ひとりの時間
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50代女性の一人飲み、変に見えない? 夫が飲まないので三十年居酒屋に入らなかった58歳の私が、夕方五時に頼んだ一杯と小皿ひとつ

台所の窓辺の湯気の立つカップ
kuroko

五時三分でした。

カウンターの左から二番目の席で、私は両手をひざの上に置いていました。

目の前に、冷えたグラスがひとつ置かれました。

その横に、小さな皿がひとつ。

きんぴらごぼうが、ほんのひとつまみ、盛ってありました。

「どうぞ。ごゆっくり」

お店のおかみさんが、それだけ言って、奥の厨房に戻っていきました。

右の端の席には、作業着の男の人が一人、新聞を広げていました。

こちらを見ることは、一度もありませんでした。

私は、グラスに手を伸ばす前に、店の中をもう一度だけ見回しました。

誰も、私のことなど見ていませんでした。

この席に座るまでに、私はこの店の前を、夕方だけで三十回は通り過ぎています。

暖簾の前、三十回

私は五十八歳です。

川の向こうの住宅地に、夫と二人で住んでいます。

町の小さな不動産屋で、週に五日、事務の仕事をしています。

朝は九時から、夕方は四時半まで。

終わると、駅前の路地を抜けて、バス停まで歩きます。

その路地の途中に、この店がありました。

昼は定食屋で、夕方の五時からは、同じ店が小さな居酒屋になります。

昼の定食には、二年前から、一人で通っていました。

事務所で一緒にお弁当を食べていた先輩が辞めてから、昼はこの店の日替わりを食べるようになったのです。

カウンターの席で、一人で定食を食べることは、もう何とも思いませんでした。

でも、夕方は違いました。

四時四十分ごろにこの路地を通ると、おかみさんが店の前の黒板に、夜の品書きを書いています。

「夜の部 五時から」

白いチョークの、少し右に傾いた字です。

仕事帰りの人が、一人、また一人と暖簾をくぐっていきます。

戸が開くたびに、中から揚げ物の音と、笑い声が聞こえてきます。

私はそのたびに、足をゆるめました。

でも、止まりはしませんでした。

止まったら、入らなければいけないような気がしたからです。

夫の伸之は、お酒を飲まない人です。

結婚して三十年、夫婦で居酒屋に入ったことは一度もありません。

娘が小さいころは、そんな時間もありませんでした。

娘が結婚して家を出てからも、夜に一人で飲みに行くなど、考えたこともありませんでした。

いえ、正直に言うと、考えたことはあったのです。

ただ、そのたびに、ある晩のことを思い出していました。

二十八歳の焼き鳥屋

二十八歳の秋でした。

私は、町の信用金庫の窓口で働いていました。

月末の締めが終わった金曜日、なぜか一人で飲んで帰りたくなりました。

駅前の焼き鳥屋の、カウンターの端に座りました。

一人で飲み屋に入ったのは、生まれて初めてでした。

座って十分ほどたったころ、隣の席の男の人が話しかけてきました。

「お姉さん、一人? 待ち合わせ?」

「いえ、一人です」

「へえ。ふられたの?」

私は笑ってごまかして、急いでお勘定をして、店を出ました。

それだけなら、忘れられたと思います。

月曜日の朝、職場の男の先輩が、私の机の横に来て言いました。

「金曜、駅前の焼き鳥屋にいただろう。一人で」

「……見てたんですか」

「店の前を通ったら見えたんだよ。いや、寂しいやつだなあって、みんなで話してたんだ」

先輩は、冗談のつもりだったのだと思います。

周りの人たちも、笑っていました。

私も、一緒に笑いました。

笑いながら、耳のうしろが熱くなっていくのが分かりました。

それ以来、一人で飲み屋に入ったことはありません。

女が一人で飲んでいると、寂しい人に見える。

その思いだけが、三十年、体のどこかに残っていました。

結婚してからも、親戚の集まりや職場の送別会で、お酒の席に出ることはありました。

でも、それはいつも、誰かと一緒の席でした。

誰かの隣に座っていれば、一人で飲んでいる人には見えません。

一人で店に入るということだけが、私の中で、ずっと閉じたままの戸になっていました。

「夜も、一杯だけの人」

九月のはじめ、昼の定食を食べ終えてお茶を飲んでいると、おかみさんがカウンター越しに声をかけてきました。

おかみさんは、たぶん私より少し年上で、いつも白い三角巾をしています。

「いつも、きんぴら残さないわね。好き?」

昼の日替わりには、小鉢が一つつきます。

きんぴらの日だけ、私はそれを最後まで取っておいて食べていました。

見られていたことに、少し驚きました。

「ええ。うちで作っても、この味にならなくて」

「夜の部でも出してるのよ。夜はもう少し甘辛くしてるけど」

私は、湯のみを持ったまま、思い切って聞いてみました。

「夜って、女の人が一人で来ることもあるんですか」

おかみさんは、布巾でカウンターを拭きながら、あっさり言いました。

「あるわよ。夜も、一杯だけの人、けっこう来ますよ。仕事帰りに一杯飲んで、小皿つまんで、三十分で帰る人。女の人も、男の人も」

「一人で、ですか」

「一人だから、三十分で帰れるのよ」

おかみさんは、そう言って笑いました。

その日の午後、事務所に戻ると、若い同僚の塩見さんがパソコンに向かっていました。

塩見さんは二十六歳で、去年の春から一緒に働いています。

「塩見さん、一人で飲みに行ったりする?」

聞いてから、変なことを聞いたと思いました。

でも、塩見さんは画面から顔を上げて、あっさり言いました。

「行きますよ。月に何回か。一人のほうが、好きなもの頼めるし」

「変な目で見られたりしない?」

「え、誰にですか」

塩見さんは、本当に分からないという顔をしていました。

「みんな、自分のお皿しか見てないですよ」

「なんで俺に聞くんだ」

その晩、夕飯のあとで、私は夫に言いました。

「今度、仕事の帰りに、一杯だけ飲んで帰ってもいい?」

夫は、テレビの天気予報を見ながら、少し不思議そうな顔をしました。

「なんで俺に聞くんだ」

「だって、夕飯が遅くなるし」

「行ってくればいい。冷蔵庫に何かあれば、自分で温める」

夫は、それだけ言って、また天気予報のほうを向きました。

私は、拍子抜けしたような気持ちで、湯のみを洗いました。

三十年、許しを得なければいけないと思っていたのは、私のほうだったのかもしれません。

夫に止められたことなど、一度もなかったのです。

それでも、次の日も、その次の日も、私は暖簾の前を通り過ぎました。

一度だけ、暖簾の前で立ち止まったことがあります。

戸に手をかけようとしたとき、中から、ネクタイをゆるめた男の人が二人、笑いながら出てきました。

「あ、すみません」

「いえ、こちらこそ」

私は頭を下げて、そのまま体の向きを変えて、バス停のほうへ歩いていました。

入るつもりだったとは、とても言えませんでした。

バスの窓から、路地の入り口の黒板が、小さく遠ざかっていくのが見えました。

夫の許しが出ても、足は止まってくれませんでした。

問題は、夫ではなく、私の中の二十八歳の月曜日の朝でした。

私は、決めごとを作ることにしました。

入るのは、開店してすぐの五時。

仕事帰りの人で混み合う前の、いちばん空いている時間です。

頼むのは、一杯と、小皿ひとつだけ。

何を頼もうか迷っているうちに、帰りたくなってしまいそうだったからです。

座ったら、三十分で帰る。

おかみさんの言った「三十分で帰る人」に、私もなってみようと思いました。

五時三分の戸

九月の最後の木曜日、四時半に事務所を出ました。

路地に入ると、おかみさんが黒板に「夜の部 五時から」と書いているところでした。

私は、いつものように足をゆるめて、そのまま通り過ぎました。

バス停の手前まで行って、引き返しました。

路地の角で、腕時計を見ました。

四時五十八分でした。

五時になるのを、角の自販機の横で待ちました。

五時ちょうどに、おかみさんが暖簾をかけました。

私は、それから三分だけ待って、戸を開けました。

「いらっしゃい。あら」

おかみさんが、少し目を丸くしました。

それから、何も聞かずに、カウンターの左から二番目の席を手で示してくれました。

「一杯だけ、お願いします。それと、きんぴらを」

声が、少しかすれていました。

グラスと小皿が置かれるまで、私はずっと両手をひざの上に置いていました。

右の端の男の人が、新聞をめくる音がしました。

厨房から、油のはねる音がしました。

入り口の戸の外を、人が通っていく足音がしました。

誰も、私のことを見ていませんでした。

一口飲んで、きんぴらを一つまみ食べました。

昼より少し甘辛い味でした。

「どう、夜のは」

「甘辛いですね。おいしいです」

「昼の人には、夜の味を知ってもらいたいのよ」

おかみさんは、それだけ言って、また厨房に戻りました。

しばらくして、おかみさんが、湯気の立つ小さな椀を私の前に置きました。

「これ、夜の最初のお客さんにだけ出してるの。おみおつけの残りだけどね」

「あの、頼んでないんですけど」

「いいのよ。昼に毎日来てくれてる人だもの」

おかみさんは、それから少しだけ声を落として言いました。

「お仕事、この先の不動産屋さんでしょう。いつも四時四十分に前を通るから、覚えちゃった」

私は、顔が熱くなりました。

毎日、足をゆるめて通り過ぎていたのも、きっと見られていたのです。

でも、おかみさんはそれ以上、何も言いませんでした。

二十分ほどして、会社員らしい女の人が一人で入ってきて、私の二つ隣に座りました。

私より、少し若いくらいの人でした。

その人は、慣れた様子で一杯と冷ややっこを頼んで、スマホで何かを読み始めました。

私は、その人の背中を、少しだけ見ていました。

三十年前の私が、あの席に座っていたら、どう見えたのだろうと思いました。

たぶん、ただの、仕事帰りの人に見えたのだと思います。

三十分たったところで、私はお勘定をお願いしました。

戸を開けて外に出ると、路地の空が、まだ少し明るく残っていました。

玄関の明かり

バスを降りて家に着くと、六時を少し過ぎていました。

玄関の明かりが、ついていました。

いつもは、私が帰ってきてからつけるものです。

台所をのぞくと、夫が、冷蔵庫の残りの煮物を温めて、一人で食べ終えたところでした。

流しには、洗った茶碗が伏せてありました。

「早かったな」

「三十分って決めてたの」

「どうだった」

私は、少し考えてから言いました。

「誰も、私のことなんか見てなかった」

夫は、それを聞いて、少しだけ笑いました。

「そりゃそうだろう。みんな、自分の酒を飲みに来てるんだから」

「あなた、飲まないのに、よく分かるわね」

「会社の飲み会で、ずっと烏龍茶だったからな。三十年、みんなの顔を見てたんだ」

私は、そのとき初めて、夫が飲み会でどんなふうに座っていたのかを想像しました。

一人だけ烏龍茶で、隣の人の話を聞いている夫の姿です。

「玄関の明かり、つけておいてくれたの」

「暗いと、鍵が見えないだろう」

夫は、それだけ言って、居間のほうへ行ってしまいました。

次の朝、事務所で、塩見さんに小さな声で言いました。

「昨日、行ってきたの。一人で」

塩見さんは、キーボードを打つ手を止めて、こちらを向きました。

「え、ほんとですか。何頼んだんですか」

「一杯と、きんぴら」

「渋い」

塩見さんは笑って、それから、少しまじめな顔で言いました。

「私、一人で行けるようになったの、二十四のときなんです。最初は、店の前で三回帰りました」

三回と、三十回。

私は、自分の数を言わずにおきました。

二回目の木曜日

それから一か月、私は暖簾をくぐりませんでした。

一回できたのだから、次はもっと簡単だと思っていたのに、そうではなかったのです。

暖簾の前で、やっぱり足がゆるみます。

焼き鳥屋の月曜日の朝のことも、消えたわけではありません。

今でも、店の中で笑い声が上がると、一瞬、自分のことを笑われている気がしてしまいます。

十月の半ば、結婚して隣の市に住んでいる娘から、LINEが届きました。

「お母さん、一人飲みデビューしたんだって? お父さんから聞いた」

私は、スマホを持ったまま、しばらく動けませんでした。

夫が、娘にそんな話をしていたとは知りませんでした。

「デビューってほどじゃないわよ。一回だけ」

「お父さん、なんかうれしそうだったよ。『お母さん、三十分で帰ってきたぞ』って」

三十分で帰ってきたことの、何がうれしかったのかは分かりません。

でも、夫が誰かに私の話をしているところを想像すると、少しおかしくて、少し胸があたたかくなりました。

十月の終わりの木曜日、もう一度だけ行ってみることにしました。

四時五十八分に路地の角に着いて、五時三分に戸を開けました。

一回目と、同じ時刻です。

おかみさんは、厨房から顔を出して、私を見ると、にっこり笑いました。

カウンターの左から二番目の席は、空いていました。

私が座るより先に、おかみさんが言いました。

「いつもの……」

そこまで言って、おかみさんは口を押さえました。

「いやだ、まだ二回目だったわね」

私も、つい声を出して笑ってしまいました。

右の端の作業着の男の人が、新聞の向こうで、少しだけ肩をゆらしていました。

おかみさんは、笑いながらグラスを出して、言いました。

「じゃあ、三回目から『いつもの』にしましょうか」

あなたなら、どうしますか?

昼にはできるのに、夜になるとできなくなることが、あなたにもありますか。それは、本当に時間のせいでしょうか。それとも、いつか誰かに言われた一言のせいでしょうか。

もし一つだけ試すとしたら、どの時刻に、何を、どれくらいの時間と決めて出かけますか。

この物語から、考えたいこと

1. 「変に見える」は、昔の誰かの目かもしれない

一人で入るのをためらわせているのは、いま店にいる人の目より、昔どこかで言われた一言のことがあります。

その一言は、言った本人はもう覚えていないかもしれません。

いま目の前にいる人は、たいてい自分のお皿を見ています。

2. 決めごとがあると、入りやすくなる

いつ入るか、何を頼むか、何分で帰るか。

先に決めておくと、店の前で迷う時間が短くなります。

迷っているうちに帰りたくなる人ほど、小さな決めごとが役に立ちます。

3. 許しを待っていたのは、自分のほうだったのかもしれない

家族に止められたわけではないのに、行かない理由を家族にしていることがあります。

聞いてみたら、あっさり「行ってくればいい」と言われるかもしれません。

そのあとに残るのは、自分の中の足の重さだけです。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選ぶとしたらこの条件(軽いこと・文字盤が見やすいこと・水に強いこと)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

三十分を確かめる、軽い腕時計

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この記事について

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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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