言ってから座ったのは、この日、二回目でした。

少しあとから、娘が二人分の甘酒の紙コップを持ってやってきました。

娘は私の隣に座って、ガラスの天井を見上げました。

「お母さんの行きたいところって、こういうところだったんだね」

「そうよ。ずっと、来てみたかったの」

「知らなかった。三十年も一緒にいたのに」

娘はそう言って、少し笑いました。

一年前の私なら、その「知らなかった」に、すぐ謝っていたと思います。

ごめんね、つまらないところで。

あなたの行きたいところにしましょうか。

そう言って、ベンチから立ち上がっていたはずです。

この日の私は、甘酒を一口飲んで、そのまま座っていました。

「お母さん、一泊だけ行かない?」

私は五十八歳です。

夫と二人で暮らしています。

一人娘の沙織は三十歳で、電車で一時間半の町で働いています。

去年の九月、その沙織から電話がありました。

「お母さん、十月に一泊だけ旅行しない? 二人で。私、休みが取れそうなの」

娘と二人だけの旅行は、生まれて初めてでした。

家族三人の旅行は、娘が高校を出るまで何度も行きました。

でも、行き先を決めるのはいつも夫で、細かい予定を立てるのは私でした。

娘と二人で、誰の予定でもない旅をする。

電話を切ったあと、私はしばらく受話器を持ったまま、台所に立っていました。

うれしかったのです。

同時に、少しこわくもありました。

娘はもう、大人です。

何が好きで、どんな店に入って、どのくらいの速さで歩くのか。

一緒に暮らしていたころの娘しか、私は知りませんでした。

「行き先も、お店も、全部私が決めておくね。お母さんは来るだけでいいから」

電話の最後に、娘はそう言いました。

私は「ありがとう、楽しみにしてる」と答えました。

四十分の行列

旅先は、海沿いの古い港町でした。

駅に着くと、娘は携帯の画面を見ながら、すたすたと歩き出しました。

娘は歩くのが速い子です。

私は三歩うしろを、小走りでついていきました。

最初に向かったのは、港の近くのパンケーキのお店でした。

店の前には、若い人たちの行列ができていました。

「四十分待ちだって。お母さん、大丈夫?」

「大丈夫よ。お母さんも、こういうお店に来てみたかったの」

本当は、朝から立ちっぱなしで、ふくらはぎが張っていました。

それでも、娘が調べてくれたお店です。

座りたいとは、言えませんでした。

行列の四十分、私は娘の話にうなずき続けました。

職場の先輩のこと、最近始めたヨガのこと。

どれも、聞いたことのない話でした。

聞きたいことはたくさんあったのに、疲れて頭に入ってきません。

お店を出たあとも、娘の予定は続きました。

海の見える坂の上の雑貨屋さん。

写真を撮る人が並ぶ、赤い灯台。

どこへ行っても、私は同じことを言っていました。

「いいわね」

「きれいね」

「いいところね」

娘が携帯を私に向けるたびに、笑った顔を作りました。

夜は、娘が予約してくれた小さな和食のお店に入りました。

品書きを渡されて、娘が聞きました。

「お母さん、何が食べたい?」

「沙織と同じでいいわ」

「本当に? 煮魚とか、好きじゃなかった?」

「いいの、いいの。同じので」

娘は少しだけ間を置いて、「じゃあ、同じので」と店の人に言いました。

運ばれてきたのは、若い人の好きそうな、揚げ物の多い盛り合わせでした。

隣の席の人が食べていた金目鯛の煮つけを、私は何度か横目で見ていました。

洗面台の端

泊まったのは、駅の近くのホテルの二人部屋でした。

娘が先にお風呂を使っているあいだ、私はベッドの端に座って、ふくらはぎをさすっていました。

娘が出てきて、次は私の番です。

洗面台の上には、娘の化粧品がきれいに並んでいました。

私は、自分の化粧品をスーパーの袋に入れたまま持ってきていました。

袋から出した瓶やチューブを、洗面台の端に寄せて並べます。

置ききれなかった歯ブラシが、ころんと床に落ちました。

「お母さん、大丈夫?」

扉の向こうから、娘の声がしました。

「ごめんね、散らかして。すぐ片付けるから」

「散らかしてないよ。ゆっくりでいいよ」

娘はそう言ってくれたのに、私は十分ほどで洗面所を出ました。

髪も、半分濡れたままでした。

夜は夜で、なかなか眠れませんでした。

いびきをかいて、娘を起こしてしまわないか。

そればかり気にして、天井を見ていました。

隣のベッドから、娘の寝息が聞こえてきたのは、日付が変わるころでした。

「いいわね、って十一回」

帰りの電車は、夕方の特急でした。

窓の外が、だんだん暗くなっていきます。

私は、膝の上にお土産の紙袋をのせて、ぼんやりしていました。

隣で携帯を見ていた娘が、ふいに顔を上げました。

「お母さん、楽しかった?」

「楽しかったわよ。ありがとう」

「ずっと、気にしてたでしょ。私のこと」

私は、返事に詰まりました。

「……そんなことないわよ」

娘は、窓のほうを見ながら言いました。

「お母さん、今日、『いいわね』って十一回言ってた。途中から、数えちゃった」

「そんなに言ってた?」

「言ってた。パンケーキのお店、本当は並びたくなかったでしょ」

私は、紙袋の持ち手をいじりながら、少し笑いました。

「ばれてたのね」

「ばれてるよ。でもね」

娘は、少し言いにくそうに続けました。

「あのお店、お母さんが春に電話で、テレビで見たって言ってたから選んだんだよ」

覚えていませんでした。

きっと、話のつなぎに言っただけだったのです。

「私も、お母さんが疲れてないかずっと気にしてて、なんだか、へとへと」

娘はそう言って、座席に深くもたれました。

私が娘に合わせているあいだ、娘も私に合わせていたのです。

二人とも、相手のための旅をしていました。

それでは、誰の旅でもありません。

家に帰ると、夫が玄関まで出てきました。

「どうだった」

「楽しかったわよ」

そう答えてから、私は二日間、ほとんど横になって過ごしました。

夫は何も言わずに、二日とも、夕飯に駅前のお弁当を買ってきてくれました。

母の「どこでもいいよ」

横になりながら、私は自分の母のことを思い出していました。

三十年ほど前、結婚する前の年に、母と二人で温泉に行ったことがあります。

どこへ行くにも、母は同じことを言いました。

「あんたの行きたいところでいいよ」

お昼を決めるときも、帰りの電車を決めるときもそうでした。

最初はうれしかったのですが、二日目には、だんだん腹が立ってきました。

「お母さんは、どこに行きたいの。たまには言ってよ」

旅館の部屋で、私はそう言ってしまいました。

母は困ったように笑って、「どこでもいいのよ、本当に」と言いました。

あのときの母の顔が、電車の中の自分の顔と重なりました。

私は、母と同じことを、娘にしていたのです。

「どこでもいい」と言われるほうが、かえって気をつかう。

それを知っていたのは、ほかでもない私でした。

二枚の紙

年が明けて、春になったころ、また娘から電話がありました。

「秋に、もう一回行こうよ。今度は、決め方を変えて」

娘が考えてきた決め方は、こうでした。

行きたい場所を、それぞれ紙に一つずつ書く。

その二つは、どんなことがあっても必ず行く。

それ以外は、決めない。

「それとね、疲れたら『座る』って言うこと。理由はいらないから」

「言えるかしら」

「言えなかったら、私が数えるよ。『いいわね』の回数」

娘は電話の向こうで笑いました。

電話を切ると、居間で夫がこちらを見ていました。

「今度は、どこへ行くんだ」

「まだ決まってないの。行きたいところを、一つずつ紙に書くんですって」

「お前の一つは、何だ」

「それが、すぐに出てこないのよ」

夫は少し考えてから、新聞に目を戻して言いました。

「ベランダで鉢に水をやってるとき、お前はいつも機嫌がいいな」

それだけ言って、夫は新聞をめくりました。

その夜、私はメモ用紙を前に、長いこと座っていました。

自分の行きたい場所を、一つだけ書く。

それが、思っていたより難しいのです。

娘が喜びそうなところばかり、頭に浮かんできます。

一度、「古い町並み」と書いて、消しました。

それは、娘の好きそうな場所でした。

しばらく考えて、夫の言ったベランダの鉢植えのことを思い出しました。

若いころから、植物のある場所が好きでした。

いつか行ってみたいと、雑誌の切り抜きを取ってあった、古い植物園の温室。

私は、紙にそう書きました。

娘から届いたメッセージには、「駅前の、朝六時からやってるパン屋さん」とありました。

「宿は、お母さんが選んでね」

娘は、そうも書いてきました。

宿を選ぶのは、何十年ぶりでしょう。

決めた条件は、三つでした。

部屋の窓辺に、一人ずつ座れる椅子があること。

大浴場が夜遅くまで開いていて、別々の時間に入れること。

チェックアウトが遅めで、朝をゆっくりできること。

どれも、去年の旅で、私が言えなかったことでした。

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洗面台に吊るすもの

もう一つ、去年の旅で思い出すたびに首をすくめる場面がありました。

洗面台の端に寄せた、スーパーの袋の中身です。

床に落ちた歯ブラシです。

今度は、化粧品を入れるポーチを一つ、選ぶことにしました。

売り場には、かわいい柄の小さなものがたくさんありました。

でも、小さいものだと、結局中身を洗面台に並べることになります。

決めた条件は、三つです。

フックがついていて、洗面所のタオル掛けなどに吊るせること。

広げると、中身が一目で見渡せること。

一泊分の化粧品と歯ブラシが入る大きさであること。

洗面台の上に、自分の物を置かなくていい。

それが、いちばんの条件でした。

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家の洗面所で、試しにタオル掛けに吊るしてみました。

夫が通りかかって、「何だ、それは」と聞きました。

「洗面台を、半分こしないための袋」

夫は、よく分からないという顔をして、それでも「そうか」と言いました。

朝六時のパン屋と、九時の温室

九月の終わりの土曜日、私たちは二回目の旅に出ました。

一日目の午後は、町を歩いて、夕方に宿に着きました。

窓辺の椅子に向かい合って座り、娘は本を、私は温室の案内の紙を広げました。

一時間、ほとんど話しませんでした。

それが、少しも気づまりではありませんでした。

洗面所では、ポーチをタオル掛けに吊るしました。

洗面台の上には、娘の化粧品だけが並んでいます。

私は、髪を最後まで乾かしてから、洗面所を出ました。

次の朝、六時に宿を出て、娘の紙に書いてあったパン屋さんに行きました。

まだ薄暗い通りに、焼きたてのパンのにおいが流れていました。

娘は、店の前で深呼吸をして、「これ、ずっと来たかったの」と言いました。

私は、娘のその顔を見るのが初めてだったような気がしました。

去年、パンケーキの行列で見た顔とは、違っていました。

パンの袋を抱えて宿へ戻る坂の途中で、私は一回目の「座る」を言いました。

娘は何も聞かずに、道ばたの低い石垣に並んで腰かけてくれました。

焼きたてのパンを一つずつ、そこで半分に分けて食べました。

それから、九時に温室へ行きました。

大きな葉っぱの下を歩いていると、ふくらはぎが少し張ってきました。

「座る」

私がそう言うと、娘は「はい、二回目」と言って笑いました。

ベンチに座ってしばらくすると、娘が甘酒を買ってきてくれました。

娘が「お母さんの行きたいところって、こういうところだったんだね」と言ったのは、そのすぐあとのことです。

帰りの電車で、娘が言いました。

「今日、『いいわね』は一回も言ってなかったよ」

「数えてたの?」

「数えてた。『座る』は、二回」

娘は、手帳から一枚の紙を出しました。

私が書いて渡した、温室の紙でした。

「次も、これやろうね。今度は、お母さんの行きたいところからね」

ポーチの内ポケット

旅から帰って、吊るせるポーチは、洗面所の棚の上に置いてあります。

内側の、ファスナーのついた小さなポケットに、紙が二枚入っています。

一枚は、私の字で「植物園の温室」。

もう一枚は、娘の丸い字で「朝六時のパン屋」。

どちらも、四つに折った跡がついています。

娘の紙の裏には、帰りの電車で書き足された一行があります。

「次は、お母さんのから」

私の紙の裏は、まだ白いままです。

次に行きたい場所は、まだ決まっていません。

決まったら、そこに書くつもりです。

あなたなら、どうしますか?

誰かと一緒の旅で、あなたは自分の「行きたい」を一つ言えていますか。相手が喜びそうな場所ではなく、あなた自身が行きたい場所を紙に一つだけ書くとしたら、何と書きますか。

旅の途中で疲れたとき、「座りたい」と理由をつけずに言えますか。言えないとしたら、何がそれを止めているのでしょうか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 相手に合わせているとき、相手もこちらに合わせていることがある

自分が気を使っているあいだ、相手もこちらの顔色を見ていることがあります。

どちらも相手のための旅をしていると、誰の旅でもなくなってしまいます。

気を使うのをやめるのは、相手に冷たくすることではなく、相手の荷物を一つ下ろすことでもあります。

2. 「どこでもいい」は、やさしさに見えて、相手を迷わせる

行き先を全部相手に任せるのは、遠慮のつもりかもしれません。

けれど、任された側は、相手が本当に楽しんでいるのかを、ずっと気にすることになります。

一つだけでも自分の希望を言うと、相手も安心して自分の希望を言えるようになります。

3. 疲れたときの言葉を、先に決めておく

旅先で「疲れた」と言うのは、相手に悪い気がして、言い出しにくいものです。

出かける前に「疲れたら、この言葉で言う」と決めておくと、その場で理由を考えなくて済みます。

言葉が決まっているだけで、無理をしてついていく時間が短くなります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(フックで吊るせる・広げると中身が一目で見渡せる・一泊分の化粧品と歯ブラシが入る大きさ)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

洗面台に置かずに吊るせる化粧ポーチ

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  • 販売ページの記載:360°回るフック付きで、吊るして使える
  • 販売ページの記載:前が大きく開き、中身が見渡せる・ポケットは3層
  • 販売ページの記載:生地はオックスフォード生地
  • 選ぶときは、吊るせるか・広げたときの見やすさ・入れたいものが入る大きさかを見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

次の物語

この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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