ひとりの時間
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一人カラオケ、60代女性が行っても変じゃない? 三十年「聞く係」だった61歳の私の、平日午後一時

カラオケの個室でマイクを持つ女性
kuroko

「お一人様ですね。お時間は、どうされますか」

受付の若い男の人は、顔を上げずにそう言いました。

「……一時間で」

「機種のご希望はございますか」

「きしゅ?」

聞き返した私の声は、自分でも分かるくらい裏返っていました。

「特になければ、こちらでお選びしますね。お部屋は七番です。お飲み物は、あちらのドリンクバーからどうぞ」

伝票の挟まったかごを渡されて、私は廊下を歩き出しました。

平日の、午後一時です。

廊下のどの扉の向こうからも、誰かの歌声が小さく漏れていました。

私は六十一歳です。

人前で最後に歌ったのは、三十年前です。

台所の鼻歌

きっかけは、九月のはじめの、孫の一言でした。

娘の朋美が、用事のあいだ六歳の悠真を預けていった日です。

私はキャベツを刻みながら、いつの間にか鼻歌を歌っていました。

若いころによく聞いた歌です。

食卓で塗り絵をしていた悠真が、顔を上げました。

「ばあば、それ、なんの歌?」

「え? ああ、昔の歌よ」

「上手だね。もっと歌って」

私は包丁を持ったまま、固まってしまいました。

上手と言われたのは、何十年ぶりだったでしょう。

「ばあばはね、歌は下手なのよ」

そう言うと、悠真は不思議そうな顔をしました。

「なんで? 上手だったよ」

夕方、迎えに来た朋美にその話をすると、朋美は笑いました。

「お母さん、昔は車の中でよく歌ってたじゃない。私、後ろの席で聞いてたよ」

言われて、思い出しました。

子どもたちを乗せて買い物に行く車の中でだけは、私は歌っていたのです。

誰にも聞かれない場所だと、思っていたのでしょう。

「聞く係なので」

人前で歌わなくなったのは、三十一歳の年の暮れからです。

当時、私は信用金庫の窓口で働いていました。

忘年会の二次会で、カラオケのお店に行きました。

十人ほどの部屋で、順番に歌が回ってきます。

私の番が来て、断りきれずにマイクを持ちました。

好きな歌でした。

ところが、一番の終わりの高いところで、声がひっくり返ったのです。

同時にマイクが、きいん、と鳴りました。

何人かが笑いました。

悪気のない笑いだったと思います。

曲が終わる前に、課長が言いました。

「無理しなくていいよ。次、いこうか」

課長は、助け舟を出してくれたのです。

分かっていました。

それでも、マイクを置く手が震えていました。

「すみません。私、聞く係なので」

そう言って笑ったのを、今でも覚えています。

次の日、窓口の奥で伝票を整理していると、隣の席の先輩が小声で言いました。

「昨日の、気にしなくていいのよ。あの機械、マイクがすぐ鳴るの」

「いえ、私が下手なだけですから」

「そんなことないわよ。途中までは、きれいな声だったじゃない」

先輩はそう言ってくれたのに、私は「途中まで」という言葉だけを持ち帰りました。

その晩、台所で同じ歌を口ずさみかけて、途中でやめました。

それから三十年、私はずっと「聞く係」でした。

子どもの学校の集まりでカラオケに行っても、私はタンバリンを持っていました。

親戚の集まりでは、手拍子をしていました。

誰かが歌い終わると、一番大きな拍手をしました。

歌うのが嫌いになったわけではありません。

聞かれるのが、こわかったのです。

「平日の昼なんて、一人の人ばっかりよ」

悠真に言われた晩、私は布団の中でスマホを開きました。

一人でカラオケに行く人はいるのか。

六十を過ぎた女が一人で行ったら、変な目で見られないか。

検索して出てくるのは、歌いやすい曲の一覧ばかりでした。

知りたいのは、そういうことではありませんでした。

次の週、朝の散歩仲間の幸枝さんに、思い切って聞いてみました。

幸枝さんは私より三つ上で、川沿いの道を毎朝一緒に歩いている人です。

「ねえ、一人でカラオケって、変かしら」

「変じゃないわよ。平日の昼なんて、一人の人ばっかりよ」

幸枝さんは、歩く速さを変えずに言いました。

「うちの義理の妹なんて、週に一回、一人で行ってるわよ。スーパーの帰りに一時間だけって」

「一人で、何を歌うの」

「知らないわよ。聞いたことないもの。誰にも聞かせないのがいいんだって」

誰にも聞かせない。

その言葉が、帰り道ずっと頭に残りました。

家に帰って、夫に言いました。

「来週の水曜、ちょっと駅前まで出かけてくるわね」

何をしに行くのかは、言いませんでした。

夫は「おう」とだけ言いました。

水曜日の、十二時五十分

その水曜日、私は約束もないのに、家を十二時二十分に出ました。

駅前のカラオケのお店は、パン屋さんの二階にあります。

着いたのは、十二時五十分でした。

一時ちょうどに入ろうと、なぜか決めていたのです。

十分のあいだ、私は道の向かいのバス停のベンチに座って、お店の階段を眺めていました。

入っていく人を見たかったのです。

誰が、平日の昼に一人で来るのか。

最初に下りてきたのは、紺色の作業着を着た若い女の人でした。

お昼休みに来ていたのでしょう。

腕時計を見ながら、小走りで駅のほうへ行きました。

次に上がっていったのは、私と同じくらいの年の男の人でした。

手には、スーパーの袋を提げていました。

その次に下りてきた人を見て、私はベンチから少し腰を浮かせました。

白髪を短く切った、私より少し年上に見える女の人でした。

一人でした。

階段の下で、ちょうど出てきた店員さんに、その人は言いました。

「また来週ね。今日は七曲も歌っちゃった」

「お疲れさまです。お気をつけて」

その人は、頬を少し赤くして、自転車に乗って帰っていきました。

幸枝さんの言ったとおりでした。

私はベンチから立ち上がって、横断歩道を渡りました。

時計は、十二時五十八分でした。

七番の部屋で

七番の部屋は、思っていたより狭くて、壁が赤い色をしていました。

画面には、知らない若い歌い手が映っていて、大きな音で何かを話していました。

まず、その音をどうやって小さくするのかが分かりませんでした。

テーブルの上の、曲を探す機械を手に取りました。

画面を指で触ると、見たことのない表示がいくつも出てきます。

五分ほどかけて、ようやく歌手の名前から曲を探せました。

選んだのは、あの日、台所で歌っていた歌です。

前奏が流れ始めると、心臓の音が耳まで上がってきました。

マイクを握ったまま、声が出ませんでした。

画面の歌詞の色が、一行ずつ変わっていきます。

私は一行も歌わずに、それを最後まで眺めていました。

曲が終わって、部屋が静かになりました。

扉の小さな窓の外を、店員さんが通り過ぎていきました。

誰も、私のことなど見ていませんでした。

もう一度、同じ曲を入れました。

今度は、最初の一行だけ、小さな声で歌いました。

二行目も、歌いました。

サビのところで、声がかすれました。

それでも、止めませんでした。

笑う人は、どこにもいなかったからです。

一時間で、七曲歌いました。

五曲目あたりから、のどがひりひりして、咳が出ました。

壁の電話が鳴って、「終了十分前です」と言われたとき、私は少し驚きました。

一時間が、こんなに短いとは思いませんでした。

次の日の、かすれ声

次の日の朝、声がかすれていました。

幸枝さんに「風邪?」と聞かれて、首を振りました。

「行ってきたの。カラオケ」

「あら。どうだった?」

「一曲目は、一行も歌えなかった」

幸枝さんは、声を出して笑いました。

「一行も? お金払って?」

「前奏と歌詞を、ずっと見てたの」

言いながら、私も笑っていました。

笑われるのが、こわくありませんでした。

自分で話したことだからだと思います。

その週の土曜日、また悠真が来ました。

台所で鼻歌を歌おうとしたら、低いところでしか声が出ません。

「ばあば、声、変」

「ちょっとね、歌いすぎたの」

「どこで?」

「内緒」

悠真は、内緒という言葉がうれしかったのか、何度もくり返していました。

二回目に行く前に、私は一つだけ決めました。

三曲ごとに、一度休む。

休むときに、水を飲んで、飴を一つなめる。

一回目は、休まずに歌い続けたから、のどが持たなかったのです。

家にあった飴は、甘すぎて、なめたあとに水が欲しくなるものばかりでした。

それで、スーパーの帰りに、のど飴を選びました。

条件は三つです。

甘さが控えめであること。

原材料の数が少ないこと。

小さな袋で、バッグの内ポケットに入ること。

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手帳に書いた五つの歌

二回目は、十月の最初の水曜日にしました。

前の晩、手帳の最後のページに、歌いたい曲を書き出しました。

若いころに好きだった歌を、思いつくまま書いていくと、五つになりました。

一回目は、機械の前で迷っているうちに時間がたってしまったからです。

五つの一番下に、あの歌を書きました。

三十一歳の忘年会で、一番の終わりで声がひっくり返った歌です。

受付では、前と同じ男の人でした。

「お一人様、一時間ですね。七番どうぞ」

今度は、私が何も言わないうちに、そう言われました。

機種のことも、聞かれませんでした。

手帳を開いて、上から順に入れていきました。

三曲歌って、飴を一つなめて、水を飲みました。

また三曲歌いました。

最後に、あの歌を入れました。

前奏が流れると、やはり手が少し震えました。

一番の終わりの、高いところが近づいてきます。

声が、ひっくり返りました。

三十年前と、同じところでした。

私は、一人で笑いました。

マイクを通した笑い声が、赤い壁の部屋に大きく響きました。

きいん、とは鳴りませんでした。

誰も「次、いこうか」とは言いませんでした。

私は、二番を最後まで歌いました。

駅前の掲示板

帰り道、駅の連絡通路の掲示板の前で、足が止まりました。

歌の教室の、無料体験の案内が貼ってありました。

あの高いところを、ひっくり返らずに歌ってみたい。

そう思ったのは、案内を見てからでした。

家に帰って、一晩考えました。

大勢の前で歌う教室なら、行かないつもりでした。

先生と一対一であること。

平日の昼に通えること。

一回だけ試してみて、それで終わりにしてもいいこと。

この三つがそろっていたので、体験だけ申し込むことにしました。

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体験の日、先生は私より三十歳くらい若い女の人でした。

まず、息の吸い方と、声を出すときの口の形を教わりました。

「高いところで、声がひっくり返るんです。三十年前から、同じところで」

そう言うと、先生は笑わずにうなずきました。

「ひっくり返るところがはっきりしている人は、そこまではちゃんと出ているんですよ」

言われて、あの日の先輩の「途中までは、きれいな声だった」を思い出しました。

同じことを言われているのだと、三十年たって気がつきました。

四十五分のうち、歌ったのは最後の五分だけでした。

帰りぎわ、先生に聞かれました。

「どなたかに、聞かせたい歌なんですか」

私は、すぐには答えられませんでした。

「……いえ、自分で歌いたいだけなんです」

そう答えてから、本当にそうだろうかと思いました。

車の中の歌

その晩、夕飯のあとで、夫に話しました。

水曜日に出かけていたのが、カラオケだったこと。

一回目は、一行も歌えなかったこと。

今日、歌の教室の体験に行ったこと。

夫は、湯のみを持ったまま、黙って聞いていました。

笑われるかと思っていました。

話し終えると、夫は少し間を置いてから言いました。

「昔、車でよく歌ってたよな。子どもらを乗せて」

「あなた、乗ってないじゃない。いつも仕事だったでしょう」

「日曜に、たまに乗ってた。後ろで寝たふりしてた」

私は、夫の顔を見ました。

「俺、あれ、好きだったんだけどな。家じゃ歌わなくなったから、やめたんだと思ってた」

三十年、知りませんでした。

夫が、あの車の後ろの席で、聞いていたことを。

「なんで言わなかったの」

「言ったら、歌わなくなるだろう。お前は」

夫の言うとおりでした。

聞かれていると分かったら、私はきっと、あの車の中でも歌わなくなっていたと思います。

夫は湯のみを置いて、手帳のことを聞きました。

「その、五つ書いたっていうのは、何の歌なんだ」

「内緒」

悠真の口ぐせが、うつっていました。

夫は「そうか」と言って、それ以上は聞きませんでした。

次の土曜日、悠真が来たとき、私は台所でまた鼻歌を歌っていました。

声は、もうかすれていませんでした。

悠真が、塗り絵から顔を上げて言いました。

「ばあば、今度、一緒にカラオケ行こうよ。ママが、ばあば歌うまいって言ってた」

私は、キャベツを刻む手を止めました。

「そうねえ。考えておくわね」

そう答えて、また包丁を動かしました。

手帳の最後のページには、今は十一の歌が並んでいます。

水曜日の午後一時、七番の部屋で、私は今も一人で歌っています。

あの高いところは、まだときどき、ひっくり返ります。

誰にも聞かせないために始めた歌を、いつか誰かの前で、最後まで歌う日は来るのでしょうか。

あなたなら、どうしますか?

誰にも聞かせない、誰にも見られない一時間があるとしたら、あなたは何をしてみたいですか。人前ではやめてしまったことでも、かまいません。

「聞く係」「見ている係」のように、長いあいだ自分で引き受けてきた役割はありますか。その役割を、一時間だけ降りるとしたら、どこへ行きますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 嫌いになったのではなく、こわかった

歌うのが嫌いになったわけではありません。

一度笑われた場面が、三十年のあいだ「私は聞く係」という言葉になって残っていました。

やめたことの中には、好きなままのものが混ざっていることがあります。

2. 一行も歌えなかった一回目

一回目は、前奏と歌詞を眺めて終わりました。

それでも、扉の外で誰も自分を見ていないと分かったことが、二回目につながりました。

最初の一回は、うまくやる日ではなく、様子を見る日でいいのかもしれません。

3. 聞かせたいのか、歌いたいだけなのか

「どなたかに聞かせたい歌ですか」と聞かれて、主人公はすぐに答えられませんでした。

一人で歌うことと、誰かに聞いてほしいことは、どちらか一つに決めなくてもいいのでしょう。

答えが出ないまま、水曜日の一時間は続いています。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(甘さが控えめ・原材料の数が少ない・小さな袋でバッグの内ポケットに入る)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

原材料の少ない、しょうがとはちみつののど飴

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  • 販売ページの記載:原材料は水飴・砂糖・蜂蜜(国内産)・生姜パウダー(高知県産)
  • 販売ページの記載:70g×6袋・原産国は日本
  • 選ぶときは、原材料・一袋の量・袋の大きさを見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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