一人旅の荷物が多すぎた65歳。二度目に私が減らしたのは、服ではありませんでした
倉敷の駅の階段を、私は一度も止まらずに上りきりました。
右手に、小さめのバッグがひとつ。
二泊ぶんの荷物が、全部その中に入っています。
上りきったところで、うしろから来た若い女の人が、私の横をすっと追い越していきました。
その人の荷物も、私と同じくらいの大きさでした。
ホームの時計は、午前十時十二分を指していました。
二年前の春、私は別の町の駅で、この半分ほどの段数の階段を前に、動けなくなっていました。
六十五歳。
はじめての一人旅でした。
あのとき私の手にあったのは、家族旅行で使っていた大きな鞄です。
倉敷の階段の上で、私はそのときのことを思い出していました。
家族旅行と同じ大きさ
一度目の一人旅は、金沢でした。
二泊三日。
夫は昔から旅行が好きではなく、「俺はいい。好きなだけ行ってこい」と言ってくれました。
娘の真紀は、ホテルの予約を手伝ってくれました。
出発の前の晩、私は押し入れから紺色の大きな鞄を出してきました。
子どもたちが小さかった頃、家族四人で海へ行くときに使っていたものです。
着替えを三日分。
寝るときに着るものを二組。
厚手のカーディガン。
雨が降ったときのための、替えの靴。
新幹線で読むつもりの文庫本を、二冊。
いつも飲んでいる薬を四種類、それぞれ多めに。
詰めているうちに、鞄はぱんぱんにふくらんでいきました。
「そんなに持っていくのか」
居間から、夫が顔を出しました。
「だって、何があるか分からないじゃない。金沢は寒いって言うし」
「寒かったら、向こうで買えばいいだろう」
「もったいないでしょう。家にあるんだから」
夫はそれ以上何も言わずに、テレビの前に戻っていきました。
私は、カーディガンを一番上にのせて、力いっぱいファスナーを閉めました。
荷物は、家族旅行のときと同じ大きさでした。
違うのは、持ってくれる人がいないことだけです。
そのことに、私はまだ気づいていませんでした。
「持ちましょうか」
乗り換えの駅で、それは起きました。
エスカレーターが点検中で、ホームに上がるには階段しかありませんでした。
鞄の持ち手を両手でつかんで、一段ずつ上がっていきます。
五段目あたりで、腕がしびれてきました。
十段目で、足が止まりました。
階段のまん中で、私は鞄を段の上に置いて、肩で息をしていました。
うしろから来る人たちが、私をよけて上がっていきます。
「持ちましょうか」
声をかけてくれたのは、制服を着た高校生の男の子でした。
「大丈夫です、大丈夫」
私は、反射的にそう答えていました。
でも、鞄を持ち上げようとしても、腕が言うことをききません。
男の子は少し困った顔をして、もう一度言いました。
「上まで、持っていきますよ」
「……すみません。お願いします」
男の子は、私の鞄を片手でひょいと持ち上げて、階段を上っていきました。
私は手すりにつかまりながら、そのうしろをついていきました。
「ありがとう。本当にごめんなさいね」
ホームで何度も頭を下げると、男の子は「いえ」とだけ言って、反対側の電車に走っていきました。
電車に乗ってから、顔がずっと熱いままでした。
ひとりで行くと決めたのに、最初の乗り換えで、もう人に持ってもらっている。
窓の外を見ながら、私はこのまま家に帰りたいとさえ思いました。
底にあった歯ブラシ
金沢のホテルに着いたのは、夕方の五時すぎでした。
部屋に入って、鞄を開けました。
一番上のカーディガンを出して、ベッドの上に置きます。
その下の着替えを出して、椅子の上に置きます。
歯ブラシを探そうとして、手が止まりました。
どこに入れたのか、覚えていないのです。
鞄の底まで手を入れてかき回すと、上に積んだものが、全部崩れてきました。
気がつくと、ベッドの上も、椅子の上も、床の上も、私の荷物でいっぱいになっていました。
私は床に座りこんで、娘に電話をかけました。
「真紀、お母さん、歯ブラシがないの。忘れてきたみたい」
「えー、どこに入れたの」
「分からないのよ。全部出したんだけど」
電話の向こうで、娘が少し笑いました。
「お母さん、洗面のポーチ、別にしてなかったでしょう。靴の中とか見た?」
言われて、替えの靴を手に取りました。
右の靴の中に、歯ブラシと歯みがき粉が、ティッシュにくるまれて押しこんでありました。
前の晩、隙間を埋めようとして、自分で入れたのです。
「あった」
「でしょう」
娘は笑っていましたが、私は笑えませんでした。
散らかった部屋の中で、ひとりで歯をみがきながら、私は少しだけ泣きました。
畳の上の半分
金沢は、いい町でした。
でも、二泊三日のあいだ、私はずっと荷物のことを気にしていました。
家に帰った次の日、私は荷物をぜんぶ畳の上に出してみました。
使わなかったものを、脇にどけていきます。
半分以上が、脇に残りました。
厚手のカーディガン。
使いませんでした。
替えの靴。
一度も履かずに、歯ブラシ入れになっただけでした。
読むつもりだった本は、二冊とも開いていません。
薬は、四種類のうち一つだけ飲みました。
寝るときの服は、一組で足りました。
畳の上に並んだものを、私はしばらく眺めていました。
夫が、和室の入口から顔を出しました。
「店でも開くのか」
「使わなかったものを、分けてるのよ」
夫は、脇によけた山と、残った山を見比べて言いました。
「そっちのほうが多いな」
言われなくても、分かっていました。
どれも、「もしも」のために入れたものでした。
寒かったら。雨が降ったら。退屈したら。
つまり私は、服を持っていったのではなく、不安を持っていったのです。
鞄の重さは、そのまま私の不安の重さでした。
置いていくものから
秋になって、二度目の一人旅に出ることにしました。
行き先は、松江です。
今度は、支度の順番を変えることにしました。
一度目は、「何を持っていくか」から考えていました。
足していくと、終わりがありません。
二度目は、「何を置いていくか」から考えることにしました。
置いていくと決めたのは、三つです。
現地で買えるもの。
三日間のうち、一度しか使わないもの。
そして、持っていく理由を説明できないもの。
この三つ目が、いちばん手ごわいものでした。
私はまた、あの厚手のカーディガンを手に取りました。
なぜ持っていくのか、自分に聞いてみます。
答えは、「寒いかもしれないから」でした。
では、寒かったらどうするか。
宿には暖房があります。
なければ、向こうで買えばいい。
そう考えたとき、一度目の出発の前の晩に、夫が言った言葉を思い出しました。
寒かったら、向こうで買えばいいだろう。
あのとき「もったいない」と言い返した私は、カーディガン一枚ぶんの重さを、三日間ずっと運んでいたのです。
私はカーディガンをたたんで、たんすに戻しました。
替えの靴も、二冊の本も、たんすの横に置きました。
薬は、飲む分だけにして、小さなケースに入れました。
支度が終わると、私は鞄を持って、家の近くの駅前の歩道橋まで歩いてみました。
階段は二十八段あります。
持ち手を片手で持ったまま、上まで上がってみました。
一度も止まらずに、上りきれました。
歩道橋の上から、夕方の車の列を見下ろして、私はひとりで小さくうなずきました。
三つの袋
詰め方も、変えることにしました。
一度目は、鞄の底から順に重ねていました。
だから、いちばん下のものを出すたびに、全部が崩れたのです。
どうしようか考えていたとき、手芸のサークルで一緒の律子さんに、その話をしました。
律子さんは、年に何度もひとりで旅に出る人です。
「私はね、袋に分けるの。三つだけ」
「三つ?」
「着るもの、洗面のもの、脱いだもの。それだけよ」
律子さんは、刺しかけの布を膝に置いて、指を三本立てました。
「宿に着いたら、袋ごと引き出しに入れちゃうの。帰るときは、袋ごと鞄に戻すだけ」
「脱いだものの袋なんて、考えたこともなかったわ」
「一番大事なのは、それよ。着たものと着てないものが混ざると、全部出さなきゃいけなくなるから」
私は、金沢のホテルの床いっぱいに広がった荷物を思い出していました。
それで、中身を分ける袋を探すことにしました。
条件は、三つでした。
着るもの、洗面のもの、脱いだものに分けられること。
宿の引き出しに、袋のまま入れられること。
中が濡れても、そのまま洗えること。
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家で試しに詰めてみると、鞄の中が三つの区画に分かれました。
一番上には、洗面の袋を置きました。
歯ブラシは、もう靴の中には入れません。
帰りに増える分
減らすことばかり考えていて、忘れていたことがあります。
帰りは、荷物が増えるのです。
一度目のとき、金沢の駅でお菓子を二つ買っただけで、鞄のファスナーが閉まらなくなりました。
結局、紙袋をもうひとつ手に下げて帰ってきました。
片手に鞄、片手に紙袋では、手すりにつかまることもできません。
だから二度目は、帰りの分だけ、行きに用意しておくことにしました。
普段は手のひらに収まるくらいに小さく畳めて、必要になったときだけ広げられる袋です。
鞄の上に重ねて持てるものなら、両手がふさがらずにすみます。
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畳んだ袋を、鞄のいちばん底に入れました。
松江の宿に着いたのは、午後の四時でした。
部屋に入って、鞄を開けて、三つの袋をそのまま取り出しました。
着るものの袋と、洗面の袋は、たんすの引き出しに。
脱いだものの袋は、空のまま、部屋の隅に。
五分もかかりませんでした。
床にも、ベッドの上にも、何も散らばっていません。
その夜、娘から電話がかかってきました。
「お母さん、今度は歯ブラシあった?」
「あったわよ。洗面の袋の一番上に」
「靴の中じゃなくて?」
「靴は、置いてきたの」
電話の向こうで、娘が声を出して笑いました。
今度は、私も一緒に笑えました。
次の日は、思っていたより冷えこみました。
宍道湖のほとりを歩いているうちに、首のまわりが寒くなってきました。
私は商店街の小さな洋品店に入って、薄手のストールを一枚買いました。
カーディガンを置いてきたことを、後悔はしませんでした。
店を出たところで、ストールを巻いた自分を写真に撮って、夫に送りました。
「向こうで買ったわよ」
一時間ほどして、夫から返事が来ました。
「だから言っただろう」
少しして、もう一通来ました。
「似合ってる。気をつけて帰れ」
夫が「似合ってる」と書いてきたのは、たぶん結婚してから初めてでした。
帰りの日、私はお土産を三つ買いました。
鞄の底から袋を出して広げて、お土産を詰めました。
袋を鞄の上に重ねて、持ち手を片手で持ちました。
松江の駅の階段を、私は手すりにつかまらずに上りました。
結局、その袋を使ったのは、帰りの一回だけでした。
でも、その一回のために入れておくものは、たぶんこれだけでいいのだと思います。
三度目の荷物
そして、この春の倉敷です。
三度目は、二泊で小さめのバッグひとつになりました。
家族旅行の紺色の鞄は、押し入れの上の段にしまってあります。
代わりに、片手で持てて、肩にもかけられる大きさのバッグを、ひとつ選びました。
重さは、鞄そのものより、中身のほうで決まるのだと分かったからです。
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出発の朝、夫は玄関で、私のバッグを持ち上げてみました。
「軽いな。これで二泊か」
「そうよ。寒かったら、向こうで買うから」
夫は、ふん、と笑いました。
「帰りの袋は入れたか」
「入れたわよ。底に」
夫のほうから荷物の中身を確かめてきたのは、それが初めてでした。
倉敷では、駅から宿まで、川沿いの道を歩きました。
バッグを肩にかけると、両手が空きます。
空いた手で地図を広げられるので、道に迷って立ち止まるのも、苦になりませんでした。
一度目の金沢では、荷物を置ける場所ばかり探して歩いていました。
だから、金沢の町の景色を、私はほとんど覚えていないのです。
今回は、白い壁の蔵の並びも、川面に映る柳の色も、ちゃんと覚えています。
宿に着いて袋を引き出しにしまったあと、私はもう一度、手ぶらで川沿いを歩きに出ました。
減らしたのは服ではなく、「もしものときの自分」でした。
もしものときは、たぶん何とかなります。
それが分かったのは、一度目に持ちすぎて、階段で立ち止まったからです。
あの重さも、あの高校生の男の子の背中も、必要だったのだと思っています。
ただ、全部の「もしも」を置いていけたわけではありません。
薬のケースだけは、今も少し多めに入れています。
それが不安の分なのか、必要な分なのか、自分でもまだ分かりません。
来年は、三泊してみたいと思っています。
一泊増えたとき、私はまた何かを足してしまうのでしょうか。
それとも、今度は何を置いていけるのでしょうか。
あなたなら、どうしますか?
もし次の一泊で「置いていくもの」から決めるとしたら、何を置いていきますか。
そして、持っていく理由を説明できないものは、いくつありますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 「持っていくもの」ではなく「置いていくもの」から決める
持ち物リストは、足していくと際限がありません。
置いていくものから決めると、数が先に決まります。
2. 理由を説明できないものは、不安の分
「もしも」で入れたものは、たいてい使いません。
現地で買えるかどうかを一度だけ考えると、判断がつきます。
3. 帰りに増える分を、行きに用意しておく
おみやげは、必ず荷物になります。
畳める袋をひとつ入れておくと、買うかどうかで迷わずに済みます。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(中身を分けられる・宿で散らからない・帰りの増加分に備えられる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
中身を分けるポーチ
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- 販売ページの記載:衣類ポーチ・シューズバッグ・洗面用のポーチ・巾着袋の8点セット
- 販売ページの記載:ファスナーで圧縮する方式(ポンプ不要)
- 販売ページの記載:材質はポリエステル・撥水加工・丸洗いできる
- 選ぶときは、点数とサイズの構成・圧縮の方式・洗えるかどうかを見ると選びやすくなります。
帰りのために畳んでおくバッグ
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- 販売ページの記載:折りたためるボストンバッグ・キャリーオン対応
- 販売ページの記載:製品サイズは55×19×34.5cm
- 選ぶときは、畳んだときの大きさ・広げたときの容量・キャリーに載せられるかを見ると選びやすくなります。
二泊以上で、荷物を転がしたいとき
物語の主人公は鞄ひとつにしましたが、泊まる日数が増えるときや、階段の少ない道のりのときは、軽いスーツケースを選ぶ方法もあります。
- 公式サイトの記載:サイズ(機内持ち込みのSサイズ、1〜3泊向け など)や機能(ストッパー付き・超軽量設計 など)から選べる
- 公式サイトの記載:合計2,000円(税込)以上で送料無料(沖縄・北海道・離島・九州などは条件が異なる場合あり)
- 選ぶときは、本体の重さ・泊数に合う容量・キャスターを止められるか(ストッパーの有無)を見ると選びやすくなります。
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片手でも肩でも持てる旅行バッグ
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- 販売ページの記載:重さ650g・容量30L
- 販売ページの記載:手持ち/肩掛け/ショルダー/リュック/キャリーオンの5通りの持ち方
- 選ぶときは、重さ・容量・持ち方の種類を見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。