60代、おしゃれが楽しくない。通勤服を着なくなった62歳の私が、二十年ぶりに袖を通した色
紺のジャケットの肘が、てかてかに光っていました。
クローゼットの右端に、同じような紺と灰色のジャケットが五着、並んでいます。
九月の終わりの衣替えの日、私はその一着をハンガーごと外して、ベッドの上に置きました。
右のポケットに手を入れると、ゼリークリップが二つと、黄色い付箋が一枚出てきました。
付箋には、私の字で「三時 会議室B お茶四つ」と書いてありました。
最後の出勤日から、ちょうど一年がたっていました。
一年、このジャケットには一度も袖を通していません。
着る日がないのです。
今、私が着ているのは、夫のお下がりの灰色のフリースと、膝の出たズボンです。
近所のスーパーと、郵便局と、ドラッグストア。
行く場所は、その三つでほとんど足ります。
私は六十二歳です。
紺と灰色の三十六年
建設会社の総務に、三十六年勤めました。
来客の受付をして、お茶を出して、会議室の予約を取って、社員の備品を注文する。
入社したとき、最初の上司に言われました。
「総務はね、目立たないのが仕事だから」
意地悪な人ではありませんでした。
お客さまの前に出る仕事だから、落ち着いた色にしておきなさい、という意味だったと思います。
私はその言葉を、三十六年守りました。
ジャケットは紺か灰色、中は白か水色のブラウス。
靴は黒で、かかとの低いもの。
毎朝、何を着るかで迷ったことは、ほとんどありません。
迷わなくていいのは、楽でした。
退職して最初の春、よそ行きの服を何着か、クローゼットの左側に移しました。
これからは、好きな服を着て出かけるのだと思っていたのです。
でも、出かける先が、ありませんでした。
よそ行きを着るような用事は、一年のうちに、姪の子の入学祝いの食事会と、夫の同窓会の付き添いの、二回だけでした。
気がつくと、毎日、フリースとズボンで過ごしていました。
玄関の姿見には、夫の散歩用のウインドブレーカーが、いつの間にか掛けられていました。
私はそれを、どけようとも思いませんでした。
鏡を見なくなって、どれくらいたったのかも、分かりません。
クローゼットの奥の、珊瑚色
衣替えの続きで、クローゼットの奥の、透明な衣装ケースを引き出しました。
一番下に、薄い紙に包んだ服が一枚入っていました。
開くと、珊瑚色のブラウスでした。
赤でも、ピンクでも、だいだいでもない、その間の色です。
二十年前、四十二歳の誕生日に、夫がくれたものでした。
夫が、自分で服を選んで買ってきたのは、後にも先にもその一度だけです。
「店の人に、これがいいって言われたから」
夫は照れくさそうに、それだけ言いました。
私はうれしくて、次の週の金曜日、そのブラウスを着て会社に行きました。
紺のジャケットの下に、珊瑚色がのぞいていました。
袖を通したのは、その一日だけです。
「今日はどうしたの」
その金曜日の朝、更衣室でジャケットを脱いだところで、同じ課の若い子に言われました。
「わあ、派手ですね。珍しい」
悪気のない、明るい声でした。
私は笑って、「誕生日だったの」とだけ言いました。
九時に、来客のお茶を持って会議室に入ると、課長が顔を上げました。
「おっ、今日はどうしたの。何かいいことあった?」
お客さまの前でした。
お客さまも、つられて私のほうを見ました。
「いえ、何も」
私は、お盆を持ったまま、頭を下げて部屋を出ました。
その足で更衣室に戻り、ロッカーから、置きっぱなしにしていた灰色のカーディガンを出しました。
ブラウスの上に羽織って、一番上までボタンを留めました。
珊瑚色は、襟のところに少しのぞくだけになりました。
「寒いの?」
隣の席の先輩に聞かれて、私は「冷房が、ちょっと」と答えました。
十月の、冷房の入っていない日でした。
その日は一日、カーディガンのボタンを外しませんでした。
家に帰ると、夫が聞きました。
「あれ、着ていったのか」
「うん。でも、やっぱり、私には派手だったわ」
夫は、少し黙ってから、「そうか」とだけ言いました。
私はブラウスを洗って、アイロンをかけて、薄い紙に包んで、衣装ケースの一番下にしまいました。
それから二十年、一度も出していません。
「あなた、その色ばっかり着てたじゃない」
十月のはじめ、高校の同級生の真知子が、お茶を飲みに来ました。
年に二、三度、どちらかの家で会う仲です。
居間に通すと、真知子は、椅子の背に掛けたままの珊瑚色のブラウスに目を止めました。
衣替えのあと、しまうかどうか決められずに、そこに掛けておいたのです。
「まだあったの、それ」
「え?」
「いや、それじゃなくて。その色」
真知子は、ブラウスの袖をつまみました。
「あなた、高校のとき、こういう色のカーディガン、毎日着てたじゃない。制服の上に」
言われて、思い出しました。
母が編んでくれた、珊瑚色に近いカーディガンです。
三年間、冬になると毎日それを着ていました。
「忘れてた」
「忘れるもんなの」
真知子は笑って、お茶をすすりました。
「着ればいいのに。どこか、行くところないの」
「ないのよ。着ていく場所が」
私がそう言うと、真知子は少し考えてから言いました。
「私なんか、誰にも会わない日のほうが、好きな服を着てるわよ」
「どうして」
「人に会う日は、無難なのにしちゃうの。何か言われたら面倒でしょ。誰にも会わない日は、誰にも何も言われないもの」
真知子は、自分のセーターの袖を引っぱって見せました。
鮮やかな、からし色でした。
「これ、今日はあなたに会うから、ぎりぎりのほう」
二人で、声を出して笑いました。
誰にも会わない日の服
真知子が帰ったあと、私は、あのブラウスを着てみました。
二十年前と、肩のあたりが少し窮屈でした。
でも、着られないほどではありません。
問題は、上に羽織るものでした。
クローゼットにあるのは、灰色と紺のカーディガンだけです。
羽織ると、二十年前の金曜日と同じ姿になりました。
私は、灰色のカーディガンを脱いで、ハンガーに戻しました。
一枚だけ、買ってみることにしました。
誰にも会わない日に、あのブラウスの上に着るものです。
次の週、駅の近くの服の売り場に行きました。
六十代の服と書かれた棚には、紺と、ベージュと、灰色が並んでいました。
私はその棚の前を通り過ぎて、ほかの売り場も見て回りました。
手に取っては、戻しました。
ある売り場で、私と同じくらいの年の店員さんに声をかけられました。
「何か、お探しですか」
「上に羽織るものを。この色のブラウスの上に着たいんです」
私は、スマホで撮ってきたブラウスの写真を見せました。
「きれいな色ですね。これを隠したいですか、それとも見せたいですか」
そんなふうに聞かれたのは、はじめてでした。
「……見せたいです。たぶん」
「たぶん」と付け足した自分に、少し笑ってしまいました。
店員さんは、「それなら、前を開けて着るものがいいですね」と言って、棚の場所を教えてくれました。
迷っているうちに、条件がはっきりしてきました。
一つ目は、手に持ったときに軽いこと。
肩に重さがかかると、結局、フリースに戻ってしまいそうでした。
二つ目は、家で洗えること。
特別な服にしてしまうと、また紙に包んでしまいそうだったからです。
三つ目は、前を開けたまま着ても、形がくずれないこと。
ボタンを一番上まで留めなくても、きちんと見えるものがよかったのです。
色は、生成りにしました。
珊瑚色を、隠さない色です。
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姿見の前で
最初に着たのは、次の火曜日でした。
夫はゴルフの練習に出かけていて、夕方まで帰りません。
誰にも会う予定のない日です。
朝、ブラウスを着て、その上に生成りのカーディガンを羽織りました。
玄関の姿見に掛かっていた夫のウインドブレーカーを、フックに移しました。
鏡に、一年ぶりに、頭から足までの自分が映りました。
最初に目がいったのは、白くなった髪の根元でした。
次に、珊瑚色でした。
思っていたより、顔のそばで明るい色でした。
私は、無意識に、カーディガンのボタンを上から留めていました。
三つ目まで留めたところで、手が止まりました。
二十年前の金曜日の、更衣室と同じ手つきでした。
私は、ボタンを一つずつ外しました。
前を開けたまま、もう一度鏡を見ました。
誰に見せるわけでもないのに、胸の奥が少しどきどきしていました。
その日は、川沿いの道を三十分歩いて、図書館まで行きました。
図書館では、誰も私の服を見ていませんでした。
帰り道、パン屋さんのガラスに映った自分を、一度だけ見ました。
それで、十分でした。
「それ、あの時の服か」
夕方、夫が帰ってきました。
私は、着替えるのを忘れていました。
台所で湯を沸かしていると、夫が玄関から入ってきて、立ち止まりました。
「それ、あの時の服か」
「……覚えてたの」
「覚えてるよ。一回しか着なかったやつだろう」
夫は、上着をフックに掛けながら言いました。
「似合わないのを買ったんだと思ってた。俺が選んだから」
私は、やかんの火を止めました。
「違うの。会社で、派手ねって言われたの。課長に、お客さまの前で、今日はどうしたのって」
夫は、少し驚いた顔をしました。
「なんだ。そうだったのか」
「言えなかったのよ。せっかく買ってくれたのに、会社で笑われたなんて」
夫は、しばらく私のブラウスを見ていました。
それから、ぽつりと言いました。
「あの色な。店で見たとき、お前の高校の写真と同じ色だと思ったんだ」
「写真?」
「アルバムの。制服の上に、そういう色のを着てたろう。結婚する前に、見せてもらった」
私は、何も言えませんでした。
真知子が覚えていた色を、夫も覚えていたのです。
店の人に言われたから、というのは、照れ隠しだったのでしょう。
二十年、私はそれを知らずに、紙に包んでしまっていました。
「二十年、しまいっぱなしか」
夫は、少し笑いました。
「もったいないことしたな。お互いに」
二枚目は、急がない
次の日、真知子から電話がかかってきました。
「で、着たの?」
前置きもなく、それだけ聞かれました。
「着たわよ。図書館まで歩いた」
「誰かに会った?」
「誰にも。夫にだけ、見つかった」
私が、ブラウスを買ったのが夫だったこと、二十年前の金曜日のこと、夫が高校の写真を覚えていたことを話すと、電話の向こうで真知子は長いこと黙っていました。
「……あなたのところの旦那さん、そういうこと言う人だったのね」
「私も、知らなかったのよ」
「今度うちに来るとき、それ着てきてよ。私も、からし色の、ぎりぎりじゃないほう着ていくから」
「会う日は、無難なのにするんじゃなかったの」
「あなたに会う日は、別」
真知子は、そう言って笑いました。
それから、火曜日と金曜日は、あのブラウスかカーディガンを着るようになりました。
誰にも会わない日の服、のつもりでした。
とはいえ、毎日ではありません。
雨の日や、何となく気が乗らない朝は、今もフリースとズボンです。
鏡を見るのが面倒な日も、まだあります。
おしゃれが楽しい、と胸を張って言えるほどではないのです。
十一月に入って、二枚目のことを考えるようになりました。
ブラウスは一枚しかないので、同じような色のシャツがもう一枚あれば、と思ったのです。
売り場を歩くと、また紺と灰色の棚の前で足が止まりそうでした。
それで、夜、家でゆっくり選べる方法を探しました。
条件は、前と同じように三つにしました。
素材と、どこで作られたかが、ちゃんと書いてあること。
家で洗えること。
試着ができないぶん、サイズの測り方が詳しく書いてあること。
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画面の中の色を見比べているうちに、夜が更けました。
結局、その晩は何も買いませんでした。
二枚目は、急がないことにしたのです。
一枚目を、もう少し着てからでいい。
そう思えたのは、選ぶのが、少し楽しくなっていたからかもしれません。
スーパーの、レジの列
十一月の終わりの金曜日の夕方、私は、あのブラウスとカーディガンのまま、スーパーに行きました。
着替えるのが面倒だった、というのが本当のところです。
レジの列に並んでいると、後ろから声をかけられました。
「あら、こんにちは」
同じ町内の三宅さんでした。
子どもたちが同じ小学校だったころからの顔見知りで、会えばあいさつをするくらいの人です。
三宅さんは、私のかごの中の大根を見て、それから私の顔を見ました。
一年、フリース姿しか見せていなかった人です。
私は、とっさにカーディガンの前を合わせようとしました。
指が、ボタンの上で止まりました。
「その色、いいわね」
三宅さんは、あっさりとそう言いました。
「前から、そういうの着てた?」
私は、前を開けたまま、答えました。
「ううん。二十年ぶりなの。今日は、会わない日のつもりだったんだけど」
あなたなら、どうしますか?
クローゼットの奥に、一度しか着なかった服はありますか。それを着なくなったのは、似合わなかったからでしょうか。それとも、誰かのひと言を覚えているからでしょうか。
「誰にも会わない日」に、一枚だけ好きな服を着るとしたら、あなたは何色を選びますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 楽しくないのは、服ではなく「着ていく場所」
主人公は、服が嫌いになったわけではありませんでした。
三十六年、迷わずに着られる通勤服があり、退職したら、よそ行きを着る用事がなくなった。
「おしゃれが楽しくない」の中には、「着ていく場所がない」が混ざっていることがあります。
2. 誰にも会わない日から始める
友人の「人に会う日は、無難なのにしちゃう」という言葉で、主人公は順番を逆にしました。
誰にも何も言われない日なら、ボタンを外したまま歩けます。
人に見せる前に、まず自分が見慣れる日があってもいいのかもしれません。
3. ひと言で、二十年しまうこともある
「派手ですね」「今日はどうしたの」は、どちらも悪気のない言葉でした。
それでも、ブラウスは二十年、紙に包まれたままでした。
贈った夫の側にも、二十年の思い違いがありました。しまった理由を口にしてみると、思っていたのと違う話が返ってくることがあります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(手に持ったときに軽い・家で洗える・前を開けたまま着ても形がくずれない)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
前を開けて着られる、軽いカーディガン
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- 販売ページの記載:素材はポリエステル100%・Vネックの前開き・長袖
- 販売ページの記載:手洗いのみ(洗濯機は不可)
- 選ぶときは、素材・洗い方の表示・丈と袖の長さを見ると選びやすくなります。サイズ感は販売ページのサイズ表でご確認ください。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。