一人だと旅館に泊まれない、と思っていた56歳。人数の欄を「1」にして探し直した私が、山あいの宿で過ごした一晩
「ご予約が確定いたしました」
「宿泊日 十一月十三日(木)より一泊」
「ご利用人数 大人1名様」
「お部屋 和室六畳(山側)」
「お食事 夕食・朝食付き(お食事処の個室にてご用意いたします)」
「送迎 あり(最寄り駅 十五時発の便)」
「お一人様でのお越しを、心よりお待ちしております」
そのメールが届いたのは、十月の終わりの、通勤の電車の中でした。
大人1名様。
私はその一行を、三回読みました。
降りる駅を一つ乗り過ごしそうになって、あわてて立ち上がりました。
五十六歳です。
生まれて初めて、一人で旅館を予約しました。
「お二人様からのご案内となっておりまして」
十年前、一度だけ、一人で旅館に泊まろうとしたことがあります。
四十六歳の誕生日の少し前でした。
雑誌で見た、川沿いの小さな温泉旅館に、どうしても泊まってみたくなったのです。
夫は仕事が忙しい時期で、息子は受験の年でした。
一人で一泊くらいなら、と思って、昼休みに会社の廊下から電話をかけました。
「一名で、泊まれますでしょうか」
電話に出た女の人は、少し間を置いてから、ていねいに言いました。
「申し訳ございません。当館は、お二人様からのご案内となっておりまして」
「あ、そうですよね。すみません、聞いてみただけで」
私は早口でそう言って、電話を切りました。
廊下の窓に映った自分の顔が、赤くなっていました。
断られたことより、「そうですよね」と言った自分が恥ずかしかったのです。
一人で旅館に泊まりたがる女は、どこか変に思われる。
そのとき、そう決めつけてしまいました。
それから十年、旅館は、誰かと行く場所になりました。
佳代さんとの約束
去年の春、高校のころからの友人の佳代さんと、秋に温泉に行く約束をしました。
二人で旅館を選んで、予約もしました。
九月の終わりに、佳代さんから電話がありました。
「ごめん、娘の出産が早まりそうなの。十一月は、たぶん動けない」
「いいのよ、そんなこと。おめでとう」
「本当にごめんね。宿、あなただけでも行ってきたら」
「一人じゃ、旅館はね。取り消しておくわ」
私は、その日のうちに予約を取り消しました。
佳代さんのせいだとは、少しも思いませんでした。
ただ、取り消しの画面の「二名」の文字を見ながら、またか、と思いました。
誰かの都合が合わなければ、行かない。
私の旅行は、いつもそうでした。
今年の春にも、同じような約束が一度流れました。
課の同僚と行くはずだった日帰りの温泉が、前の晩からの雨で取りやめになったのです。
その日も、一人で行くという考えは、少しも浮かびませんでした。
一日、家で洗濯物をたたんで過ごしました。
人数の欄は「2」のまま
今年の九月、夫が会社の旅行で二泊、家を空けることになりました。
その夜、一人で夕飯を食べながら、私は携帯で旅館の予約の画面を開いていました。
人数の欄は、いつものように「2」になっていました。
山あいの、部屋から紅葉が見える旅館が出てきました。
写真を何枚も見て、ここに泊まってみたいと思いました。
試しに、人数の欄を「1」に変えてみました。
画面が切り替わると、その旅館は消えていました。
出てきたのは、駅前のビジネスホテルばかりです。
やっぱり、と思いました。
十年前の電話の声が、耳の奥で聞こえた気がしました。
私は人数を「2」に戻して、画面を閉じました。
「出てこない宿は、探さなくていいんですよ」
次の日、会社のお昼休みに、その話をしました。
同じ課の三宅さんは三十代の後半で、休みのたびに一人で旅行に出かける人です。
「一人だと、旅館って泊まれないのね。昨日、しみじみ思っちゃった」
三宅さんは、お弁当の箸を止めて言いました。
「それ、探し方が逆なんですよ」
「逆?」
「最初から、人数を『1』にして探すんです。そこで出てくる宿は、一人のお客さんに来てほしい宿ってことですから」
「でも、泊まりたいところは出てこなかったのよ」
「出てこない宿は、探さなくていいんですよ。一人で行って、気をつかうだけですから」
三宅さんは、携帯を出して、自分の泊まった宿の写真を見せてくれました。
小さな旅館の、窓の広い和室でした。
「ここ、一人の人しか泊まらない日もあるんですよ。夕ごはんも、一人ずつ仕切りのある席で」
私は、写真の畳の部屋を、しばらく見ていました。
泊まりたかったのは、あの紅葉の旅館そのものではなかったのかもしれません。
畳の部屋で、窓の外を見ながら、誰にも気をつかわずに一晩過ごすこと。
それが泊まりたかった理由でした。
三つの条件
その夜、人数を「1」にしたまま、もう一度探しました。
今度は、出てきた宿だけを見ることにしました。
決めた条件は、三つでした。
一人で予約できること。
夕食は、大広間ではなく、部屋か個室でいただけること。
駅から、送迎の車があること。
二つ目は、大広間の真ん中で、一人でお膳に向かう自分を想像して足した条件です。
三つ目は、私が車の運転をしないからでした。
山あいの宿は、駅からバスが一日に数本しかないところが多いのです。
三つの条件で絞ると、候補は五つになりました。
その中から、窓の外に山が見える、部屋数の少ない宿を選びました。
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予約の最後の画面で、人数の欄の「1」を、もう一度確かめました。
確定の文字を押すまでに、五分くらいかかりました。
夫が旅行から帰ってきた夜、そのことを話しました。
「十一月に、一人で温泉に行ってくる。木曜日に、一泊だけ」
夫は、上着をハンガーに掛けながら、「どこだ」と聞きました。
宿の名前と場所を言うと、夫は携帯でその町の天気を調べ始めました。
「山は冷えるぞ。十一月なら、朝は霜が降りる」
「そうね。厚手のものを持っていく」
「送迎は、何時だ」
「駅から、三時」
夫は、台所のカレンダーの十一月の欄に、「三時 駅」と書き込みました。
私の予定を、夫がカレンダーに書いたのは、初めてのことでした。
階段を落ちていったスリッパ
旅館のことを考えるたびに、もう一つ思い出す場面がありました。
二十年ほど前の、会社の慰安旅行です。
古い旅館の、急な木の階段でした。
大浴場から部屋に戻る途中、借りたスリッパの片方が足から抜けました。
スリッパは、ぱたん、ぱたんと音を立てて、階段の下まで落ちていきました。
下の廊下にいた同僚たちが、いっせいに見上げました。
「あら、シンデレラだ」
誰かがそう言って、みんなが笑いました。
私も一緒に笑いながら、片足で階段を下りて、スリッパを拾いに行きました。
足の小さい私には、旅館のスリッパはいつも大きすぎるのです。
それ以来、旅館の階段では、手すりを握って、足の指に力を入れて歩いていました。
今回は、自分のスリッパを持っていくことにしました。
決めた条件は、三つです。
かかとがあって、階段で脱げないこと。
たたむと、手のひらくらいの大きさになること。
底に滑り止めがついていること。
買い物に行った売り場には、ふわふわした厚手のものもありました。
でも、厚いと鞄の中で場所をとります。
一泊の小さな鞄に入ることを、先に考えました。
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家の廊下で、はいたまま小走りをしてみました。
かかとが、ちゃんとついてきました。
十五時の送迎
十一月十三日は、よく晴れていました。
特急を降りた駅は小さくて、改札の外に、宿の名前の入ったワゴン車が一台止まっていました。
運転していたのは、六十代くらいの男の人でした。
「お一人様の、ご予約の方ですね。どうぞ」
乗っていたのは、私一人でした。
「紅葉は、来週あたりが見ごろですよ。今年は、少し遅くて」
運転手さんが、前を向いたまま言いました。
「そうなんですか。少し早すぎましたね」
「いえ、上のほうはもう始まってます。明日の朝、晴れたら、部屋からよく見えますよ」
誰かと一緒なら、きっと隣の人と「残念ね」と言い合っていたと思います。
一人だと、運転手さんの「よく見えますよ」が、そのまま耳に残りました。
車は、川沿いの道をくねくねと上っていきました。
窓の外の山は、上のほうから赤や黄色に変わり始めていました。
宿の部屋は、六畳の和室でした。
窓の外に、山の斜面が近くに見えます。
座卓の上には、お茶のセットと、小さなお菓子が一つ置いてありました。
湯のみは、一つだけでした。
その湯のみを見て、私はなぜか少し笑ってしまいました。
湯のみが一つだけの旅館の部屋を、私は十年間、どこかで思い浮かべては、寂しい絵だと思っていました。
実際に目の前にあると、それはただの、私の分の湯のみでした。
鞄を開けて、たたんだスリッパを出し、座卓の横に置きました。
夫に「着きました」とだけ送ると、すぐに「了解」と返ってきました。
いつもの夫の返事でした。
大浴場は、夕方の四時で、誰もいませんでした。
窓の外の山を見ながら、肩までお湯につかりました。
一緒に来た人と、何時に部屋に戻るかを決めなくていい。
のぼせる前に、自分で上がればいい。
それだけのことが、思っていたより、ずっと気楽でした。
部屋に戻るとき、私は鞄から出したスリッパをはいて、階段を上りました。
手すりに手を添えるだけで、足の指に力を入れなくても上りきれました。
「お一人様、最近多いんですよ」
夕食は、廊下の奥の、襖で仕切られた小さな個室でした。
お膳を運んでくれたのは、私より少し年上に見える仲居さんでした。
「お一人様、最近多いんですよ。平日は、半分くらいがお一人のお客様です」
「そうなんですか。一人で旅館なんて、変に思われないかと思って」
仲居さんは、首を横に振りました。
「私どももね、七、八年前までは、お一人様はお断りしていたんです」
私は、箸を持ったまま顔を上げました。
「十年前に、よその旅館で、電話で断られたことがあるんです」
「そうでしたか。あのころは、どこもそうだったんですよ。お部屋を一人で使っていただくと、どうにも割に合わなくて」
仲居さんは、お吸い物の蓋を取りながら続けました。
「でも、お一人で来たいという電話が、あんまり多いので。お断りするたびに、こちらも申し訳なくて」
十年前、電話の向こうの女の人が、少し間を置いてから答えたのを思い出しました。
あの間は、困っていた間だったのかもしれません。
「最初は、どうおもてなしすればいいか分からなかったんです。お話ししたほうがいいのか、放っておいたほうがいいのか」
「今は、どうされてるんですか」
「お客様に決めていただいてます。お話ししたい方には、こうして長居します」
仲居さんはそう言って笑い、「お話ししたくない方は、お膳を置いたらすぐ下がりますから」と付け加えました。
「今日は、長居してください」
私がそう言うと、仲居さんは、この山の紅葉が見ごろになる時期の話を、十分ほどしてくれました。
その夜、布団に入ると、窓の外から川の音が聞こえてきました。
昼間、送迎の車から見下ろした、あの川です。
隣の布団で誰かが寝返りを打つ音は、しません。
明かりを消す時間も、自分で決めました。
十時には、もう眠っていたと思います。
霜の降りた朝から
次の朝、窓を開けると、夫の言ったとおり、庭の草に霜が降りていました。
白くなった草の上に、日が差し始めていました。
私は、その窓の写真を一枚だけ撮って、佳代さんに送りました。
「一人で来ました。十年越しです」
昼過ぎに、返事が来ました。
「えらい。孫が落ち着いたら、私も一人で行ってみる。それか、二人で行って、別々の部屋に泊まるのもいいね」
別々の部屋、という言葉に、私は電車の中で声を出して笑いそうになりました。
家に帰ると、夫が台所のカレンダーの「三時 駅」の横に、丸をつけていました。
「どうだった」
「よかったわ。霜、降りてた」
「だろう」
夫はそれだけ言って、お土産の包みを開けました。
あれから、季節が進みました。
十二月に、宿から葉書が届きました。
山の上のほうに、初雪が降ったと書いてありました。
一月には、軒先の氷柱の写真が載った葉書が届きました。
私はその二枚を、冷蔵庫の扉に並べて貼っています。
予約の画面を開くとき、人数の欄に「1」を入れる指は、今もほんの少しだけ止まります。
十年前の電話の声が、まったく聞こえなくなったわけではありません。
それでも、今朝、三月の平日の空き部屋を調べていました。
山の雪が解けて、あの窓の外が若い緑になるころです。
あなたなら、どうしますか?
もし一人で旅館に泊まるとしたら、あなたが譲れない条件は何ですか。予約の画面で人数を「1」にしたとき、出てきた宿の中から、どんな三つで選びますか。
誰かの都合が合わなかったことで、取りやめてきた旅はありますか。その旅のうち、本当は一人でも行きたかったものは、どれでしょうか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 「一人では泊まれない」は、昔の経験から来ていることがある
一度断られた経験があると、その場所そのものが自分を拒んでいるように感じることがあります。
けれど、宿の事情は年月とともに変わっていきます。
十年前の断りが、今もそのまま続いているとは限りません。
2. 出てこない場所ではなく、出てくる場所から選ぶ
泊まりたかった宿が一人では選べないと、一人旅そのものができない気がしてしまいます。
最初から一人の条件で探すと、一人の客を待っている宿だけが残ります。
泊まりたかったのは「その宿」なのか、「そこで過ごす時間」なのかを分けて考えると、選べる場所が増えます。
3. 気が重くなる場面を、条件に変える
大広間で一人で食べる、駅から先の足がない、慣れない階段が不安。
一人で泊まるのをためらう理由は、たいてい具体的な場面です。
その場面を一つずつ条件にして選ぶと、「なんとなく不安」が「確かめられること」に変わります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(かかとがあって脱げない・たたむと手のひらくらいになる・底に滑り止めがある)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
かかとのある、たためる携帯用のスリッパ
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- 販売ページの記載:かかと付き・折りたたんで持ち運べる
- 販売ページの記載:履き口にゴムが入っている・底はゴム
- 選ぶときは、かかとがあるか・たたんだときの大きさ・底の素材を見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
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この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。