ひとりの時間
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一人で外食できない50代。57歳の私が、はじめてカウンターに座った日

喫茶店の窓辺で、ひとりでお茶を飲む女性
kuroko

カウンターの端の席に座ると、店の人が何も言わずに、湯のみのお茶を置いてくれました。

水曜日の、午前十一時五分です。

壁の黒板には、白いチョークで「本日の日替わり 鯖の味噌煮」と書いてあります。

「日替わりを、お願いします」

「はい、日替わりひとつ」

厨房の奥から、ごま油のにおいがしてきました。

ふと、ガラス戸の向こうを見ると、私と同じくらいの年の女性が、店の前で立ち止まっていました。

黒板のメニューを見て、中をのぞいて、それから一歩下がります。

また一歩近づいて、結局、駅のほうへ歩いていってしまいました。

その背中を、私はよく知っていました。

半年前まで、あれは私だったのです。

十二時十分の駅前

用事の帰り、駅前の時計は十二時十分を指していました。

歯医者の定期健診が思ったより早く終わって、昼の時間がぽっかり空いた日でした。

お腹は、ちゃんと空いていました。

駅前には、そば屋も、定食屋も、パスタの店もあります。

どの店からも、昼どきのいいにおいが流れてきていました。

そば屋の前で、足を止めました。

ガラス越しに見える店の中は、背広の男の人たちでいっぱいでした。

定食屋の前にも行きました。

入口に、四人がけのテーブルが並んでいるのが見えました。

結局、私は電車に乗って家に帰りました。

玄関で靴を脱いで、冷蔵庫を開けて、前の晩の残りの肉じゃがを、鍋から直接つまみました。

立ったまま、です。

座って食べるほどのものでもない気がしたのです。

五十七歳の、ある水曜日のことでした。

流しの前で肉じゃがを食べながら、なんだか情けなくなりました。

お金がないわけではありません。

時間がないわけでもありません。

ただ、ひとりで店の戸を開ける、その一歩が出ないだけなのです。

「あら、ひとり?」

ひとりで店に入れない理由を、自分でも考えたことがあります。

ひとつめは、人の目です。

この年で、ひとりでごはんを食べている人。

そう思われるのが、どうしても嫌でした。

たぶん、はじまりは三十代のころの、ある昼のことです。

子どもが幼稚園に行っている間に、ひとりでファミリーレストランに入ったことがありました。

窓ぎわの席で、ハンバーグのランチを頼みました。

久しぶりに、誰の世話もしないで食べるごはんでした。

そこへ、義理の姉が、友だちと三人で入ってきたのです。

「あら、ひとり?」

義姉は、私のテーブルの前で立ち止まりました。

「ええ、ちょっと、用事の帰りで」

「誰かと待ち合わせ?」

「ううん、ひとりよ」

「……そう」

義姉は、それ以上何も言わずに、奥の席へ行きました。

悪気なんて、なかったのだと思います。

ただ、あの「……そう」の間が、ずっと耳に残りました。

ハンバーグは、半分残しました。

それから、ひとりで店に入ろうとするたびに、あの間を思い出すようになりました。

ふたつめは、店の人への気兼ねです。

昼の混む時間に、ひとりで四人がけの席に座るのは申し訳ない。

店の人に、迷惑そうな顔をされたらどうしよう。

みっつめは、荷物です。

いつも持ち歩いているのは、財布も、ポーチも、折りたたみ傘も、エコバッグも入った、大きな肩掛けのバッグでした。

椅子の背もたれに掛けると、後ろを通る人の邪魔になります。

足元に置くと、床が気になります。

隣の椅子に置けば、その席をひとつふさいでしまいます。

そんなことを考えているうちに、いつも店の前を通り過ぎていました。

「長らくのご愛顧、ありがとうございました」

秋のはじめ、駅の近くの喫茶店に、貼り紙が出ました。

白い紙に、筆ペンの字でこう書いてありました。

「長らくのご愛顧、ありがとうございました」

古い煉瓦の壁に、緑色の日よけがかかった店です。

窓ぎわに、ナポリタンの見本が並んでいました。

高校時代からの友人の典子さんと、「いつか行こうね」と話していた店でした。

その晩、典子さんに電話をかけました。

「ねえ、駅前の、緑の日よけの喫茶店。閉まっちゃったの」

「えっ、あそこ? いつか行こうって言ってたのに」

「そうなのよ。いつから言ってたと思う?」

典子さんは、少し考えてから言いました。

「……うちの子が中学のときだから、十年くらい?」

「十年よ」

電話の向こうで、典子さんが小さく笑いました。

「十年も、いつかって言ってたのね、私たち」

「典子さんと予定が合わなかったら、ひとりで行けばよかったのよね。私、それができなくて」

「私だってできないわよ。ひとりで喫茶店なんて、何を見てればいいか分からないもの」

二人で笑って、電話を切りました。

笑ったあとで、胸の奥に何かが残りました。

十年、そう言い続けていたことに、そのとき初めて気づいたのです。

行こうと思えば、行けた日は何百日もあったはずでした。

ガラスの向こうの文庫本

閉まった喫茶店の隣の通りに、小さな定食屋があります。

間口が狭くて、カウンターが八席と、奥に二人がけのテーブルが二つだけの店です。

前を通るたびに、ちらりと中をのぞいてはいました。

その日、ガラス戸の向こうのカウンターに、同じ年ごろの女性が座っていました。

グレーのカーディガンを着て、文庫本を開いて、湯のみのお茶を飲んでいます。

食べ終わったあとの、盆が脇に寄せてありました。

店の人は厨房で手を動かしていて、ほかのお客さんは、それぞれ自分の丼を見ています。

誰も、その人を見ていませんでした。

その人も、誰のことも気にしていないように見えました。

ページをめくる手つきが、自分の家の居間にいるみたいに、落ち着いていました。

私が思っていたほど、人は他人を見ていないのかもしれない。

そう思いました。

あの日のファミリーレストランで、私をじっと見ていたのは、義姉ひとりだけでした。

ほかの何十人ものお客さんは、たぶん、私がいたことにも気づいていなかったのです。

膝の上に置ける大きさ

次の週、その定食屋に行ってみることにしました。

三つの理由のうち、人の目は、すぐには変えられません。

でも、あとの二つは、自分で変えられる気がしました。

まず、時間です。

選んだのは、開店してすぐの十一時にしました。

混む時間を外せば、席のことで気兼ねしなくていいと思ったからです。

次に、荷物です。

大きなバッグの中身を、台所のテーブルに全部出してみました。

財布、ポーチ、目薬、のど飴、エコバッグが二枚、折りたたみ傘、ばんそうこう、郵便局の控え。

昼を食べに行くだけなら、ほとんどいらないものでした。

それで、膝の上に置ける小さいバッグをひとつ選ぶことにしました。

条件は、三つです。

財布と文庫本が入ること。

肩から斜めに掛けられること。

雨の日でも気にならないこと。

斜めに掛けておけば、座ったあとも膝の上にのせておけます。

背もたれにも、床にも、隣の椅子にも置かなくていいのです。

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それから、文庫本を一冊持っていくことにしました。

料理を待つ間、手持ち無沙汰になったときに、下を向ける場所がほしかったのです。

ガラス越しに見た、あの女性の真似でもありました。

本棚から、昔読んだ短い小説を一冊選びました。

ただ、表紙を見られるのが少し恥ずかしかったので、布のカバーを掛けることにしました。

文庫本の大きさに合うことと、手に持ったときにすべらないことが条件でした。

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最後に、行きたい店の名前を書いておく紙を、財布に入れることにしました。

十年「いつか」と言い続けた喫茶店のことが、頭から離れなかったのです。

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一枚目に、あの定食屋の名前を書きました。

その下に、もう二つ、ずっと気になっていた店の名前を書きました。

前の晩、新しいバッグに財布と文庫本を入れて、居間の椅子に座ってみました。

斜めに掛けたまま膝にのせると、ちょうど両手の間に収まりました。

「何してるんだ、家の中で」

風呂上がりの夫が、不思議そうにこちらを見ました。

「ちょっとね。練習」

「なんの練習だ」

「内緒」

夫は首をかしげて、冷蔵庫の麦茶を出しに行きました。

十一時、客は三人

当日は、十時五十分に店の前に着きました。

のれんが出るのを、向かいの薬局の前で待ちました。

十一時ちょうどに、店の人がのれんを掛けに出てきました。

目が合って、会釈をされました。

もう、引き返せませんでした。

戸を開けると、「いらっしゃいませ」と声がかかりました。

「おひとりですか。お好きな席へどうぞ」

店には、お客さんが三人しかいませんでした。

作業着の若い男の人と、背広の年配の人と、赤ちゃんを抱いたお母さんです。

私はカウンターのいちばん端に座りました。

バッグは、斜めに掛けたまま膝の上に置きました。

「日替わりを、お願いします」

声が少し上ずりました。

待つ間、文庫本を開きました。

三ページ読んだところで、料理が来ました。

鶏の照り焼きと、ひじきの煮物、小松菜のおひたし、きゅうりの浅漬け。

四品の小鉢の横に、湯気の立つ味噌汁がありました。

結局、本はほとんど読みませんでした。

味噌汁が温かくて、家で立ったまま食べるものとは、まるで違いました。

半分ほど食べたところで、カウンターの向こうから、店の女性が声をかけてきました。

「お味噌汁、おかわりできますからね。遠慮なく」

私は、箸を持ったまま、一瞬迷いました。

ひとりで来て、おかわりまで頼むなんて、図々しくないだろうか。

そう思いかけて、隣を見ると、作業着の若い人が、ちょうど「すみません、味噌汁ください」と椀を差し出していました。

「……じゃあ、お願いします」

「はい、どうぞ」

二杯目の味噌汁には、さっきより多く豆腐が入っていました。

そんな小さなことが、なぜか、とてもうれしかったのです。

自分のために、誰かが作ってくれたごはんを、座って食べる。

それだけのことを、私はずいぶん長い間、自分に許していなかったのかもしれません。

食べ終わって、時計を見ると、二十分でした。

誰も、私を見ていませんでした。

お会計のとき、店の人が「ありがとうございました。またどうぞ」と言いました。

「ごちそうさまでした」

外に出ると、十一時半でした。

駅に向かう道で、私は財布のメモを出して、一枚目の店の名前の横に、小さく丸をつけました。

「カウンターの端、空いてますよ」

それから、月に二度ほど、その店に行くようになりました。

いつも水曜日の、十一時すぎです。

二度目は、厨房から「今日は鯖ですよ」と声をかけられました。

三度目に行ったとき、戸を開けたとたん、店の人に言われました。

「カウンターの端、空いてますよ」

私がいつも座る席を、覚えていてくれたのです。

名前も知りませんし、世間話もしません。

けれど、店に入るときの緊張が、その日から、ほとんどなくなりました。

財布のメモの二つ目の店にも、行ってみました。

駅の反対側の、うどん屋です。

こちらは十一時半に行って、少し混んでいたので、入口で「カウンターでよろしければ、すぐご案内できますよ」と言われました。

「はい」と答えられました。

三十代の私なら、きっと「また来ます」と言って、帰っていたと思います。

十二月、典子さんとお昼を食べたとき、この話をしました。

「えっ、ひとりで定食屋に行ってるの?」

「月に二回くらい。十一時に行くと、空いてるのよ」

「すごいじゃない。私はまだ無理だわ」

「私も、半年前は無理だったの」

典子さんは、しばらく私の顔を見て、それから言いました。

「なんか、顔つきが変わったわね。前より、きょろきょろしなくなった」

夫の知らない水曜日

夫は、私が昼にひとりで外食していることを知りません。

話していないからです。

隠しているわけではなく、言うほどのことでもない気がしています。

あるいは、口に出したら、あの店に通う水曜日が、少し違うものになってしまう気がするのかもしれません。

一月の寒い晩、夕飯のあとに、夫がぽつりと言いました。

「お前、昼はちゃんと食べてるのか」

「え?」

「俺がいない昼は、立ったまま適当にすませてるだろう。前に一回見たぞ。流しの前で、鍋から食べてるの」

私は、思わず笑ってしまいました。

あの日の肉じゃがを、夫は見ていたのです。

「今は、ちゃんと座って食べてるわよ」

「ならいいけどな」

夫はそれ以上聞かずに、テレビのほうを向きました。

どこで、とは聞かれませんでした。

ちゃんと座って食べている。

夫が気にしていたのは、それだけだったのです。

友人と行く食事は、今も楽しみです。

そこにひとつ、「ひとりで行く昼」が増えただけです。

財布のメモには、まだ丸のついていない店の名前が一つ残っています。

冬のあいだに、行けるかどうかは分かりません。

十年言い続けて行けなかった喫茶店のことは、今も少し悔やんでいます。

だから今は、「いつか行こう」と思った店には、なるべく早く行くようにしています。

先週の水曜日、あのガラス戸の前で引き返していった女性のことを、ときどき思い出します。

あのとき、戸を開けて、「カウンター、空いてますよ」と声をかけていたら、あの人は入ってきたでしょうか。

それとも、半年前の私と同じように、やっぱり駅のほうへ歩いていったでしょうか。

次にあの背中を見かけたら、私は戸を開けられるでしょうか。

あなたなら、どうしますか?

もし来週、ひとりでお昼を食べるとしたら、何時に、どんな店を選びますか。

そして、「いつか行こう」と思ったまま、まだ行っていない店はありませんか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 入れない理由は、たいてい三つに分かれる

人の目、店への気兼ね、荷物や席の心配。

このうち、荷物と時間帯は、自分で変えられます。

まず変えられるところから外していくと、残った不安が小さくなります。

2. 時間帯を変えるだけで、店の雰囲気は変わる

開店してすぐや、昼の混雑を過ぎた時間は、席にも余裕があります。

同じ店でも、時間が違えば別の場所のように感じられることがあります。

3. 「いつか行こう」には、期限がない

十年言い続けても、店は待ってくれません。

行きたい店の名前を、ひとつだけ紙に書いておくと、次に近くを通ったときに思い出せます。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(膝に置ける大きさ・斜めがけ・雨に強い/文庫本にかけられる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

小さめのショルダーバッグ

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  • ブランド:アネロ グランデ(anello GRANDE)
  • 販売ページの記載:重量260g・タテ23×ヨコ36×マチ13cm
  • 販売ページの記載:ポケット9(外側5・内側4)・ショルダー全長122cm・撥水
  • 選ぶときは、重さ・斜めがけの長さ・ポケットの数・雨に強いかを見ると選びやすくなります。

文庫本のブックカバー

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  • 販売ページの記載:A6(文庫本)サイズ・帆布生地・日本製
  • 販売ページの記載:片面を縫い止めしていないので、本の厚みに合わせて調整できる
  • 販売ページの記載:内側にゴム付き・しおり紐はカバー本体に付いている

財布に入る、行きたい店を書くカード

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  • 販売ページの記載:名刺サイズ(55×91mm)・無地・160枚
  • 販売ページの記載:クラフト紙・一枚ずつ書いて持ち歩ける
  • 販売ページの記載:日本製
  • 選ぶときは、大きさ(財布に入るか)・紙の厚さ・枚数を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

次の物語

この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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