定年した夫がリビングにいて、私の居場所がない。台所の丸椅子に座っていた62歳の私が、空いた息子の部屋を夫に渡した十月
十月のはじめ、雨が三日続きました。
洗濯物は、和室の鴨居に並べて干しました。
雨の日は、夫が一日じゅう家にいます。
晴れていれば、午前中だけは川の土手を歩きに出てくれるのですが、雨だとそれもありません。
私は、台所の流しの前に、小さな丸椅子を置いていました。
背もたれのない、踏み台がわりに使っていた木の椅子です。
雨どいを流れる水の音を聞きながら、その丸椅子に腰かけて、私は冷めたお茶を飲んでいました。
リビングまでは、ほんの五歩です。
そこには三人がけのソファがあって、テレビがあって、南向きの窓があります。
でも、私はそのソファに、もう一年近く座っていませんでした。
真ん中のくぼみ
私は六十二歳です。
駅から歩いて十五分の、三十年前に中古で買った二階建てに、夫と二人で住んでいます。
夫の邦夫は六十五歳で、去年の九月まで、中学校で理科を教えていました。
最後の五年は、週に四日だけ学校に通っていました。
それが、去年の秋から毎日、家にいます。
夫は、悪い人ではありません。
声を荒らげることもないし、朝ごはんの食器は自分で洗ってくれます。
ただ、話し好きなのです。
「知ってるか。雨粒って、落ちてくるときは丸いんじゃなくて、下がつぶれたまんじゅうみたいな形なんだぞ」
私がソファに座ると、夫はテレビの音を小さくして、こちらを向きます。
「今朝の雲、見たか。あれは高いところの雲だから、明日は崩れる」
四十年近く、生徒の前で話してきた人です。
聞いてくれる相手が目の前にいると、話が止まらなくなります。
私も、はじめのうちは相づちを打っていました。
でも、一日に何度もとなると、だんだん疲れてきます。
いつのころからか、私はソファに座らなくなりました。
座れば、話しかけられる。
立っていれば、忙しそうに見える。
それで、台所に丸椅子を置いたのです。
洗い物が終わっても、布巾をたたみ直したり、冷蔵庫の中を拭いたりして、台所から出ないようにしていました。
夕方、夫が「座ったらどうだ」と言っても、「あとでね」と返します。
その「あとで」が来ないまま、一日が終わっていきました。
三人がけのソファは、真ん中のクッションだけがへこんでいます。
夫の座る場所です。
両端のクッションは、買ったときのまま、ふっくらしていました。
「一人にしてくれない?」
座らなくなったのには、きっかけがありました。
夫が家にいるようになって、二か月たった十一月の日曜日のことです。
私は、友達から借りた小説を、ソファの端で開いていました。
借りたまま、四十ページのところで止まっていた本です。
やっと続きを読もうと思った、午後の二時ごろでした。
「その作家、たしか理系の出身だよな。だから説明が細かいんだ」
一ページ読むと、夫が言いました。
「そうだ、雨どいの落ち葉、今度いっしょに見てくれ。いや、あとでいいか」
また一ページ読むと、夫が言いました。
三回目に声をかけられたとき、私は本を閉じて言ってしまいました。
「お願いだから、ちょっと一人にしてくれない?」
自分でも驚くほど、とがった声でした。
夫は、しばらく黙っていました。
それから、テレビのリモコンを置いて、言いました。
「……ここは、俺の家でもあるんだけどな」
責める言い方ではありませんでした。
困ったような、少しさびしそうな声でした。
その日の夕飯は、二人とも、ほとんど口をききませんでした。
次の日の朝、夫はいつものように「おはよう」と言いました。
私も「おはよう」と返しました。
それで、その話は終わりになりました。
でも、それ以来、私はソファで本を開かなくなりました。
借りた本は、四十ページのところにしおりをはさんだまま、電子レンジの上に置いてあります。
「立ち飲みみたいね」
九月の終わり、昔のパート仲間の綾子さんと、駅前の喫茶店で会いました。
綾子さんとは、十五年前に、スーパーのお惣菜の売り場で一緒に働いていました。
借りたままの小説は、綾子さんのものです。
「ごめんね、あの本、まだ返せてなくて」
「いいのよ。私はもう読んだから」
綾子さんは笑って、それから私の顔を見ました。
「でも、あなた、本はすぐ読む人だったじゃない。どうしたの」
私は、ソファのことを話しました。
真ん中のくぼみのことも、台所の丸椅子のことも話しました。
綾子さんは、コーヒーのカップを置いて、少し考えていました。
「それって、自分の家で、ずっと立ち飲みしてるみたいなものね」
私は、思わず笑ってしまいました。
笑いながら、少し泣きそうにもなりました。
言われてみれば、そのとおりだったからです。
「ご主人に、話しかけないでって言えばいいじゃない」
「一回言ったのよ。そしたら、ここは俺の家でもあるって」
「そう言われちゃうとねえ」
綾子さんは、窓の外を見ながら言いました。
「でも、ご主人の家でもあって、あなたの家でもあるんでしょう。だったら、二人とも座れる場所がないと、おかしいわよ」
帰り道、自転車を押しながら、私はその言葉を何度も思い返しました。
二人とも座れる場所。
家には、部屋が五つあります。
リビングと台所、一階の和室、二階の寝室、それから二階の、息子の部屋です。
扇風機をしまう日
十月の雨がやんだ日、私は夏の扇風機を二階へ運びました。
扇風機は、毎年、息子の部屋の押し入れにしまっています。
息子の航平は三十三歳で、隣の県で働いています。
家を出て、もう十一年になります。
部屋には、高校のときの机と本棚が、そのまま残っていました。
床には、季節の物の段ボールや、使わなくなった座布団が積んであります。
扇風機を二台抱えて階段を上がっていると、後ろから夫が来て、一台を持ってくれました。
部屋に入った夫は、扇風機を押し入れに入れてから、窓のところに立ちました。
窓からは、隣の家の柿の木と、その向こうの小学校のグラウンドが見えます。
「ここ、昼すぎに日が入るんだな」
夫は、しばらく外を見ていました。
それから、机の椅子を引いて、腰かけました。
高校生の息子に合わせて買った椅子なので、夫が座ると、少し窮屈そうに見えます。
「なあ」
「うん?」
「ここ、俺の部屋にしていいか」
私は、段ボールを抱えたまま、夫の顔を見ました。
「航平の部屋よ」
「航平は、帰ってきても一晩寝るだけだろう。和室に布団を敷けばいい」
夫は、机の天板を手のひらでなでました。
「学校には、理科準備室ってのがあってな。休み時間は、あそこでラジオを聞いてたんだ。三十年、あそこが俺の場所だった」
夫が、自分から学校の話をするのは、めずらしいことでした。
「家には、ああいうところがなくてな。だから、リビングにいるしかなかった」
私は、そのとき初めて気づきました。
居場所がなかったのは、私だけではなかったのです。
夫は、ほかに行くところがないから、ソファの真ん中に座っていたのでした。
話しかけてきたのも、ほかに話す相手がいなかったからかもしれません。
その夜、航平に電話をかけました。
「お父さんが、あなたの部屋を使いたいって言うんだけど」
「え、父さんが?」
航平は少し驚いて、それから笑いました。
「いいよ。あの部屋、もう物置だろ。帰っても寝るだけだし」
「本棚の漫画、どうする?」
「捨てていいって。いや、一番上の段のだけ、残しといて」
電話を切ってから、私は丸椅子に座って、しばらくぼんやりしていました。
息子の部屋を片づけることは、何年も考えないようにしていました。
まさか、夫のために片づけることになるとは思っていませんでした。
つまみを回すもの
週末、夫と二人で、息子の部屋を片づけました。
段ボールは和室の押し入れへ、座布団は物置へ運びました。
本棚は、一番上の段の漫画だけを残して、あとは夫の理科の本に入れ替えました。
机の引き出しの奥から、航平の中学のときの理科のノートが一冊出てきました。
夫は、それをぱらぱらとめくって、急に笑い出しました。
「見ろ、これ。月の満ち欠けの図が、全部逆向きだ」
「あなた、あの子に教えてあげなかったの」
「よその学校の先生が、家で口を出すもんじゃないと思ってな。あいつも、父親に聞くのはいやだったろう」
夫は、ノートを閉じて、本棚の一番上の段の、漫画の横に立てました。
「これは、残しておこう」
息子が中学生だったころ、夫は毎晩遅くまで学校にいて、夕飯を一緒に食べる日はほとんどありませんでした。
家に自分の場所がなかったのは、定年してからのことではなかったのかもしれません。
机の上を拭いていると、夫が言いました。
「ここに、ラジオがあるといいんだけどな」
「リビングのテレビじゃだめなの?」
「テレビは、目が離せなくなる。ラジオは、ほかのことをしながら聞けるんだ」
準備室のラジオは学校の物だったので、置いてきたそうです。
「つまみを回すやつでな。ざざっと鳴って、局が合うと声が出てくる。あれがいいんだ」
私は、そのラジオを、自分で選ぶことにしました。
部屋を渡すのなら、ラジオも私から渡したいと思ったのです。
次の火曜日、駅の向こうの電器店に行きました。
売り場には、手のひらに乗るものから、スマホとつなぐものまで、いろいろ並んでいました。
私は、家で決めてきた条件を、頭の中でもう一度確かめました。
一つ目は、つまみを回して局を選べること。
夫はボタンの多い機械が苦手で、テレビのリモコンも、使うボタンは四つだけです。
二つ目は、机の端に置ける大きさであること。
机の上には、夫の本とノートが広がるはずです。
三つ目は、コンセントでも乾電池でも使えること。
机のそばのコンセントは、息子が使っていたころのまま延長コードでつないであるので、電池でも動くほうが、置き場所を選ばないと思いました。
それから、イヤホンをつなぐ穴がついているものを探しました。
部屋の戸を閉めて、夫が一人で聞くためのものだからです。
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売り場の人が、電池を入れて音を出してくれました。
小さな音で、昼のニュースが流れました。
「ご主人にですか」
「ええ。部屋をひとつ、渡すことにしたので」
口に出してから、少し変な言い方だったかしらと思いました。
売り場の人は、「そうですか」とだけ言って、ラジオを箱に戻してくれました。
階段の上の、野球の声
ラジオを渡した日、夫は箱から出して、しばらく裏と表を眺めていました。
それから、机の右の端に置いて、つまみを回しました。
ざざっという音のあとに、男の人の声が聞こえてきました。
「ああ、これだ」
夫は、それだけ言いました。
次の日から、夫の一日が少し変わりました。
朝ごはんのあと、新聞を持って二階へ上がっていきます。
昼までは、部屋でラジオを聞きながら、新聞や本を読んでいるようでした。
夕方には、野球の中継の声が、階段の上から小さく聞こえてきます。
私は、最初の何日かは、どうしていいか分かりませんでした。
リビングが空いているのに、やっぱり台所の丸椅子に座っていました。
一年近く、自分がどこに座っていたのかを、体のほうが覚えてしまっていたのです。
一週間たった木曜日の午後、私は電子レンジの上から、綾子さんの本を下ろしました。
リビングに行って、ソファの窓側の端に座りました。
ふっくらしたままのクッションが、思っていたより硬く感じられました。
四十ページのしおりのところから、読み始めました。
階段の上から、ラジオの音がかすかに聞こえていました。
何を話しているのかまでは、分かりません。
その音が、なぜか邪魔になりませんでした。
気がつくと、二時間がたっていました。
窓から入る日の色が、少し赤くなっていました。
「お茶にしようか」
何もかもが、うまくいったわけではありません。
夫は、昼ごはんのたびに降りてきて、午前中に聞いた話を私に聞かせます。
「今日のラジオで言ってたんだが、渡り鳥ってのは、星を見て方角を決めるらしいぞ」
話し好きなのは、変わりません。
私も、ソファにいるときに話しかけられると、まだ少し身構えてしまいます。
雨の日曜には、夫がリビングに降りてきて、真ん中のくぼみに座ることもあります。
そんな日は、私は台所の丸椅子に戻ります。
丸椅子は、まだ片づけていません。
それでも、平日の午後の二時間くらいは、ソファの窓側の端が私の場所になりました。
十月の終わりの夕方、本の最後の章を読んでいると、階段を降りてくる足音がしました。
夫が、リビングの入り口に立っていました。
ラジオの野球は、もう終わったようでした。
夫は、私の手元の本を見て、何か言いかけました。
たぶん、その作家の話をしようとしたのだと思います。
でも、夫は口を閉じて、台所のほうを見ました。
「お茶にしようか。今日は俺がいれる」
夫がやかんに水を入れる音を聞きながら、私は最後の十ページを読みました。
その夜、綾子さんに、本を返す日を決めようとメッセージを送りました。
「一年かかって、やっと読み終わりました。今度、感想を聞いてね」
返事は、すぐに来ました。
「立ち飲み、卒業?」
私は少し考えてから、「半分だけ」と送りました。
いま、ソファの窓側の端には、小さなへこみができかけています。
真ん中の夫のくぼみに比べれば、まだずっと浅いものです。
ひじかけの上には、綾子さんから次に借りた本が一冊、しおりを最初のほうにはさんだまま置いてあります。
あなたなら、どうしますか?
あなたの家で、あなたが誰にも気を使わずに座っていられる場所は、どこでしょうか。一日のうちで、そこに何分くらい座っていますか。
家族の誰かが「いつもそこにいる」とき、その人にはほかに行ける場所があるでしょうか。相手の場所を先に作ることで、自分の場所が空くとしたら、家の中のどこを渡せそうですか。
この物語から、考えたいこと
1. 座らないことで、場所をあきらめていないか
話しかけられるのが疲れるから座らない、というのは、けんかを避ける小さな工夫です。
でも、それが一年続くと、自分の家なのに「立っている人」になってしまいます。
疲れの元は相手ではなく、座れる場所がないことのほうかもしれません。
2. 相手にも、居場所がないのかもしれない
リビングの真ん中から動かない人は、そこが好きなのではなく、ほかに行くところがないだけのこともあります。
仕事をしていたころには、家の外に「自分の場所」があった人です。
どちらかが我慢するより、二人とも座れる場所を探すほうが、長く続きます。
3. 空いたままの部屋を、誰の場所にするか
子どもが出ていったあとの部屋は、物置になりがちです。
その部屋を誰かの場所にすると、家の中の人の流れが少し変わります。
部屋を分けても、話す時間がなくなるわけではありません。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(つまみを回して局を選べる・机の端に置ける大きさ・コンセントでも乾電池でも使える・イヤホンがつなげる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
つまみで局を合わせる、机に置ける小型ラジオ
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この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。