夫婦ふたりの時間
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夫が旅行に行きたがらない60代。三年続けてパンフレットを捨てた64歳の私が、行き先より先に「乗り換えなし」で宿を探した春

食卓で向かい合う二人の手元
kuroko

二十七の夏、結婚して二年目に、夫と二人で初めて一泊の旅行をしました。

海のそばの、小さな民宿でした。

夫の会社の夏休みは三日だけで、そのうちの一日を使った、ほんの短い旅です。

帰りの電車は、各駅停車でした。

向かいの席で、夫は窓の外の海を見ながら、ぽつりと言いました。

「定年したら、二人でのんびり、あちこち行こうな」

「あちこちって、どこ?」

「どこでもいい。北でも南でも。時間を気にしないで、行きたいだけ行こう」

私は、その言葉を、三十七年間、どこかにしまって暮らしてきました。

子どもが小さいころも、夫が単身赴任をしていた四年間も、しんどいことがあると、その言葉を取り出して眺めていました。

定年したら。

それが、私の中の、いちばん遠い予定でした。

資源ごみの日のパンフレット

私は六十四歳です。

私鉄の駅から歩いて八分の、築二十年の分譲マンションの三階に、夫と二人で住んでいます。

夫の英明は六十六歳で、製紙工場の総務の仕事を、六十三で辞めました。

一人息子は、結婚して遠くの町に住んでいます。

夫が仕事を辞めた年の秋、私は、駅の旅行会社の棚から、パンフレットを三冊もらってきました。

北の湿原を歩く旅と、南の島の旅と、古い城下町を回る旅です。

夕飯のあと、居間のテーブルに三冊を並べました。

「ねえ、どれがいい?」

夫は、テレビを見たまま、ちらりとテーブルに目をやりました。

「旅行か」

「そうよ。定年したら二人で、って言ってたじゃない」

「疲れるだけだ。家がいちばんいい」

「一回くらい、いいじゃない。北のほうなんて、涼しくて」

夫は、パンフレットを一冊手に取って、ぱらぱらとめくりました。

それから、テーブルに戻して言いました。

「そんなこと、言ったか」

私は、何も言えませんでした。

三十七年しまっておいた言葉を、夫は覚えていなかったのです。

次の資源ごみの日、私は三冊のパンフレットを、新聞紙の束の間にはさんで出しました。

次の年も、同じことをしました。

今度は、温泉の本と、船の旅のパンフレットでした。

夫の答えは、同じでした。

「疲れるだけだ」

その次の年も、同じでした。

その年の夏、息子から電話があったとき、つい愚痴をこぼしてしまいました。

「お父さん、旅行に誘っても、疲れるだけだって。三年続けて断られたのよ」

「父さんらしいね」

息子は、電話の向こうで少し笑いました。

「母さん、一人で行ってくれば? 友達とか」

「一人で行くのは、違うのよ」

そう言いながら、自分でも何が違うのか、うまく説明できませんでした。

行きたいのは旅行ではなく、あの日の約束のほうだったのかもしれません。

三年目の春、パンフレットを新聞紙の束にはさみながら、私は、もう誘うのはやめようと思いました。

誘って断られるたびに、何かが少しずつ減っていく気がしていたのです。

パンフレットを出した夜は、いつもより早く布団に入りました。

捨てたことを、夫に言ったことは一度もありません。

「幹事を十二年」

四月のはじめ、夫の昔の同僚の柳田さんが、家に寄ってくれました。

柳田さんは、夫と同じ年に工場に入った人で、いまは近くの町に住んでいます。

庭で採れたという夏みかんを、袋いっぱいに持ってきてくれました。

居間でお茶を出すと、柳田さんは、壁に飾ってある古い写真に目をとめました。

工場の社員旅行の、集合写真です。

旅館の玄関の前に、八十人ほどが並んでいて、端のほうに若いころの夫が写っています。

「懐かしいなあ。これ、こいつが幹事の年だ」

柳田さんは、写真を指さして笑いました。

「奥さん、知ってます? こいつ、総務だったから、社員旅行の幹事を十二年もやらされたんですよ」

「十二年も?」

「そう。毎年、乗り換えのたびに、ホームで八十人を数えるんです。一人でも足りないと、電車が出る前に走り回って」

夫が、湯のみを置いて言いました。

「あれは、お前が土産物屋から戻ってこなかったからだろう」

「そうそう、あったなあ。俺のせいで、次の電車まで二時間、駅で待ったんだ」

柳田さんは、声を出して笑いました。

「で、宿に着いたら着いたで、部屋割りだ宴会だって、こいつは一晩じゅう走り回ってて。自分は風呂にも入れなかったんじゃないか」

「入れなかった。十二年、一回も、ゆっくりは入ってない」

夫は、少し笑いながら言いました。

私は、その話を初めて聞きました。

社員旅行のある年、夫は疲れた顔で帰ってきて、そのまま寝てしまったのを覚えています。

でも、その理由を、聞いたことはありませんでした。

帰り際、柳田さんは玄関で靴をはきながら、私に小さな声で言いました。

「奥さん、こいつ、幹事の帰りの電車では、いつも『早く家に帰りたい』って言ってたんですよ。家で奥さんが待ってるからって」

私は、何と返していいか分からず、ただ頭を下げました。

柳田さんが帰ったあと、私は台所で湯のみを洗いながら、夫に聞きました。

「社員旅行、そんなに大変だったの」

夫は、テーブルで夏みかんの皮をむきながら、しばらく黙っていました。

「旅行ってのは、俺にとっては、数えるものだったんだよ」

「数える?」

「人数と、切符と、乗り換えの時刻だ。駅に人がいっぱいいると、今でも数えたくなる」

夫は、むいた夏みかんを一房、口に入れました。

「だから、旅行って聞くと、疲れるって先に思うんだ。お前と行くのが嫌なわけじゃない」

私は、蛇口の水を止めて、夫の背中を見ました。

三年間、断られてきたのは、私ではなかったのかもしれません。

夫が嫌がっていたのは、行き先ではなく、行き方のほうだったのです。

行き先より先に、三つの条件

その夜、私は、もう一度だけ誘ってみようと決めました。

ただし、今度は、パンフレットを並べるのはやめにしました。

北の湿原も、南の島も、乗り換えがいくつもあって、人の多い駅を通ります。

行き先から決めると、どうしても、そういう旅になってしまいます。

それで、行き先より先に、条件を三つ決めました。

一つ目は、乗り換えがないこと。

家の最寄りの駅から、電車一本で着く場所にします。

二つ目は、一泊だけにすること。

何日も続く旅は、夫にとっては、何日も数え続ける旅になってしまうからです。

三つ目は、宿から出なくていいこと。

着いたら、観光地を回らなくても、宿の中だけで過ごせるところにします。

夫が十二年、一度もゆっくり入れなかったお風呂に、何度でも入れるところです。

私は、スマホで宿を探しました。

最初は、つい、名の知れた温泉地ばかり見てしまいました。

どれも、途中で一回か二回、乗り換えがあります。

調べていくうちに、家の最寄りの駅から出る特急が、終点まで一本で行くことに気づきました。

毎日使っている駅なのに、その特急の行き先を、ちゃんと見たことはありませんでした。

家の最寄りの駅から、乗り換えなしの特急で一時間半の、山あいの温泉町が見つかりました。

終点の駅に、宿の送迎の車が来てくれます。

大きなお風呂があって、夕食も朝食も部屋でとれる宿を選びました。

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予約のボタンは、まだ押しませんでした。

次の日の朝、私は、宿の画面をスマホに出したまま、夫の前に置きました。

「行き先は、私が決めたの。乗り換えなし。一泊だけ。着いたら、宿から一歩も出なくていい」

夫は、画面をしばらく見ていました。

「……乗り換え、ないのか」

「ないの。一本で着くの。終点まで寝てていいのよ」

「宿から、出なくていいのか」

「出なくていいの。お風呂に入って、ごはん食べて、寝るだけ」

夫は、スマホを手に持って、指で画面を上へ、下へと動かしました。

大浴場の写真のところで、指が止まりました。

「日にちは、どうする」

「日にちは、あなたが決めて」

夫は、少し考えてから言いました。

「五月の、連休が明けた週の火曜日。人が少ない」

私は、その場で予約のボタンを押しました。

三年分のパンフレットのことを思うと、少し手が震えました。

数えない旅

出かける前の晩、夫は、居間で自分の荷物を詰めていました。

着替えを一組と、歯ブラシと、文庫本を一冊。

それだけを、小さな手提げに入れて、口を閉じました。

「それだけ?」

「一泊だろう。宿から出ないんだろう」

それから夫は、特急の時刻を紙に書いて、財布に入れました。

「乗り換えがなくても、時刻だけは見ておきたくなるんだ」

「数えるのは、時刻だけにしてね」

私が言うと、夫は「ああ」と言って、少し照れたように笑いました。

五月の火曜日、朝の十時に家を出ました。

特急の座席に座ると、夫は、最初の三十分ほど、窓の外を見ていました。

それから、腕を組んで、目を閉じました。

終点まで、一度も起きませんでした。

終点の駅のホームは、平日の昼で、人がまばらでした。

電車を降りると、夫は、ホームに立って、私のほうを振り返りました。

「よし、二人いるな」

私は、思わず笑ってしまいました。

夫も、自分で言っておいて、少し笑っていました。

宿の送迎の車は、改札のすぐ前で待っていました。

宿に着くと、夫は、部屋に荷物を置くなり、浴衣とタオルを持って立ち上がりました。

「風呂に行ってくる」

夫は、夕食までに二回、お風呂に行きました。

夜寝る前にも、もう一回行きました。

私は、部屋の窓辺の椅子に座って、山の緑を見ていました。

誰にも、何も頼まれない午後でした。

夕食は、部屋に運ばれてきました。

山菜の天ぷらと、川魚の塩焼きと、小さな鍋でした。

夫は、ビールを一杯だけ飲んで、ほとんど話さずに食べていました。

食べ終わってから、夫はぽつりと言いました。

「誰の心配もしないで食う飯は、うまいな」

「幹事のときは、どうだったの」

「宴会のときは、ビール瓶の数を数えてた。食った気はしなかった」

私は、若いころの夫が、宴会場の端でビール瓶を数えている姿を思い浮かべました。

その人が、今は、浴衣の襟を少しはだけて、湯のみでお茶を飲んでいます。

布団が敷かれたあと、夫が、窓のほうを向いたまま言いました。

「お前は、本当は、ほかに行きたいところがあったんだろう」

「どうして」

「毎年、パンフレットが増えて、また消えてただろう。北の湿原のやつ、三年前の」

私は、少し驚きました。

夫は、テーブルに並べたパンフレットを、ちゃんと見ていたのです。

「覚えてたの」

「写真の、木の道が長かったからな。あれは、歩くのが大変だと思った」

夫は、それだけ言って、布団に入りました。

行きたくないと言っていたのではなく、あの木の道を、私と二人で歩き切れるかを考えていたのかもしれません。

電気を消してからも、しばらく、窓の外の川の音を聞いていました。

「次は、秋でいいか」

次の日の朝も、夫は早起きして、朝ごはんの前にお風呂に行きました。

私も、朝の大浴場に行ってみました。

窓の向こうの山に、薄い霧がかかっていました。

湯船には、私のほかに、一人しかいませんでした。

十一時に宿を出て、送迎の車で駅まで送ってもらいました。

帰りの特急は、行きよりも少し混んでいました。

夫は、席に座るとすぐに、窓の外を見ながら言いました。

「次は、秋でいいか」

私は、一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。

誘ったのは、いつも私のほうでした。

夫のほうから「次」と言ったのは、三十七年で初めてだったと思います。

「秋でいいわよ。同じところ?」

「同じでいい。乗り換えがないからな」

夫は、それだけ言って、また目を閉じました。

私は、窓の外を流れていく田んぼを見ながら、二十七の夏の各駅停車のことを思い出していました。

北でも南でも、と言っていた人が、同じところでいい、と言っています。

北の湿原にも、南の島にも、まだ行っていません。

たぶん、この人とは、行かないのかもしれません。

そう思うと、少しさびしい気持ちも残りました。

でも、あの日の「あちこち行こうな」は、行き先の約束ではなかったのかもしれない、とも思いました。

夏みかんのお礼

旅行から帰って一週間ほどして、夫が柳田さんに電話をかけていました。

夏みかんのお礼の電話です。

台所で夕飯の支度をしていると、居間から夫の声が聞こえてきました。

「いや、この前、女房と温泉に行ってきたんだ」

私は、菜箸を持った手を止めました。

「それがな、乗り換えが一回もないんだよ。終点まで寝てりゃいいんだ」

電話の向こうで、柳田さんが何か言って、夫が笑いました。

「数えなくていいんだよ。二人しかいないからな」

夫は、しばらく温泉の話をしていました。

お風呂に三回入ったことも、夕食が部屋に運ばれてきたことも、話していました。

私が選んだ宿のことを、夫が、自分で見つけた宿のように話しているのが、少しおかしくて、少しうれしかったのです。

電話を切ったあと、夫は台所に来て言いました。

「柳田のやつ、場所を教えろってさ」

「教えたの?」

「教えた。ただし、秋は俺たちが先だって言っておいた」

冷蔵庫には、柳田さんの夏みかんが、あと二つだけ残っていました。

あなたなら、どうしますか?

誘っては断られていることが、あなたにもありますか。相手が嫌がっているのは、行き先ですか、それとも行き方ですか。その理由を、相手の口から聞いたことはあるでしょうか。

もし行き先より先に条件を決めるとしたら、あなたは、どんな条件を三つ書きますか。

この物語から、考えたいこと

1. 「行きたくない」の中身は、行き先とは限らない

旅行を断られると、行き先か、自分と行くことが嫌なのかと思ってしまいます。

でも、嫌なのは乗り換えや人混み、準備の手間といった「行き方」のほうかもしれません。

理由は、昔の話の中に隠れていることがあります。

2. 行き先より先に、条件を決める

行きたい場所から決めると、乗り換えや移動の多い旅になりがちです。

先に「これならできる」という条件を決めてから場所を探すと、選べる宿が変わってきます。

相手に決めてもらうのは、日にちだけでもかまいません。

3. 昔の約束は、形を変えて守られることもある

若いころに交わした「いつか」の約束は、そのままの形では果たせないこともあります。

それでも、二人で出かけるという芯の部分は、別の形で残せるかもしれません。

さびしさが少し残っても、それは約束がなくなったということではありません。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

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この記事について

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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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