転勤族で、どこにも友達がいない50代。八つの町に住んだ57歳の私が、歩いた道に色を塗り始めた十月
段ボールの側面に、マジックで書いた文字が残っていました。
「台所 3/われもの/すぐ開ける」
私の字です。
その下に、別の字がうっすらと見えます。
「台所 2/なべ類」
さらにその下に、「台所 1」とだけ。
八月の終わりに天袋を片付けていたら、たたんだままの段ボールが四枚出てきました。
引っ越しのたびに使い回してきた箱です。
住所を書いては消し、消しては書いたあとが、側面に何段も重なっていました。
数えてみると、書き換えは八回ありました。
八つの町です。
九枚目の字を書くことは、もうありません。
「ここで、定年まで」
七月の終わりの夜でした。
夫が台所に来て、麦茶をコップに注ぎながら言いました。
「異動の話、なくなったよ。ここで定年までだと」
「そう」
私はそれだけ言って、流しの水を止めました。
うれしいはずでした。
もう、三年ごとに荷物をまとめなくていいのです。
それなのに、その夜はなかなか寝つけませんでした。
天井を見ながら考えていたのは、この町で名前を知っている人が何人いるか、ということでした。
数えるまでもありませんでした。
不動産屋の方と、かかりつけの歯医者の受付の方。
二人です。
私は五十七歳です。
夫は五十九歳で、あと三年で定年になります。
結婚して三十二年のあいだに、八つの町に住みました。
雪の深い北の町から、海沿いの町まで。
短いところは一年十か月、長いところで四年でした。
今の町に来て、二年半になります。
山が見える、坂の多い町です。
駅から歩いて二十分の、二階建ての借家に住んでいます。
息子の亮は三十歳で、名古屋の会社にいます。
「二、三年だと思います」
引っ越しのたびに、私はまず同じことを調べました。
スーパーの場所、病院、ごみの日。
それが済むと、近所に挨拶に回ります。
三軒か四軒に、タオルを持って行くのです。
「しばらくお世話になります」
そう言って頭を下げると、たいていの方が「いつまでいらっしゃるの」と聞きました。
「二、三年だと思います」
私は、必ずそう答えていました。
どの町でも、それが私の二番目の一言でした。
六つ目の町で、一度だけ、別の返事をされたことがあります。
玄関先で、白髪の女性がこう言ったのです。
「二、三年でも、二、三年ぶんは住むんでしょう」
私は、うまく返事ができませんでした。
「そうですね」とだけ言って、頭を下げて帰りました。
その方とは、それきり話していません。
一年十か月で、その町を出ました。
今になって思えば、あれは「深く関わらなくて大丈夫ですよ」という合図だったのかもしれません。
相手のための合図ではありません。
自分のための合図です。
親しくなってから別れるのは、つらいのです。
だから、親しくならないようにしていました。
回覧板は、隣の家のポストに黙って入れました。
町内の集まりは、「まだ慣れなくて」と言って断りました。
公園でよその子と遊んでいた亮を迎えに行くときも、名前を名乗らずに「ありがとうございました」とだけ言って帰りました。
八つの町で、同じことをしました。
三つ目の町の、二枚目の便箋
いちばんよく思い出すのは、三つ目の町です。
亮が小学校に上がる前の年で、社宅の二階に住んでいました。
隣が、勝見さんという方でした。
私より五つ上で、男の子を二人育てていました。
最初に話したのは、ベランダで洗濯物を干しているときです。
「お宅の坊ちゃん、うちの下のと同じ組ね」
それから、物干しざおごしに話すようになりました。
揚げ物の油の切り方を教わったり、台風の前に洗濯ざおを一緒に下ろしたり。
一年ほどたったころ、勝見さんが言いました。
「今度、子ども抜きでお昼でも行こうよ。駅前に新しい店ができたの」
「ぜひ」
私は、そう答えました。
「じゃあ、来月ね。上の子の参観が終わったら」
勝見さんは、干したばかりのシャツの襟を直しながら言いました。
そのとき私は、財布に入れっぱなしの、この町のバスの回数券のことを考えていました。
あと七回ぶん残っています。
使い切れるだろうか、と。
その二週間後に、夫の異動が決まりました。
私は、勝見さんに言えませんでした。
言えば、お昼の約束を先に入れてくれるに決まっていました。
何か持たせてくれるかもしれません。
そうしてもらうほど親しくしてきたとは、自分では思えなかったのです。
引っ越しの日は、朝の六時にトラックが来ました。
私は、勝見さんの部屋の窓が閉まっているのを確かめてから、階段を下りました。
一か月後、転送された封筒が届きました。
便箋が二枚入っていました。
一枚目には、引っ越しを知らなかった驚きと、新しい町はどうですかという言葉が並んでいました。
二枚目には、一行だけでした。
「水くさいじゃないの」
私は、返事を書けませんでした。
書けないまま、その封筒だけを、引っ越しのたびに持って歩きました。
「教えることなんて、あんまりないから」
九月の初めでした。
亮に荷物を送ろうとして、郵便局へ歩いていきました。
いつもは駅のほうの大きな局へ行くのですが、その日は暑くて、近いほうの小さな局にしたのです。
一度も通ったことのない道でした。
途中で分からなくなって、局の前を掃いていた年上の女性に声をかけました。
「すみません、この道をまっすぐ行くと、川のほうに出ますか」
その方は、ほうきを持ったまま顔を上げました。
「出るけど、途中で二股になるのよ。左は行き止まり。右に行くと橋」
「ありがとうございます」
頭を下げて行きかけたら、後ろから声がしました。
「お引っ越しされたばかり?」
「いえ、二年半になります」
言ってから、自分でも変だと思いました。
二年半も住んでいて、川へ出る道を知らないのです。
その方は少し笑って、こう言いました。
「この町の人はね、道を聞かれるとうれしいのよ。教えることなんて、あんまりないから」
沼田さん、という方でした。
胸に名札がついていました。
局の掃除を、頼まれてやっているのだと言っていました。
教えることが、あんまりない。
帰り道、私はその一言を何度も思い返していました。
私はこの三十二年、人に聞くことも、人から聞かれることもせずに暮らしてきたのです。
地図を、一枚買いました
次の週、駅前の本屋で、この町の地図を買いました。
折りたたむ紙の地図です。
携帯の画面でも道は分かりますが、画面には全体が入りません。
台所の壁に貼ってみて、白い場所の多さに驚きました。
私が歩いたことのある道は、駅とスーパーと歯医者を結ぶ、細い線だけでした。
町の八割は、通ったこともない道です。
それで、決めました。
歩いた道を、色で塗っていくことにしたのです。
一日にひとつ、知らない道を歩く。
分からないところは、人に聞く。
聞くと決めたのは、沼田さんの言葉があったからです。
最初の日は、家の裏の坂を上りました。
上りきったところに、小さな神社がありました。
二年半、あることも知りませんでした。
その晩、亮から電話がありました。
米を送った礼の電話です。
「母さん、こっち来てから、友達できた?」
亮は、引っ越しのたびに同じことを聞きます。
私はいつも「まあ、ぼちぼちね」と答えてきました。
その日も同じ返事をしかけて、やめました。
「友達はいないけど、神社を見つけたわ。家の裏の坂の上」
電話の向こうが、少し黙りました。
「……それ、どういう報告」
亮が笑いました。
私も笑ってしまいました。
けれど、切ったあとで、悪くない報告だったと思いました。
八つの町で、私は「ぼちぼちね」しか言ってこなかったのです。
坂の色だけが、短くなる
塗るものを、どうするかで少し迷いました。
蛍光ペンは、裏に写ってしまいます。
家にあった水性ペンは線が太くて、細い道が全部つぶれてしまいました。
一度塗ると、やり直しがきかないのです。
それで、色鉛筆にすることにしました。
決めた条件は、三つです。
細い道の上を、はみ出さずに塗れること。
薄い紙の裏に、色が写らないこと。
色の数があって、月ごとに色を変えられること。
売り場には、十二色のものから、百色を超えるものまで並んでいました。
百色は、選ぶだけで日が暮れそうでした。
私が選んだのは、三十六色のものです。
芯がやわらかすぎると紙が毛羽立つ、と箱の裏に書いてありました。
その一行を読んで、決めました。
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十月は、黄土色にしました。
坂の道から塗り始めたので、なんとなく土の色にしたのです。
金曜日に、米が届くようになった
道を聞く相手は、はじめのうちは店の人でした。
店の人なら、聞かれるのも仕事のうちだと思えたからです。
坂の下に、古い米屋があります。
そこで「この先の踏切は、車も通れますか」と聞いたのが、橋爪さんとの最初でした。
「通れるよ。でも朝は開かずの踏切だから、歩きのほうが早い」
そのあとで、橋爪さんが聞きました。
「お米、どうしてる」
スーパーで買っている、と答えると、五キロの袋を指さして「配達するよ」と言われました。
それから、金曜日に米が届くようになりました。
配達のたびに、玄関で二、三分話します。
先週は、坂の上の神社の祭りが十月にあると教わりました。
「うちは三代、あそこの氏子でね。太鼓、叩いてたんだよ、若いころ」
橋爪さんは米の袋を玄関に置きながら、そう言いました。
「今年は見に行きます」
そう答えたら、「見るだけじゃつまらんよ。焼きそばの手伝い、人が足りないから」と言われました。
その場では、返事をしませんでした。
八つの町で断り続けてきた言葉が、まだ口の先に残っていたのです。
小学校の前の横断歩道には、朝、黄色い旗を持って立っている方がいます。
金子さんという方です。
三度目に前を通ったとき、向こうから「毎朝、どちらまで」と聞かれました。
「散歩です。道を覚えたくて」
そう答えたら、金子さんは「じゃあ、あの水路沿いは通った」と言いました。
通っていませんでした。
その日の帰りに、教わった水路沿いを歩きました。
地図の白い場所が、また少し減りました。
「私より詳しいわね」
年が明けて、二月になりました。
地図の色は、十一月が緑、十二月が青、一月が赤です。
黄土色の鉛筆だけが、半分の長さになっていました。
坂の道が、この町にはいちばん多いのです。
名前を言える人は、十四人になりました。
そのうち十人は、家も知りません。
道で会えば話す、それだけの人です。
二月の土曜日、家の前を掃いていたら、三軒先の細川さんに声をかけられました。
「あなた、公民館の裏から市民病院に抜ける道、分かる?」
私は、分かりました。
十一月に、緑の鉛筆で塗った道です。
歩くと十二分で、途中に十七段の階段があることまで覚えていました。
そう説明すると、細川さんは目を丸くしました。
「あなた、この辺の道、私より詳しいわね。こっちは四十年住んでるのに」
そう言って笑われました。
それから、細川さんは聞きました。
「ここ、いつまでいらっしゃるの」
八つの町で、何度も聞かれた質問です。
私は少し考えてから、答えました。
「たぶん、ずっとです」
口に出してみると、思っていたよりも普通の一言でした。
細川さんは「あらそう」と言って、それだけでした。
驚きもしませんでした。
四十年住んでいる人にとっては、当たり前の答えなのだと思います。
六つ目の町の玄関先で言われた言葉を、私はそのとき思い出していました。
二、三年でも、二、三年ぶんは住む。
あのとき返事ができなかったのは、住むということを、自分がしていなかったからでした。
十月の祭りには、結局、見に行っただけでした。
焼きそばの手伝いのことは、橋爪さんも私も、そのあと一度も口にしていません。
来年また言われたら、今度は返事をしようと思っています。
その晩、私は押し入れから、あの封筒を出しました。
勝見さんからの、二枚の便箋です。
二十四年、返事を書かないまま持ち歩いてきました。
書き出しは、なかなか決まりませんでした。
結局、こう書きました。
「あの朝、黙って出てしまってごめんなさい。今は山の見える町にいます。ここで定年まで住むことになりました」
そのあとに、この町の坂の話と、神社の祭りの話を書きました。
謝る手紙のつもりが、道の話ばかりになりました。
川の向こうは、まだ白いまま
三月になっても、返事は来ていません。
住所が変わっているかもしれませんし、読んで、今さらと思われたのかもしれません。
それでも、書けてよかったと思っています。
台所の壁の地図は、だいぶ色がつきました。
黄土色の十月、緑の十一月、青の十二月、赤の一月、紫の二月。
近くで見ると、色の帯が町の上で絡まっているように見えます。
けれど、少し離れて見ると、白い場所はまだ広いのです。
川の向こう側が、まるごと白いまま残っています。
橋を渡った先は、隣の学区になります。
用事がないので、一度も行ったことがありません。
夫は地図の前に立って、「ここまで塗ったのか」とだけ言いました。
それから、「川の向こうに、うまい蕎麦屋があるらしいぞ」と付け足しました。
会社の人に聞いたのだそうです。
段ボールは、去年のうちに資源に出しました。
八回ぶんの字が重なった側面をたたんで、ひもでしばって、朝の集積所に置いてきました。
今、玄関の棚にあるのは、折りたたんだ地図と、色鉛筆のケースです。
ケースを開けると、三十六本のうち、黄土色の一本だけが、指一本ぶん短くなっています。
削ったときの匂いが、まだ少し残っています。
その隣に、まだ一度も削っていない色が、何本も並んでいます。
あなたなら、どうしますか?
もし明日、住んでいる町で「一度も通ったことのない道」を一本だけ歩くとしたら、どの道を選びますか。
そして、その道で誰かに一つだけ聞けるとしたら、何を聞いてみたいですか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 「どうせ」は、相手ではなく自分を守る言葉
どうせ二、三年で出ていく。
そう思って距離を置くと、別れのつらさは減ります。
けれど、減るのは別れのつらさだけで、その町で過ごした時間まで薄くなってしまいます。
2. 聞くことは、相手から何かをもらうだけではない
道を聞かれた人は、教える側になります。
教える機会というのは、暮らしの中でそう多くありません。
こちらが聞くことで、相手に渡せるものもあります。
3. 人より先に、場所と親しくなる方法がある
いきなり人と親しくなるのは、年を重ねるほど難しくなります。
けれど、道や店や坂とは、いつからでも親しくなれます。
場所を知っている人になると、話しかけられる回数のほうが増えていきます。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(細い道からはみ出さずに塗れる・薄い紙の裏に色が写らない・色数があって月ごとに変えられる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
地図に色を塗るための色鉛筆のセット
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- 販売ページの記載:36色・缶入り・丸軸
- 販売ページの記載:大きさ 幅187×厚さ13×全長298mm
- 選ぶときは、色数・ケースの形(缶か紙か)・芯のやわらかさを見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。