子どもが巣立ったあと
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子どもが巣立って、家族旅行に行かなくなった60歳。十五年ぶりの一泊で、写真の中にいなかった私が三脚を立てた朝

朝の土手で道ばたの花をスマホで撮る女性
kuroko

輪ゴムは、指で引っぱっただけで、ぷつりと切れました。

押し入れの天袋から出てきたのは、写真屋さんの袋が十二枚、ひとまとめにされた束でした。

袋の口から出した写真の右下には、オレンジ色の数字で日付が焼きこまれています。

九十七年の八月。

二〇〇三年の三月。

二〇一一年の八月。

海の家の前で、日に焼けた息子が浮き輪を抱えています。

雪の積もった旅館の玄関で、娘が夫のコートの裾をつかんでいます。

どの写真にも、夫と子ども二人が写っていました。

私がいる写真は、十二袋の中で、たった四枚でした。

そのうち二枚は、指が写りこんで、半分がぼやけています。

カメラは、いつも私が持っていたのです。

私は六十歳です。

三つ年上の夫と、郊外の二階建てで暮らしています。

息子の健司は三十三歳、娘の真央は三十歳。

二人とも家を出て、もう十年以上になります。

写真を探そうと思ったのは、前の晩に、息子から届いた一行のせいでした。

「俺が宿を探す」

「今度、みんなで一泊しない? 俺が宿を探す」

息子からのLINEは、それだけでした。

日曜の夜の九時すぎ、台所で茶碗を拭いていたときです。

私は布巾を持ったまま、しばらく画面を見ていました。

みんな、というのが誰のことなのか、すぐには分かりませんでした。

「健司から。みんなで一泊しないかって」

居間の夫に言うと、夫はテレビの音を小さくしました。

「健司がか。珍しいな」

「どうしよう」

「どうしようって、行けばいいだろう」

夫は、それだけ言って、またテレビのほうを向きました。

行けばいい。

その通りでした。

でも、私は返事を打てませんでした。

最後に家族四人で旅行をしたのは、十五年前の夏です。

それから一度も、私は自分から旅行の話を出していません。

出さないと決めた日のことを、私はよく覚えていました。

パンフレットは、夕飯のあとに

十五年前の冬、娘は中学三年生、息子は高校三年生でした。

夏に湖のそばの宿へ行ったのが楽しくて、私はお正月の旅行を考えていました。

駅前の旅行会社で、パンフレットを五冊もらってきました。

夕飯のあと、お茶を出しながら、テーブルに並べたのです。

「お正月、どこか行かない? 温泉でもいいし、雪のところでもいいし」

娘は、パンフレットを見もせずに言いました。

「私、行かない」

「どうして。受験の前に、息抜きしたらいいじゃない」

「友だちと初詣の約束してるし。家族旅行とか、もういいよ」

息子も、スマホから目を上げずに言いました。

「俺も。バイトのシフト、もう出しちゃった」

私は、パンフレットの端を指でそろえました。

そろえながら、口から出た言葉を、今でも覚えています。

「分かった。もう誘わない。誰も行きたくないなら、もう二度と誘わないから」

台所の水道の音だけが、しばらく聞こえていました。

夫が「まあ、そういう年だ」と言って、お茶を飲みました。

その夜、私はパンフレットを五冊とも、台所のごみ箱に捨てました。

言ったとおり、私はそれから一度も誘いませんでした。

子どもたちが大学に行き、働きはじめ、家を出ても、誘いませんでした。

お盆やお正月に二人が帰ってくれば、それで十分だと思うことにしました。

十五年のあいだに、旅行の話は、わが家では誰もしない話になっていました。

ごみ箱の中の五冊

息子に返事をしないまま、三日がたちました。

木曜の夜、娘から電話がかかってきました。

「お兄ちゃんから聞いた? 一泊の話」

「聞いたわよ。まだ返事してないけど」

「え、なんで。お母さん、行きたくないの?」

「そうじゃないけど」

私は、何と言えばいいのか分からなくなりました。

十五年前のことを、娘は覚えていないと思っていたのです。

「真央は、あのお正月のこと、覚えてる? パンフレットの」

電話の向こうで、少し間がありました。

「覚えてるよ。私、次の朝、ごみ箱の中にパンフレットがあるの見たもん」

「見てたの」

「見た。あれで、お母さんを本気で怒らせたんだと思った。だから、もう旅行の話はしちゃいけないんだって、ずっと思ってた」

私は、台所の椅子に腰を下ろしました。

「怒ってたんじゃないのよ。ただ、ちょっと、寂しかっただけで」

「うん。今なら分かる。でも、十五のときは分からなかった」

娘は、少し笑いました。

「お兄ちゃんもそうだよ。お母さん、もう旅行は嫌なんだと思ってたって。だから今回、自分で宿を探すって言ったんだと思う」

私は、娘たちが誘ってくれるのを、どこかで待っていました。

娘たちは、私がもう一度言い出すのを、待っていたのです。

同じ家の中で、十五年、お互いに待っていたことになります。

「今回はさ、お兄ちゃんに全部やらせなよ」

娘は言いました。

「お母さん、昔は全部自分でやってたでしょう。宿も、切符も、荷物も、写真も」

写真も。

私は、天袋の十二袋を思い出していました。

お願いは、一つだけ

電話を切ったあと、私は息子に返事を打ちました。

最初に打った文は、長くなりました。

日にちはいつがいいか、どのあたりの宿がいいか、車で行くのか電車で行くのか。

気がつくと、昔パンフレットを並べたときと同じことを、全部自分で決めようとしていました。

全部消して、打ち直しました。

「行きます。行き先も宿も、健司と真央に任せます。お母さんのお願いは一つだけ。四人で写真を一枚、撮りたいです」

送ってから五分もしないで、返事が来ました。

「了解。それだけ?」

「それだけ」

「分かった。日にちは真央と決める」

それだけ、と打ったのは、私にとっては大きなことでした。

言いたいことは、ほかにもたくさんありました。

でも、全部を言わずに任せるのが、今回の私の役目だと思ったのです。

写真を撮るのも、宿の人に頼めば済むことかもしれません。

ただ、十五年前までの写真を見ていて、私は思いました。

誰かに「お願いします」と頼むと、私はきっと、頼んだ人に悪いと思って、一枚で終わらせてしまう。

四人がそろって笑うまで、何度でも撮り直したかったのです。

三脚を選んだ夜

それで、スマホを立てておく小さな三脚を探すことにしました。

写真屋さんで使うような大きなものは、うちには要りません。

駅の家電売り場で見てみると、長さも太さも、思っていたよりいろいろありました。

店の人に「何を撮りますか」と聞かれて、私は「家族を、四人で」と答えました。

決めた条件は、三つでした。

たたむと、手持ちの鞄に入る長さであること。

スマホを挟むところが、しっかりしていること。

離れたところから、シャッターを押せる小さなボタンがついていること。

三つ目が、いちばん大事でした。

タイマーをかけて走っていくと、私はきっと、息を切らした顔で写ってしまいます。

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家に帰って箱を開けると、夫が居間から覗きに来ました。

「なんだ、それ」

「三脚。四人で写真を撮るの」

「宿の人に頼めばいいだろう」

「頼むと、一枚しか撮れないのよ、私は」

夫は、少し黙っていました。

それから、小さなボタンを手に取って、裏返したり、表に返したりしました。

その夜、私がお風呂から上がると、居間の棚の上にスマホが立ててありました。

夫がソファに座って、ボタンを押しています。

ぴっ、と小さな音がして、画面の中の夫が、少し遅れて固まりました。

「押すと、ちゃんと鳴るんだな」

夫は照れたように言って、ボタンを私に返しました。

スマホの写真の欄には、ソファに一人で座った夫が、十一枚並んでいました。

どれも、同じ顔をしていました。

夫が寝たあと、私も一度だけ試してみました。

台所のテーブルに三脚を立てて、椅子に座って、ボタンを押しました。

画面の中に、エプロンをつけたままの私が写っていました。

自分ひとりが写った写真を撮ったのは、いつ以来だったでしょう。

少し恥ずかしくなって、その一枚は、すぐに消しました。

湖のそばの宿で

十一月の土曜日、息子の車で出かけました。

行き先は、息子と娘が決めた、湖のそばの宿でした。

車で二時間。

十五年前の夏に行った湖とは、違う湖です。

「同じところにしようかと思ったけど、あそこ、もうないんだって」

運転しながら、息子が言いました。

「調べてくれたの」

「調べた。母さんが一番楽しそうだった旅行、あそこだったから」

私は、助手席の後ろで、窓の外を見ていました。

昔の私なら、この車の中で、次々に聞いていたと思います。

途中でどこに寄るのか。お昼はどうするのか。宿の夕飯は何時か。

聞きたいことを飲みこむたびに、膝の上の鞄を持ち直しました。

鞄の中には、たたんだ三脚が入っていました。

宿に着くと、受付をしたのも、部屋の鍵を受け取ったのも、息子でした。

娘は、みんなのお茶を入れてくれました。

私は、することがなくて、窓の前に立っていました。

湖の向こうの山が、半分だけ色づいていました。

夕飯の前、私は気がつくと、押し入れから浴衣を出して、四人分を畳の上に並べていました。

十五年前の夏も、この時間、私は同じことをしていました。

浴衣を並べて、タオルを配って、明日の荷物をまとめて。

「母さん、座ってて」

息子が、私の手から帯を取りました。

「自分のは、自分で出すから」

私は、並べかけた浴衣の前で、少しのあいだ立っていました。

することがないのが、こんなに落ち着かないものだとは思いませんでした。

窓際の椅子に座って、湖が暗くなっていくのを、ただ見ていました。

夕飯のとき、夫がビールを飲みながら、息子に聞きました。

「なんで急に、一泊なんて言い出したんだ」

息子は、少し考えてから言いました。

「父さんの還暦のとき、何もしなかっただろ。それが、ずっと引っかかってて」

三年前の夫の還暦の日、子どもたちからは電話が一本ずつ来ただけでした。

私も、あの日は、何もしないのが普通だと思っていました。

「気にしてたのか、そんなこと」

夫はそう言って、息子のコップにビールを注ぎました。

注ぐ手が、少しだけ長く傾いていました。

四人で写る一枚

次の朝、朝ごはんの前に、四人で湖のほとりまで歩きました。

霧が、水の上に低く残っていました。

私は鞄から三脚を出して、脚を広げました。

「母さん、それ、自分で持ってきたの」

「そうよ。お願いは一つだけって言ったでしょう」

木のベンチの上に三脚を立てて、スマホを挟みました。

画面の中に、湖と、山と、三人が入りました。

私は、その三人の横に並びました。

手の中の小さなボタンを押すと、ぴっ、と鳴りました。

一枚目は、私が目をつぶっていました。

「もう一回」

言ったのは、夫でした。

二枚目は、娘が笑いすぎて、顔が半分隠れていました。

三枚目は、息子が「寒い」と言って、肩をすくめていました。

「母さん、何枚撮るの」

「四人がちゃんと写るまで」

四枚目で、息子が私の肩に手を置きました。

五枚目で、夫が、珍しく口を開けて笑っていました。

私は五枚目を、その場でみんなに送りました。

娘が、スマホの画面を見ながら言いました。

「お母さんが真ん中にいる写真、初めて見たかも」

私も、そう思いました。

十二袋の写真の中で、私はいつも、写真の外にいたのです。

「来年は、お父さんとお母さんの行きたいところ」

帰りの車の中で、娘が言いました。

「来年は、お父さんとお母さんの行きたいところにしようよ」

私は、すぐに返事ができませんでした。

行きたいところを聞かれたのは、ずいぶん久しぶりでした。

十五年、誰にも言わずにいるうちに、自分が行きたい場所が分からなくなっていたのです。

「考えておくわ」

そう答えるのが、やっとでした。

夫は、窓の外を見たまま、「海がいいな」とだけ言いました。

家に帰った夜、私は台所の椅子に座って、宿の予約の画面を開いてみました。

人数の欄に、四と入れました。

条件を、いくつか書き出しました。

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画面を下へ下へと送りながら、私はまた、全部自分で決めてしまいそうになっていました。

途中で、画面を閉じました。

四人の欄に何を入れるかは、来年、四人で話せばいいことです。

言い出すのは、今度は私の番なのかもしれません。

それが、まだ少しこわいのです。

あの冬のパンフレットのことを思い出すと、指が止まります。

天袋の束は、今は茶の間の引き出しに移しました。

新しい輪ゴムで、十二袋をまとめ直してあります。

その一番上に、一枚だけ、写真屋さんで焼いてもらった写真を挟みました。

湖の霧を背に、四人が並んでいます。

夫は口を開けて笑っていて、娘は少し目を細めていて、息子の手が、私の肩にのっています。

真ん中の私は、ボタンを握ったままの右手を、体の横に下ろしています。

右下には、オレンジ色の日付はありません。

あなたなら、どうしますか?

家族の誰かが「行きたくない」と言った日から、あなたが言い出さなくなった旅はありますか。その旅を、今度は誰に、どんな一言で誘いますか。

子どもたちに全部を任せるとしたら、あなたが一つだけ残しておきたい「お願い」は何ですか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 待っていたのは、自分だけではないかもしれない

「もう誘わない」と言った側は、相手から誘われるのを待ちます。

言われた側は、「もう誘ってはいけない」と思って、黙ります。

同じ家の中で、お互いに待ったまま、長い時間がたつことがあります。

2. 任せるときは、お願いを一つにしぼる

全部を任せると言いながら、細かいことを一つずつ聞いてしまうことがあります。

お願いを一つだけにすると、それ以外は本当に任せられます。

主人公の場合、それが「四人で写る一枚」でした。

3. 写真の外にいた人

家族の写真を撮る係だった人は、写真の中にほとんどいません。

撮る係を降りるか、自分も入れる撮り方を選ぶと、残る写真が変わります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(たたむと手持ちの鞄に入る・スマホを挟むところがしっかりしている・離れたところからシャッターを押せる小さなボタンがついている)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

四人で写るための、スマホ用の小さな三脚

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  • 販売ページの記載:たたむと17.5cm・最大約103cmまで伸びる・四つ脚の自撮り棒兼スマホスタンド
  • 販売ページの記載:Bluetoothのリモコン付き(約10m先からシャッターを押せる)・4〜7インチのスマホに対応
  • 選ぶときは、たたんだときの長さ・リモコンが付いているか・対応するスマホの大きさを見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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