夫婦ふたりの時間
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定年した夫が、毎回スーパーについてくる。かごに勝手に物を入れられていた63歳の私が、火曜日を「夫の買い物の日」にした秋

川沿いの道を並んで歩く夫婦の後ろ姿
kuroko

夕方の四時十分でした。

スーパーの自動ドアが開くと、夫の康夫は、私より先にカートを引き出しました。

入り口のすぐ横は、野菜の売り場です。

夫は、大根を一本ずつ持ち上げて、重さを比べはじめました。

「こっちのほうが、葉の付け根が締まってる」

「どれでもいいわよ。今日は、おでんじゃないんだから」

「どれでもよくはない。同じ値段なんだから」

夫は、選んだ大根をかごに入れて、次の台に移りました。

私が頭の中で組み立てていた今夜の献立は、そこで一度、止まりました。

魚の売り場に着くころには、かごの中に、私が買うつもりのなかったものが三つ入っていました。

大袋のせんべいと、ちくわの四本入りと、特売の卵です。

卵は、家の冷蔵庫に、まだ半分残っていました。

八か月目の、夕方四時

私は六十三歳です。

夫は六十五歳で、今年の二月の終わりに定年して、八か月になります。

四十年、町の卸売市場で、野菜の仲卸の店に勤めていました。

朝の三時に家を出て、昼過ぎに帰ってくる人でした。

川沿いの、二軒続きの古い長屋のような家に、二人で住んでいます。

息子の大地は三十六歳で、他県で家族と暮らしています。

夫が勤めていたころ、夕方の買い物は、私一人の時間でした。

四時ごろに家を出て、川沿いの道を八分歩く。

歩きながら、冷蔵庫の中身を思い出して、今夜は何にしようかと考える。

売り場で、秋刀魚が安ければ献立を変える。

ほんの三十分ほどのことですが、一日の中で、いちばん気が楽な時間でした。

誰にも何も言われずに、自分で決めて、自分で選ぶ。

定年して最初の週、夫は玄関で靴をはいている私に言いました。

「買い物か。俺も行く」

「いいわよ、すぐそこだから」

「することがないんだよ。荷物持ちくらいさせろ」

それから八か月、夫は一度も欠かさず、ついてきました。

魚の売り場で

六月の、蒸し暑い日のことでした。

その日も、夫は野菜の売り場で大根を比べ、トマトの箱を裏返して産地を読み、かごに特売のなすを入れました。

私は、魚の売り場で、刺身のパックを手に取りました。

夫が、横からのぞき込みました。

「それ、今日のじゃないな。値引きのシールが貼られる前の、昨日の残りだ」

「いいのよ。今日食べるんだから」

「同じ金を出すなら、あっちの切り落としのほうがいい」

夫は、私の手からパックを取って、棚に戻しました。

そのとき、自分でも驚くくらい大きな声が出ました。

「いちいち口出さないで」

近くにいた若いお母さんが、こちらを振り返りました。

「四十年、私がやってきたのよ。あなたは知らないでしょう、この店の何がいいかなんて」

夫は、黙って私の顔を見ていました。

それから、戻した刺身のパックを、もう一度私のかごに入れました。

「……先に帰ってる」

夫は、カートを私に渡して、自動ドアから出ていきました。

一人になった売り場で、私は残りの買い物をしました。

四か月ぶりの、一人の買い物です。

でも、少しも気が楽ではありませんでした。

レジに並んでいるあいだ、夫の背中が川沿いの道を歩いていくのが、頭から離れませんでした。

家に帰ると、夫は庭の鉢に水をやっていました。

「おかえり」

それだけでした。

その夜の食卓に、刺身が並びました。

夫は何も言わずに食べて、「うまいな」と一言だけ言いました。

次の日の夕方四時、夫はまた、玄関で靴をはいていました。

「ほかに、することがないからな」

九月の終わりでした。

夕方のスーパーのレジは、いつものように混んでいました。

夫と二人で、列の後ろに並びました。

かごの中には、いつものように、私の買うつもりのなかったものが二つ入っていました。

列がなかなか進まず、私は夫に聞こえないように、小さくため息をつきました。

そのとき、夫が、前を向いたまま、ぽつりと言いました。

「俺、ほかにすることがないからな」

私に言ったのか、独り言だったのか、分かりませんでした。

夫の目は、前のお客さんのかごの中を見ていました。

その横顔を見て、私は思い出しました。

四十年、夫は毎朝三時に市場へ行って、野菜の箱を開け、値段をつけ、よその店の人と話していたのです。

大根の葉の付け根を見るのも、トマトの箱を裏返すのも、夫にとっては四十年の仕事でした。

スーパーの野菜の売り場は、夫が今、仕事の手つきを使える、たった一つの場所だったのかもしれません。

ついてきているのではなく、行く場所がほかになかったのです。

それを思うと、胸の奥が少し痛みました。

でも、だからといって、私の三十分が戻ってくるわけではありません。

帰り道、川沿いを並んで歩きながら、私は何も言えませんでした。

家に着いてから、私は台所で、買ってきたものを冷蔵庫にしまいました。

夫が入れた特売のせんべいを、戸棚の上の段に置きました。

そこには、先週と先々週に夫が入れた、同じせんべいの袋が、封を切らないまま二つ並んでいました。

夫は、せんべいが好きなわけではないのです。

安い、と書いてある札を見ると、手が伸びる。

それも、市場の人の手つきなのだと思いました。

その晩、夕食のあとで、夫がぽつりと聞きました。

「俺、邪魔か」

私は、洗い物の手を止めました。

「邪魔ってわけじゃないけど」

「けど、なんだ」

「……夕方の三十分だけ、一人で考えごとをしてたのよ。献立とか、いろいろ」

夫は、湯のみを持ったまま、しばらく黙っていました。

「そうか。知らなかった」

それだけ言って、夫は居間に戻っていきました。

知らなかった、というのは本当だと思います。

夫が勤めていた四十年、夕方の四時に私が何をしていたかなど、話したことはなかったのですから。

次の日も、夫は四時に、玄関で靴をはいていました。

私も、何も言いませんでした。

言えば、夫の行く場所がなくなる。

言わなければ、私の三十分がなくなる。

どちらにしても、何かがなくなるような気がしたのです。

長屋の隣の、早瀬さん

十月のはじめ、隣の家の早瀬さんと、家の前の溝を掃除しました。

早瀬さんは私より四つ上で、ご主人は五年前に定年しています。

「お宅、いつもご夫婦で買い物に行って、仲がいいわねえ」

早瀬さんにそう言われて、私は軍手をはめた手を止めました。

「仲がいいっていうか……ついてくるのよ。毎回」

「ああ、分かる。うちもそうだったわよ、最初の一年」

早瀬さんは、ちり取りを持ったまま笑いました。

「で、どうしたの」

「行かせたの。一人で」

「一人で?」

「うちの人、することがないって言うから。じゃあ、週に一回、あなたが行ってって。メモを渡して」

「それで、大丈夫だった?」

「最初は、とんでもないもの買ってきたわよ。玉ねぎを五キロとか」

早瀬さんは、声を出して笑いました。

「でもね、行かせないのと、任せるのは、違うのよ。行かせないと、する人がいなくなる。任せると、あの人の仕事になるの」

溝の掃除を終えて家に入ると、夫は居間でテレビの天気予報を見ていました。

私は、台所のメモ帳を一枚ちぎって、夫の前に座りました。

火曜日の、メモ

「ねえ、お願いがあるんだけど」

「なんだ」

「火曜日は、あなたの買い物の日にしてくれない?」

夫は、テレビから私のほうへ顔を向けました。

「俺一人でか」

「そう。メモを書くから、それを買ってきて。選ぶのは、あなたに任せる」

「お前は行かないのか」

「私は、木曜日に一人で行く。火曜はあなた、木曜は私」

夫は、しばらく黙っていました。

六月の魚の売り場のことを、思い出しているのかもしれないと思いました。

「……俺が選んでいいんだな」

「いいわよ。大根でも、トマトでも」

夫は、ふん、と鼻を鳴らして、天気予報のほうに向き直りました。

「分かった」

それだけでした。

夫は、自転車で行くと言いました。

スーパーまで、自転車なら四分です。

ただ、火曜日のメモには、魚や豆腐や、冷凍のものも入ります。

十月でも、昼間はまだ暑い日があります。

自転車のかごに入れたまま、夫がどこかで寄り道をしたら、と思いました。

夫は、市場帰りに、よく喫茶店に寄る人だったのです。

それで、保冷のできる買い物バッグを探しました。

レジの近くに置いてあるような、薄い袋もありました。

でも、決めた条件は三つでした。

一つ目は、自転車の前のかごに、そのまま入る大きさであること。

二つ目は、口がファスナーで閉まって、中の冷たさが逃げにくいこと。

三つ目は、使わないときに小さくたためて、玄関の棚に置けること。

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届いたバッグを渡すと、夫は、縫い目と持ち手の付け根を、指でなぞって確かめました。

「しっかりしてるな」

市場で、段ボールの箱の角を確かめるときと、同じ手つきでした。

最初の火曜日

最初の火曜日、私は台所のテーブルで、メモを書きました。

大根半分。

豆腐一丁。

鮭の切り身二切れ。

牛乳一本。

書きながら、何度も「安いほうでいい」と書き足しそうになって、やめました。

選ぶのは、夫に任せると言ったのです。

夫は、三時半に、保冷バッグを自転車のかごに入れて出かけていきました。

私は、玄関で見送ってから、居間で一人になりました。

家の中が、急に広くなった気がしました。

四時半に、夫が帰ってきました。

バッグの中から、メモのものが一つずつ出てきました。

大根は、半分ではなく、一本でした。

「半分より、一本のほうが割安だった。葉もついてる」

鮭は、二切れではなく、四切れのパックでした。

「二切れのより、こっちのほうが脂がのってた。二日で食べればいい」

私は、言いたいことを飲み込んで、冷蔵庫に入れました。

メモの端には、夫の字で、買ったものの値段が全部書き込まれていました。

レシートも、四つに折って、はさんでありました。

四十年、仕入れの伝票を書いてきた人の字でした。

二回目の火曜日の夕方、家の前で、買い物帰りの早瀬さんに呼び止められました。

「さっき、お宅のご主人、スーパーにいたわよ。一人で」

「そうなの。火曜日は、あの人の日にしたの」

「魚の売り場のお兄さんと、ずいぶん話し込んでたわよ。今年の秋刀魚はどこの港のがいいとか」

早瀬さんは、おかしそうに笑いました。

「お兄さんのほうが、メモ取ってたわ」

その晩、夫は何も言いませんでした。

ただ、食卓に出した鮭を、一口食べてから、「これは、ちゃんとしたやつだ」とだけ言いました。

店の人と話し込む夫の姿を、私は四十年、一度も見たことがありませんでした。

市場では、毎朝そうしていたのでしょう。

私が知らなかったのは、夕方の三十分のことだけではなかったのだと思いました。

木曜日の、喫茶店

木曜日、私は一人で、夕方の四時に家を出ました。

川沿いの道を、八分歩きました。

冷蔵庫の中身を思い出しながら、今夜は何にしようかと考えました。

八か月ぶりに、頭の中で献立が最後まで組み上がりました。

売り場では、誰にも何も言われずに、刺身のパックを一つ選びました。

買い物を終えてから、帰り道の角の喫茶店に入りました。

前から、一度入ってみたかった店です。

窓際の席で、コーヒーを一杯だけ頼みました。

三十分ほど、川を見ていました。

帰ると、夫は居間で新聞を読んでいました。

「遅かったな」

「喫茶店に寄ってたの」

「そうか」

夫は、それ以上は聞きませんでした。

その週の日曜日、息子の大地から電話がありました。

「父さんがさ、電話でスーパーの話ばっかりするんだけど。大根の相場がどうとか」

「そうなのよ。火曜日は、お父さんの買い物の日なの」

「へえ。母さん、よく任せたね」

大地は笑って、それから、少し声を落としました。

「父さん、定年してから、電話でも何話していいか分かんないって感じだったからさ。なんか、よかったよ」

三回目の火曜日

それで、全部がうまくいったわけではありません。

木曜日の出がけに、夫が「俺も行こうか」と言うことが、今もときどきあります。

そのたびに、「今日は私の日」と言うのが、少しだけ後ろめたいのです。

六月の魚の売り場のことも、まだ謝っていません。

夫も、何も言いません。

火曜日の夕方、一人で居間にいると、たまに、並んで川沿いを歩いていた夕方が恋しくなることもあります。

三回目の火曜日、夫は四時半を少し過ぎて帰ってきました。

保冷バッグの中から、メモのものが順に出てきました。

豆腐、ねぎ、鶏のもも肉、牛乳。

最後に、メモに書いていない、小さなパックが一つ出てきました。

いちじくでした。

六つ、きれいに並んでいました。

私は、しばらくそのパックを持ったまま、立っていました。

若いころ、私はいちじくが好きでした。

でも、息子が生まれてからは、傷みやすくて値の張るものを、自分のために買うことはなくなっていました。

夫の前で、いちじくの話をしたのは、たぶん結婚する前のことです。

「これ、メモにないわよ」

夫は、保冷バッグをたたみながら、こちらを見ずに言いました。

「安かったんだよ。今が、いちばんいい時期だ。……お前、昔これ好きだったろう」

あなたなら、どうしますか?

一緒にいる時間が息苦しいとき、相手を遠ざけるより先に、「任せる」ことができるものはありますか。

そして、相手がついてくる理由を、一度でも本人の口から聞いたことがありますか。

この物語から、考えたいこと

1. ついてくるのは、行く場所がないからかもしれない

毎回ついてくる、口を出す、というのは、こちらから見ると邪魔に見えます。

でも、相手にとっては、長年の仕事の手つきを使える、数少ない場所なのかもしれません。

2. 行かせないことと、任せることは違う

一緒に行かないでと言えば、相手のすることが一つ減ります。

任せれば、それは相手の仕事になり、こちらには一人の時間が戻ってきます。

3. 任せたら、選び方にも口を出さない

一本のほうが割安、脂がのっているほう。

相手のやり方で選ばれたものを、そのまま受け取ることも、任せることのうちに入っているのかもしれません。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(自転車の前のかごにそのまま入る大きさ・口がファスナーで閉まる・使わないときに小さくたためる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

自転車のかごに入る、保冷の買い物バッグ

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  • 販売ページの記載:容量15Lのボックス型、大きさ 約幅25×奥行19×高さ34cm、重さ約400g
  • 販売ページの記載:ダブルスライドファスナーで口が閉まる
  • 販売ページの記載:付属のテープで小さくたためる、ショルダーストラップ付き
  • 選ぶときは、容量・幅(かごに入るか)・たたんだときの大きさを見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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