孫が大きくなって来なくなった60代。冷蔵庫にジュースを買い置きしていた66歳の私が、待つのをやめて出かけた半日
「おばあちゃん、ごめん。日曜、試合が入っちゃった」
夕方の六時でした。
電話の向こうで、悠斗の声は少し低くなっていました。
去年の夏までは、もっと高い声だったと思います。
「そう。がんばってね」
私は、そう言いました。
言ってから、いつもの一言を足しました。
「また来てね」
「うん。またね」
電話は、それで終わりました。
三十秒もかかっていません。
受話器を置いて、私は冷蔵庫を開けました。
いちばん下の段に、六本
冷蔵庫のいちばん下の段に、オレンジのジュースが六本入っています。
悠斗が小学生のころ、うちに来ると必ず飲んでいたものです。
五年生くらいまでは、一日に二本飲むこともありました。
今も、私はそれを買っています。
スーパーで安くなっていると、つい手が伸びるのです。
先週、いちばん奥の一本の日付を見たら、二か月前に切れていました。
流しに中身を流すとき、少し手が止まりました。
私は六十六歳です。
夫は六十八歳で、去年から庭の畑にかかりきりです。
娘の千尋は四十歳で、車で四十分のところに住んでいます。
悠斗は、その千尋の子どもで、中学二年になりました。
家は、駅から歩いて二十分の、古い一戸建てです。
二階には、千尋が使っていた部屋が、そのままあります。
悠斗が小学生のころは、その部屋に布団を二組並べて敷きました。
金曜の夜に来て、日曜の昼に帰る。
それが、五年生の終わりまで続いていました。
朝顔の、七つ目の花
小学二年生の夏休みに、悠斗は朝顔の鉢を持ってきました。
学校の宿題で、毎朝、花の数を数えて日記に書くのです。
うちに泊まる日は、うちで数えることになりました。
朝の六時に、悠斗が起きてきます。
私も一緒に、縁側に座って数えました。
「一、二、三……七つ」
「七つね。じゃあ、七って書きなさい」
「おばあちゃん、なんで朝だけ咲くの」
「さあ。お昼には、しぼんじゃうねえ」
「もったいないね」
そんな話を、毎朝していました。
八月の終わりに、悠斗は日記を持って帰りました。
そのころの写真が、うちには何百枚もあります。
私は、悠斗が来るたびに、写真を撮っていました。
ごはんを食べているところ。
庭で水をまいているところ。
同じような写真が、一日に三十枚はありました。
夫に「そんなに撮ってどうするんだ」と言われたこともあります。
私は「見返すのよ」と答えていましたが、見返したことは、ほとんどありませんでした。
六年生になった年に、悠斗はサッカーのクラブに入りました。
土曜と日曜に、練習と試合が入るようになりました。
泊まりに来る日が、月に一度になり、二か月に一度になりました。
中学に上がってからは、年に二回か三回です。
お正月と、お盆と、もう一回あるかないか。
最後に泊まったのは、六年生の冬でした。
そのとき、悠斗は布団に入ってから、こう言いました。
「おばあちゃん、来月から日曜も練習なんだ」
「そう。大変ねえ」
「でも、たまには来るから」
たまには来るから、と言われて、私は「待ってるわ」と答えました。
待ってるわ。
その返事を、私は十回以上しています。
「泊まる?」と聞かなくなったのが、いつからだったかは思い出せません。
二階の部屋の押し入れには、悠斗の布団が今もしまってあります。
年に二度、天気のいい日に干して、また同じところに戻しています。
「行かない理由は、お母さんじゃないよ」
九月の初めに、千尋が大根を取りに寄りました。
夫の畑のものです。
玄関先で渡すつもりが、結局、台所で三十分しゃべりました。
私は、つい言ってしまいました。
「悠斗、ぜんぜん来ないわね」
千尋は、大根を袋に入れながら言いました。
「今、部活が土日とも朝からなのよ。帰ってきたら寝てるだけ」
「そうよねえ」
「お母さん、あの子が来ないの、自分のせいだと思ってるでしょ」
私は、返事ができませんでした。
「行かない理由は、お母さんじゃないよ。時間がないだけ」
千尋は、そう言ってから、少し笑いました。
「私だって、行けてないじゃない。送り迎えで一日終わるのよ」
娘が、目の下にくまを作っているのに、私はそのとき初めて気づきました。
私は、待っている自分のことばかり考えていました。
「でもね、お母さんが誘えば行くと思うよ、あの子」
「誘うって、なんて言えばいいのよ」
「日にちを言えばいいの。来てねじゃなくて、何日、って」
千尋は、大根を持って帰っていきました。
母が、電話でよく言っていたこと
千尋の言葉を聞いて、思い出したことがあります。
私の母のことです。
母は、隣の市に住んでいました。
私が子どもたちを育てていたころ、母の家には、年に二回しか行きませんでした。
千尋と、その上の兄の学校の行事が、土日にびっしり入っていたのです。
母は、電話のたびに同じことを言いました。
「また来てね」
「うん、行く行く。落ち着いたらね」
落ち着いたら。
その言葉を、私は何年も使いました。
一度、母の家に行ったとき、冷凍庫を開けて驚いたことがあります。
私の好きだった栗のごはんが、三つも入っていました。
「これ、いつの」
「あんたが来るかと思って、作っといたの」
「言ってくれれば来るのに」
「忙しいのは分かってるから、いいのよ」
母は、そう言って、栗のごはんを一つ、その日の夕飯に出しました。
残りの二つは、たぶん、そのあとも冷凍庫にあったと思います。
帰るとき、母はいつも門のところまで出てきました。
車が角を曲がるまで、手を振っているのです。
バックミラーに、だんだん小さくなる母が映っていました。
子どもたちが「おばあちゃん、まだ振ってるよ」と後ろの窓から見ていました。
私は、運転しながら「そうねえ」と答えるだけでした。
次はいつ行こうか、とは考えませんでした。
母は、十年前に亡くなりました。
「また来てね」としか言わなかった人のことを、私は今、同じ言葉で待っています。
母は、一度も「何日に来て」とは言いませんでした。
言ってくれていたら、私は行ったでしょうか。
たぶん、行ったのだと思います。
日にちを、こちらから
九月の終わりに、千尋に電話をしました。
「悠斗の部活、休みの日ってあるの」
「テストの前は、一週間休みよ。十月の中ごろ」
「その土曜、空いてる?」
「聞いてみるけど、どうするの」
「私が、迎えに行こうかと思って」
言ってから、自分でも少し驚きました。
これまで、悠斗が来ることは考えても、私が行くことは考えていなかったのです。
千尋は「聞いてみる」と言って、その晩に返事をくれました。
「十月十八日なら、昼まで空いてるって」
昼まで。
半日です。
一泊でも、一日でもありません。
それなら、何をすればいいのか、私は考えました。
うちに呼んでごはんを食べさせるのは、違う気がしました。
食べさせたい気持ちは、こちらの都合です。
中学二年の男の子と、向かい合って三時間しゃべるのも、たぶん無理です。
それで、「一緒に何かを見る」だけにしようと決めました。
話さなくても、同じものを見ていれば、時間は過ぎます。
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決めたのは、ガラスのコップを作るところでした。
電車で四十分。
中学生も参加できると書いてありました。
「一枚でいいの?」
十月十八日は、よく晴れていました。
朝の九時に、悠斗が駅の改札の前に立っていました。
背が、私より高くなっていました。
去年の正月は、目の高さが同じくらいだったと思います。
「おはよう」
「おはよう」
電車の中では、ほとんどしゃべりませんでした。
悠斗は、窓の外を見ていました。
私も、無理に話しかけませんでした。
聞きたいことは、いくつもあったのです。
学校はどうか。試合は勝っているのか。ごはんはちゃんと食べているのか。
一つも聞きませんでした。
工房は、川沿いの古い建物でした。
四人がけの台に、二人で並んで座りました。
溶けたガラスは、思っていたよりもずっと柔らかく、飴のようでした。
「こっち、持ってて」
職人の方に言われて、悠斗が棒を押さえ、私が息を吹き込みました。
うまく膨らみませんでした。
二回目も、つぶれました。
三回目で、やっと丸くなりました。
「おばあちゃん、下手すぎ」
悠斗が笑いました。
声を出して笑うのを見たのは、何年ぶりだったでしょう。
悠斗の番になって、私が棒を押さえました。
その手が、私の手より大きいことに、そこで気づきました。
作ったコップは、その場では持って帰れませんでした。
冷ますのに、二時間ほどかかるのだそうです。
待っているあいだ、私たちは川の見える窓辺の椅子に座っていました。
自動販売機で買った麦茶を、二人で飲みました。
そのとき、悠斗のほうから話しはじめました。
「この前さ、試合で一年に抜かれたんだよね」
「抜かれたって、走って?」
「うん。おれ、もう三番目」
「そう」
私は、それ以上は聞きませんでした。
がんばれとも、まだ若いんだからとも、言いませんでした。
「でも、あいつ、めちゃくちゃ足速いから、しょうがない」
悠斗は、そう言って笑いました。
もしうちの台所で向かい合っていたら、この話は出てこなかったと思います。
窓の外を見ながらだから、話せたのでしょう。
自分のコップが形になったとき、悠斗が言いました。
「写真、撮らないの?」
私は、少し考えてから、携帯を出しました。
そして、一枚だけ撮りました。
台の上に並んだ、二つのコップの写真です。
悠斗も私も、写っていません。
「一枚でいいの?」
「うん。一枚でいいの」
昔なら、三十枚撮っていました。
帰りの電車で、悠斗が言いました。
「次はどこ行く?」
私は、すぐには答えられませんでした。
「そうねえ。悠斗が、行きたいところでいいわ」
「じゃあ、考えとく」
それから、悠斗は寝てしまいました。
隣で、膝の上に紙袋を抱えたまま、口を開けて眠っていました。
小学生のとき、車の中でいつもこうなっていたのを思い出しました。
玄関の、狭い棚に
家に帰って、その一枚を印刷しました。
家の写真屋さんに出して、L判で一枚です。
何百枚もある写真は、いまだに整理していません。
だから、今度は一枚だけ置くことにしました。
置く場所は、玄関の靴箱の上と決めていました。
そこは、奥行きが十二センチしかありません。
大きな立て札のようなものは、置けないのです。
それで、条件を三つにしました。
奥行きが十センチ以内に収まること。
L判が一枚だけ入る大きさであること。
立てても掛けてもいいように、裏に穴があること。
もう一つ、割れにくいものを選びました。
玄関は人の出入りが多くて、何度も物を落としている場所だからです。
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飾ったのは、二つのコップの写真です。
悠斗の顔も、私の顔も写っていない一枚です。
夫が、通りがかりに立ち止まって言いました。
「なんだこれ」
「悠斗と作ったの。青いほうが、あの子」
夫は「ふうん」と言って、そのまま畑に出ていきました。
その晩、悠斗が使っていた青いコップに、夫は麦茶を入れて飲んでいました。
冬が来て、それから
十一月に、悠斗から一度だけ連絡がありました。
千尋の携帯からです。
写真が一枚、送られてきました。
青いコップに、牛乳が入っていました。
文字は、なしです。
私は、「おいしそう」とだけ返しました。
はてなマークのない返事を書くのは、少し勇気が要りました。
十二月に、初雪が降りました。
お正月に、悠斗は三十分だけ顔を出して、すぐに部活に行きました。
そのとき、冷蔵庫のジュースを一本、自分で開けて飲んでいきました。
私は、それを見ていて、何も言いませんでした。
二月に、残りの五本のうち、三本を夫が飲みました。
「これ、甘すぎるな」と言いながら、三日で三本です。
三月に、悠斗は中学三年になりました。
来年は、もっと来なくなるのだと思います。
四月の初めに、千尋から電話がありました。
「悠斗が、五月の連休なら一日空くって。どこ行くか、自分で調べてるみたい」
私は、受話器を持ったまま、玄関のほうを見ました。
靴箱の上の写真立ての中で、二つのコップが並んでいます。
青いほうは、いま台所の棚にあります。
庭では、夫が植えた豆の芽が、土から出はじめたところでした。
その日の午後、私は二階の押し入れから布団を出して、物干しに掛けました。
泊まるとは、誰も言っていません。
半日で帰るのなら、干す必要もないのです。
それでも、四月の風に当てておこうと思いました。
五月まで、あと一か月です。
あなたなら、どうしますか?
来てもらうのを待つ代わりに、あなたのほうから出かけられる日は、いつですか。
そして、その半日を「一緒に何かを見る」だけに使うとしたら、何を見に行きますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 来ないのは、嫌われたからとは限らない
小さいころに毎週来ていた子が、来なくなるのは自然なことです。
部活と塾で、その子の土日は、もう自分のものではありません。
理由を自分の中に探しはじめると、待つ時間が長くなるばかりです。
2. 「また来てね」は、日にちが入っていない
また来てね、と言われた側は、いつ行けばいいのかが分かりません。
忙しい人ほど、日にちの入っていない誘いは後回しになります。
何日、と言うだけで、相手は予定表を開くことができます。
3. 写真を減らすと、その日が残る
一日に三十枚撮った写真は、たいてい見返しません。
一枚だけにすると、飾る場所を決めることになります。
飾る場所が決まると、その日のことを、毎日一回は思い出します。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(奥行き十センチ以内・L判が一枚だけ入る・立てても掛けてもいい・割れにくい)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
一枚だけ飾る写真立て
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- 販売ページの記載:スタンド付き・吊り金具付き(立てても掛けても使える)・樹脂製
- 選ぶときは、入る写真の大きさ・奥行き・立てるか掛けるかを見ると選びやすくなります。
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次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。