映画館に一人で行ったことがない61歳。夫の隣の席しか知らなかった私が、朝いちばんの回の切符を一枚だけ買った秋
十月に入って最初の水曜日は、朝から細かい雨が降っていました。
駅前の映画館までは、バスで二十分です。
窓ガラスについた雨粒が、信号の赤を小さくいくつも映していました。
平日の朝九時のバスは、空いていました。
前のほうに制服の高校生が二人、うしろの席に私が一人。
膝の上のバッグには、財布とハンカチと、たたんだ小さなクッションが入っていました。
一人で映画館に行くのは、生まれて初めてです。
私は六十一歳です。
夫と二人で暮らしています。
結婚してから三十五年、映画には数えきれないほど行きました。
でも、一度も一人では行ったことがありませんでした。
三十五年、夫の右側の席
夫は、映画が好きな人です。
観るのは、ほとんどが外国のアクション映画です。
車が爆発したり、ビルの屋上から人が飛び移ったりする映画です。
結婚した年から、月に一度くらい、夫の観たい映画に二人で行くのが決まりのようになっていました。
席を選ぶのは夫で、いつも通路から二つ目と三つ目です。
夫が通路側で、私はその右。
座るとすぐ、夫は上着を脱いで、くるくると丸めて私に渡しました。
私は背が低くて、深く腰かけると、背中が背もたれに届かないのです。
丸めた上着を背中と背もたれのあいだに入れると、ちょうどよくなります。
新婚のころ、私が映画の途中で何度も座り直しているのを見て、夫が始めたことでした。
それから三十五年、夫は夏でも上着を持って映画館に行きました。
「ほら」と言って渡されるだけで、そのことについて話したことは一度もありません。
爆発の場面は、正直に言うと、あまり好きではありませんでした。
大きな音がするたびに、肩がびくっと動きます。
それでも、隣で夫が身を乗り出しているのを見るのは、嫌ではありませんでした。
帰りの車で、夫は「あの橋の場面はな」と話し続けます。
私は「うん、うん」と聞いていました。
映画は、夫と行くもの。
観るのは、夫の観たいもの。
いつのまにか、それが当たり前になっていました。
「寝るなら、来なくてよかったのに」
一度だけ、私の観たい映画に夫を誘ったことがあります。
十二年前、私が四十九歳の秋でした。
雑誌の小さな記事で見つけた、日本の映画でした。
海辺の町で、年を取った姉妹が古い家を片付ける話です。
爆発も、追いかけっこもありません。
「今度はこれ、観てみない?」
夫は記事をちらっと見て、「ああ、いいよ」と言いました。
映画が始まって二十分ほどで、隣から寝息が聞こえてきました。
小さないびきが混ざったとき、前の席の人が一度だけ振り返りました。
私は夫の腕を、肘で二回つつきました。
夫は目を開けて座り直しましたが、十分もすると、また頭が傾いていきました。
映画のいちばん大事な場面で、姉が妹に何かを言いました。
私は夫の寝息が気になって、その台詞を聞き逃しました。
ロビーに出たとき、私は言ってしまいました。
「寝るなら、来なくてよかったのに」
夫は驚いた顔をして、それから少し黙りました。
「お前が観たいって言うから、来たんだろう」
「だったら、起きていてくれればいいじゃない」
「……悪かったよ」
帰りの車の中は、四十分、どちらも口をききませんでした。
ラジオもつけませんでした。
家に着いてから、私は台所で洗い物をしながら、あんな言い方をしなくてもよかったと思いました。
でも、謝りませんでした。
それからです。
私が自分の観たい映画を、口にしなくなったのは。
観たい映画があっても、何年か待って、テレビでやるのを録画して観ました。
あの姉妹の映画も、四年後にテレビで観ました。
姉が妹に言った台詞は、「あんたの分の茶わんは、捨てられなかった」でした。
小さな居間のテレビで聞いたその台詞は、思っていたより、ずっとあっけなく聞こえました。
一人で映画館に行くという考えは、浮かびもしませんでした。
映画館に一人でいる女の人を見かけると、どこか寂しそうに見えたのです。
自分がそう見られるのが、こわかったのだと思います。
「朝いちばんの回って、一人の人ばかりですよ」
今年の九月の終わり、美容院の鏡の前でのことです。
担当の坂井さんは四十代の女性で、もう十年、私の髪を切ってくれています。
「この前の休み、映画に行ってきたんですよ」
坂井さんが、はさみを動かしながら言いました。
「どなたと?」
「一人です。休みの日の、朝いちばんの回。私、あれが好きで」
坂井さんが話したのは、私が新聞の広告で見て、気になっていた映画でした。
町の古い写真館を、一人で続けている女性の話です。
「あら、それ、私も観たいと思ってたの」
「行ってください。いい映画でしたよ」
「でも、一人で映画館って、行ったことがないのよ」
坂井さんは、鏡の中で少し目を丸くしました。
「朝いちばんの回って、一人の人ばかりですよ。私の列なんて五人くらいいて、全員一人でした」
「そういうものなの?」
「そういうものです。それに一人だと、泣いても誰にも気をつかわなくていいし」
坂井さんは笑って、私の前髪を少しだけ持ち上げました。
「終わったあとも、すぐ立たなくていいんですよ。最後の文字が流れ終わるまで、座っていられるんです」
最後の文字。
夫と行くと、いつもエンドロールが始まったところで席を立っていました。
夫は、終わった映画に長居をしない人です。
私は、あの流れていく文字を最後まで見たことが、一度もありませんでした。
背中と背もたれのあいだ
家に帰って、新聞の上映時間の欄を切り抜きました。
平日の、朝九時四十分の回がありました。
夕飯のとき、切り抜きを食卓に置いて、夫に言いました。
「来週の水曜日、これを観に行ってくる。一人で」
夫は箸を止めて、切り抜きをのぞきこみました。
「写真館の話か」
「ええ」
「朝の回か。バスで行くのか」
「バスで行くわ」
夫はそれ以上、何も聞きませんでした。
ただ、切り抜きを見ながら、ぽつりと言いました。
「それなら、俺の分はいらんな」
何のことか、そのときは分かりませんでした。
その夜、布団の中で、ふと気がつきました。
上着です。
一人で行けば、隣で上着を丸めて渡してくれる人はいません。
二時間、背中が浮いたまま座っていることになります。
自分の上着を丸めることも考えましたが、秋の薄いカーディガンでは厚みが足りません。
次の日、駅ビルの雑貨売り場に行きました。
小さなクッションが、いくつも並んでいました。
最初に手に取ったのは、ふかふかした丸いものでした。
触り心地はよかったのですが、バッグには入りません。
膝に抱えて映画館に入る自分を想像して、棚に戻しました。
決めた条件は、三つです。
薄くたためて、いつものバッグに入ること。
背中と背もたれのすきまを埋めるくらいの、厚みがあること。
座り直したときに、がさがさと音のしない布であること。
三つ目は、十二年前の映画館を思い出して足した条件でした。
隣の人の音がどれだけ気になるものか、私はよく知っていたからです。
広告
家で食卓の椅子の背に当ててみると、夫の上着を丸めたのと、同じくらいの厚みでした。
券売機の前で、三分
水曜日の朝、玄関で靴をはいていると、夫が居間から顔を出しました。
「雨だぞ。バス停まで車で送るか」
「いいの。バスで行くって決めたから」
「そうか」
夫は引っこみかけて、もう一度顔を出しました。
「終わったら、どこかで昼を食べてくればいい。俺は適当にやる」
三十五年、映画の日のお昼は、いつも二人で同じものを食べてきました。
「ありがとう。そうする」
そう答えて、私は傘を広げました。
バス停までの道の、濡れた落ち葉が靴の底に張りつきました。
映画館のロビーには、思っていたより人がいました。
でも、坂井さんの言ったとおりでした。
売店の前にも、壁ぎわのベンチにも、一人の人ばかりです。
白髪の男の人。
大きな紙袋を提げた、私と同じくらいの年の女の人。
リュックを背負った、若い女の人。
誰も、誰かを待っている様子がありません。
券売機の前で、私は三分ほど立ち止まりました。
いつもは夫が押していた画面です。
大人を一枚、と押すと、座席の表が出てきました。
空いている席が、青く光っていました。
いつもの、通路から二つ目と三つ目。
指が、その席に向かいかけました。
少し考えて、私は通路側の端の席を押しました。
隣を気にせず、立ったり座ったりできる席です。
一枚だけ出てきた切符を、しばらく手の中で見ていました。
小さな紙なのに、なんだか重たく感じました。
エンドロールの、最後の一行
通路側の端の席に座ると、場内には、ぽつりぽつりと人の頭が見えました。
数えてみると、九人でした。
九人とも、隣の席を一つ以上空けて座っていました。
誰も、こちらを見ていません。
みんな、それぞれの画面を待っているのだと思いました。
場内が暗くなって、予告が始まりました。
私はバッグからクッションを出して、背中のうしろに入れました。
深く腰かけると、背中がちゃんと背もたれに届きました。
隣の席は、空いていました。
誰の横顔も見なくていい。
眠っていないか、つまらなくないか、気にしなくていい。
それだけで、肩の力がこんなに抜けるものだとは知りませんでした。
映画の中で、写真館の女性は、何十年も前に撮った家族写真を、一枚ずつ持ち主に返しに行きます。
大きな事件は、何も起きません。
途中で、私は二回、ハンカチを目に当てました。
隣を気にせずに泣いたのは、いつ以来だったでしょう。
映画が終わって、エンドロールが始まりました。
いつもなら、ここで夫が立ち上がります。
私は、座ったままでいました。
黒い画面を、白い文字がゆっくり上っていきます。
名前、名前、名前。
こんなに大勢の人が、この二時間を作っていたのだと思いました。
最後の一行が消えて、場内の明かりがつきました。
同じ列の、三つ向こうの席に座っていた女の人が、立ち上がりながらこちらを見ました。
私より少し年上に見える、灰色のコートの人でした。
「最後まで見ていく人、久しぶりに見たわ」
「初めてなんです。最後まで見たの」
思わずそう言うと、その人は笑いました。
「あら。じゃあ、今日はいい日ね」
それだけ言って、その人は出口のほうへ歩いていきました。
私のためのパンフレット
ロビーに出ると、売店にパンフレットが並んでいました。
夫は、観た映画のパンフレットを必ず買う人です。
家の本棚の下の段には、三十五年分のパンフレットが並んでいます。
全部、夫が選んだ映画のものです。
私は、今日観た映画のパンフレットを一冊、手に取りました。
レジで「一冊ですね」と言われて、「はい」と答えました。
自分の観たい映画のパンフレットを、自分で買う。
それだけのことに、三十五年かかりました。
帰りのバスに乗るころには、雨が上がっていました。
バッグの中で、パンフレットの角が、たたんだクッションに当たっていました。
家に帰ると、夫が居間で新聞を読んでいました。
「どうだった」
「よかったわ。泣いちゃった」
「そうか」
夫は新聞をたたんで、少し間を置いてから言いました。
「背中は、どうした」
私は、バッグからクッションを出して見せました。
夫はそれを手に取って、手のひらで厚みを確かめるように押しました。
「俺の上着と、同じくらいだな」
「同じくらいのを、探したのよ」
「俺の分はいらんな、って言ったでしょう。あれ、上着のことだったのね」
「……三十五年、持っていったからな」
夫はそう言って、クッションを私に返しました。
それから、少し言いにくそうに付け加えました。
「写真館の話、あとで聞かせてくれ。映画館で観たら、俺はたぶん寝るから」
十二年前のロビーのことを、夫も覚えていたのだと思いました。
本棚の下の段
あれから、二週間がたちました。
私は、もう一度だけ、一人で映画館に行きました。
今度は、券売機の前で止まりませんでした。
席も、迷わずに通路側の端を選びました。
一人で観た映画は、帰り道に話す相手がいません。
バスの窓に頭をもたせかけて、誰にも言えないまま場面を思い出していることもあります。
それが少し物足りない日も、正直に言えば、あります。
先週の火曜日、今度は夫が一人で出かけていきました。
朝いちばんの回で、例によって、車が爆発する映画です。
「一人で行くの?」
「お前が行けるなら、俺も行けるだろう」
夫は、上着を持たずに出ていきました。
昼過ぎに帰ってきた夫は、パンフレットを一冊、本棚の下の段に差し込みました。
三十五年分の夫のパンフレットの端に、私の一冊が並んでいます。
夫は、新しい一冊を、私の一冊の隣にぴったりくっつけて置いていきました。
今でも、月に一度は、夫と二人で映画に行きます。
そのときは相変わらず、夫が上着を丸めて渡してくれます。
クッションは、バッグの中に入れたままです。
あなたなら、どうしますか?
もし誰にも合わせなくていいとしたら、今いちばん観たい映画は何ですか。平日の朝いちばんの回に、通路側の端の席で、一人で座っている自分を思い浮かべられますか。
誰かと一緒に出かけることで、当たり前のように助けてもらっていたことはありますか。一人で行くとしたら、それを自分でどう用意しますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 「一緒に行く」が、「相手に合わせる」になっていないか
長く誰かと出かけていると、行き先や観るものを選ぶのが、いつも同じ人になっていることがあります。
それが嫌なわけではないのに、自分の「観たい」を口にしない癖だけが残ることがあります。
一緒に行くことと、自分の好みをしまっておくことは、本当は別のことです。
2. 一人でいる人は、寂しい人とは限らない
映画館に一人でいる人を見て、寂しそうだと感じるのは、自分がそう見られるのをこわがっているからかもしれません。
実際には、平日の朝の回のように、一人で来ている人のほうが多い場所もあります。
一人でいることを選んでいる人も、同じ場所にたくさんいます。
3. 誰かがしてくれていたことを、自分で用意する
一人で出かけると、これまで誰かが黙ってしてくれていたことに気づくことがあります。
そのとき、「だから一人では無理」ではなく、「それなら自分で用意しよう」と考えることもできます。
用意できたとき、相手がしてくれていたことの重さも、あらためて分かります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
次の物語
この記事について
※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。