バスツアーの一人参加が不安な60代女性。旅はいつも友達と二人だった63歳の私が、集合場所に十五分早く着いた朝
新聞といっしょに入っていた、薄い紙の案内でした。
いちばん上に、こう書いてありました。
「おひとりさま参加限定の旅 ぶどう狩りと、そばの里 日帰り」
その下に、小さな字で三行ありました。
「お申し込みは、お一人様でお願いいたします」
「お座席は、原則としてお一人で二席ご利用いただきます」
「車内でのお客様同士のご紹介は、いたしません」
三行目を、私は二回読みました。
紹介は、いたしません。
その一行を読むために、私はこの二年、旅行の案内を開いていたのかもしれません。
「一人参加」の欄で、いつも画面を閉じていました
私は六十三歳です。
夫は六十五歳で、週に二回、シルバー人材センターの仕事に出ています。
息子の直人は三十八歳で、隣の県にいます。
家は、駅までバスで十二分のところにある、築四十年の一戸建てです。
旅行は、ずっと三崎さんと二人でした。
三崎さんは、子どもの学年が同じで、地区の子ども会の役員を一緒にやった人です。
つきあいは、三十年を超えます。
春に一回、秋に一回、日帰りのバスの旅に出るのが、二人の決まりごとでした。
申し込みは、いつも三崎さんがしてくれました。
私は、当日、集合場所に行けばよかったのです。
その旅が、この二年、一度もありません。
三崎さんのお母さんが、二年前に体調を崩したからです。
九十二歳で、三崎さんの家で暮らしています。
私は、その二年のあいだ、何度も旅行の案内を開きました。
スーパーの入り口の棚から、薄い冊子をもらってくることもありました。
開くと、たいてい下のほうに小さな文字があります。
「お一人様でのご参加の場合、追加料金を申し受けます」
追加料金。
その欄を見ると、私はいつも冊子を閉じました。
お金のことではありません。
一人で参加する人は、そもそも数に入っていないのだと、そこに書いてある気がしたのです。
二年前の三月、取りやめた旅
二年前の三月に、一度だけ、申し込んでいた旅がありました。
いちご狩りの日帰りでした。
出発の四日前の夜に、三崎さんから電話がありました。
「ごめん。母が入院しちゃって」
「そんなのいいのよ。お母さん、大丈夫なの」
「検査だけだと思うんだけど、日にちが重なっちゃって」
電話を切ってから、私はしばらく座っていました。
それから、旅行会社に取り消しの電話をしました。
「お二人様ともでよろしいですか」
受付の方に、そう聞かれました。
「はい。二人ともです」
「はい」と答えるのに、三秒くらいかかりました。
行けない理由は、三崎さんにはありました。
私には、ありませんでした。
その週末、息子が孫を連れて寄りました。
いちご狩りの話をすると、息子は言いました。
「一人で行けばよかったのに」
「一人で行ってどうするのよ」
思ったより強い声が出ました。
息子は、少し黙ってから「そっか」と言って、話を変えました。
私は、自分の声にびっくりしていました。
一人で行ってどうするのよ。
その言い方は、母がよく使っていた言い方でした。
一人でバスに乗るのがこわい理由は、たぶん、もっと前からありました。
中学二年の、修学旅行です。
二泊三日で、京都と奈良に行きました。
バスの席は、班ごとではなく、自由でした。
朝、集合場所で、みんなが二人ずつ手を組んでいきます。
私が組むはずだった子は、その朝、熱を出して来ませんでした。
先生が「余ってる人、いる?」と聞きました。
手を上げたのは、私だけでした。
「じゃあ、いちばん前の、先生の隣ね」
いちばん前の席でした。
三日間、私はずっとその席に座っていました。
先生はいい人で、京都に着くまで、寺の話をたくさんしてくれました。
つらかったのは、その席ではありません。
手を上げたとき、後ろのほうで小さな笑い声がしたことです。
笑ったのは、たぶん私のことではありませんでした。
それでも、五十年たっても、集合場所という言葉を聞くと、あの朝の匂いを思い出します。
みかんを持ってきた日の、三崎さんの言葉
九月の初めに、三崎さんが家に来ました。
段ボールの箱に、みかんが入っていました。
「実家の木のやつ。酸っぱいけど、もらって」
お茶を出して、台所のテーブルで、一時間ほど話しました。
お母さんのことを、三崎さんは「まあまあよ」とだけ言いました。
帰りぎわ、玄関で靴を履きながら、三崎さんが言いました。
「あのね。あなた、私に合わせなくていいのよ」
「合わせてなんか、ないわよ」
「合わせてるわよ。二年よ」
三崎さんは、こちらを見ないで続けました。
「私、たぶん来年も無理だと思う。あなたまで止まってると、こっちが申し訳ないの」
「そんなこと」
「いいから。行ってきて、どこでも」
三崎さんは、それだけ言って帰りました。
私は、みかんの箱を台所に置いたまま、しばらく立っていました。
私は、三崎さんを待っているつもりでいました。
でも、待たれているほうは、それを重いと感じていたのです。
その一週間後に、新聞に例の薄い紙が入っていました。
窓口で、三つだけ確かめました
駅前に、小さな旅行会社の窓口があります。
私は、案内の紙を持って、その窓口に行きました。
電話でもよかったのですが、人の顔を見て聞きたかったのです。
カウンターの向こうにいたのは、五十代くらいの女性でした。
「これ、本当に、一人でないと申し込めないんですか」
「はい。おふたりでのお申し込みは、こちらではお受けできないんです」
「二人で申し込めないツアーって、あるんですね」
「ええ。おひとりの方ばかりですと、気が楽だとおっしゃる方が多くて」
私は、聞きたかったことを、三つに絞って持っていきました。
一つ目は、集合場所です。
家からバスと電車で行ける場所かどうか。
「こちらの便は、県庁前が集合です。バス一本で行かれますよ」
二つ目は、車内のことでした。
「自己紹介はしないと書いてありますけど、本当にしませんか」
女性は、少し笑って言いました。
「しません。皆さん、たいてい寝てらっしゃいます」
三つ目は、食事です。
大きな座敷で、向かい合って食べるのかどうか。
「お食事は、お一人ずつのお膳です。テーブルは相席ですけれど、お話ししなくても大丈夫ですよ」
私は、その場で申し込みました。
行き先を決めたのではありません。
集合場所が、バス一本で行けるところだった。
決め手は、それだけでした。
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申し込み票の名前の欄に、自分の名前だけを書きました。
隣の欄は、空のままです。
三十年、そこには三崎さんの名前がありました。
首が、前に落ちるのです
行程表が、一週間後に郵便で届きました。
読んでいて、気になったのは移動の時間でした。
行きが二時間半。
帰りも、渋滞がなければ二時間半です。
十年ほど前、町内会の旅行でバスに乗ったことを思い出しました。
そのときは、行きの一時間でうとうとして、首が前にがくんと落ちました。
はっとして起きると、隣の席の方が、こちらを見ていました。
何も言われませんでしたが、そのあとは目を開けたままでいました。
帰りも、同じように起きていました。
家に着いたとき、肩から首にかけてが、板のようになっていました。
今度は、二席を一人で使えます。
それなら、首を支えるものがあれば、少し眠れるかもしれないと思いました。
売り場には、いろいろなものが並んでいました。
私が決めた条件は、三つです。
たたんで、手提げに入る大きさになること。
あごが前に落ちないように、前で留められること。
外側の布が外せて、洗えること。
もう一つ、迷ったことがあります。
後ろが厚いものは、頭が前に押されて、かえって首が疲れそうでした。
だから、後ろが薄いものを選びました。
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前の晩、手提げに入れてみました。
水筒と、折りたたみの傘と、その一つで、口が閉まりました。
七時四十五分の、県庁前
当日は、五時に目が覚めました。
集合は八時です。
家を出る前、夫が新聞から顔を上げて言いました。
「ぶどうか」
「ぶどう狩りと、おそば」
「気をつけてな」
それだけでした。
四十年、この人はそういう人です。
県庁前に着いたのは、七時四十五分でした。
十五分前です。
バスは、もう停まっていました。
横に、小さな看板を持った添乗員の女性が立っていました。
看板には、ツアーの番号だけが書いてありました。
私は、少し離れたところで立っていました。
そこから、集まってくる人を見ていました。
女性が十人ほど、男性が四人ほどでした。
年は、私と同じくらいか、少し上に見えました。
全員が、一人で立っていました。
誰も、誰とも話していません。
手を組んで並ぶ人が、一人もいないのです。
五十年前の集合場所と、そこがまったく違いました。
みんな、余っている人でした。
そう思ったら、急におかしくなって、私は下を向いて少し笑いました。
「お名前を伺います」
添乗員さんが、名簿を持って回ってきました。
私は、自分の名前を言いました。
「はい。お座席は七番と八番、窓側とお隣です」
二席とも、私の席でした。
誰とも話さなかった一日
車内で、自己紹介はありませんでした。
添乗員さんが、行程の説明を五分ほどして、そのあとは静かになりました。
高速に入ってすぐ、私は首の枕をつけました。
つけるときに、通路の向こうの席の方と目が合いました。
その方も、同じころに、同じようなものを首につけていました。
会釈をして、それで終わりです。
一時間ほど、眠りました。
起きたら、窓の外が山になっていました。
ぶどう園では、一房ずつ、はさみで切らせてもらいました。
係の方が「お一人ですか」と聞いて、「じゃあ、この房が食べきれる大きさですよ」と教えてくれました。
お昼は、そばの店でした。
四人がけのテーブルに、知らない三人と座りました。
お膳は、一人ずつです。
同じテーブルの女性が、一度だけ話しかけてきました。
「この薬味、辛いですか」
「私は、辛くなかったです」
「じゃあ、いただこうかしら」
会話は、それで終わりました。
それで十分でした。
午後は、川沿いの遊歩道を四十分歩きました。
歩く速さも、休むところも、自分で決めました。
途中のベンチで、水筒のお茶を飲みながら、二十分座っていました。
誰にも「そろそろ行く?」と言われない二十分でした。
対岸に、古い水車小屋のようなものが見えました。
三崎さんと来ていたら、たぶん写真を撮って、そのまま先へ歩いていたと思います。
私は、その屋根の形を、しばらく見ていました。
何を見ていたのかと聞かれたら、答えられません。
そういう時間を、何年も持っていませんでした。
サービスエリアの、同じ袋
帰りのバスは、六時前にサービスエリアに入りました。
十五分の休憩です。
私は、売店で栗の菓子を買いました。
四個入りの、小さな箱です。
夫に一つと、あとは自分で食べるつもりでした。
レジに並んでいたら、前の人の手元に、同じ箱がありました。
通路の向こうの席の、あの方でした。
その方も、私の手元を見ました。
二人とも、何も言いませんでした。
その方が、小さく会釈をして、先に行きました。
私も、会釈を返しました。
バスに戻って、席に座ってから、袋の中の箱をもう一度見ました。
一日いっしょにいて、一言も話さなかった人と、同じものを選んでいたのです。
それが、なぜか、うれしいことのように思えました。
家に着いたのは、八時半でした。
夫は、栗の菓子を一つ食べて、「これ、うまいな」と言いました。
十一月に届いた、次の紙
それから二か月たちました。
十一月の初めに、同じ会社から、また薄い紙が入っていました。
冬の案内でした。
行き先は、海の近くの市場と、みかんの山です。
いちばん上に、やはり同じ三行が書いてありました。
私は、その場で申し込み票の「おひとりさま参加」の欄に丸をつけました。
前のときは、窓口まで行って、三つ確かめてからでした。
今度は、台所のテーブルで、鉛筆で丸をつけただけです。
その紙を、三崎さんに見せました。
みかんのお礼を届けに寄ったときです。
「あら、行ったの。前のも」
「行ったのよ。ぶどう狩り」
「どうだった」
「誰ともしゃべらなかった」
三崎さんは、笑いました。
「あなたが? 信じられない」
「でもね、疲れなかったの」
三崎さんは、しばらく紙を見てから言いました。
「これ、二人では申し込めないのね」
「そうなの。一人じゃないと、だめなの」
「じゃあ、私がもし行けるようになっても、これは一緒に行けないんだ」
三崎さんは、そう言って紙を返しました。
そのとき、少しだけ寂しそうな顔をしたように見えました。
私は、何と答えればいいのか分かりませんでした。
帰り道、みかんの木の下を通りながら、私はこう考えていました。
三崎さんは、二人では申し込めない紙を、わざわざ最後まで読んでいました。
行けるようになったときのことを、あの人も少しは考えているのだと思います。
首の枕は、外の布を洗って干して、旅行鞄の上に置いたままです。
次に使うのは、冬です。
三崎さんと二人で行く旅の話は、まだ、どちらからもしていません。
あなたなら、どうしますか?
もし来月、一人で出かけるとしたら、行き先と集合場所のどちらを先に決めますか。
そして、申し込む前に確かめておきたいことを三つ挙げるとしたら、何を挙げますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 「一人だと浮く」のではなく、場所によっては全員が一人
一人参加が前提の集まりでは、手を組む相手を探している人がいません。
浮くかどうかは、自分の側ではなく、その場の作りで決まることがあります。
組む相手がいない朝の記憶は、そこでは出番がないのです。
2. 待っているつもりが、相手には重荷になっていることがある
事情があって動けない人にとって、自分を待っている人の存在は、うれしいだけではありません。
止まっている理由を、自分のせいだと感じることもあります。
その人のために出かけない、という決め方は、いつも優しいとは限りません。
3. 決め手は、行き先でなくてもいい
行き先で選ぼうとすると、どれも同じに見えて決まりません。
集合場所が近い、歩く距離が短い、その程度のことで決めてしまったほうが、一回目は動けます。
一回行ってしまえば、二回目の紙には、鉛筆で丸をつけるだけになります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(たたんで手提げに入る・あごが前に落ちないよう前で留められる・外側が洗える・後ろが薄い)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
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次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。