仕事を終えたあと
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仕事を辞めて専業主婦になったのに、家事で毎日疲れる60歳。台所のメモに「〆切」を書いていた私が、タイマーを二時間に合わせた朝

平日の昼間、窓際の席でひとりお茶を飲む女性
kuroko

食器棚の扉に、メモ用紙が一枚、マスキングテープで貼ってあります。

いちばん上に、日付と曜日。

その下に、四角い枠が縦に七つ並んでいます。

洗濯(〆八時半)。

浴室の目地(〆十時)。

北側の窓とサッシ(〆十一時半)。

冷蔵庫の中を拭く(〆十三時)。

玄関のたたき(〆十四時)。

夕食の下ごしらえ(〆十六時)。

アイロン、夫のシャツ三枚(〆十八時)。

終わったものの枠には、赤いインクで小さな判が押してあります。

「済」という字の、ゴム印です。

六月のその日、七つの枠のうち六つに、赤い「済」が並んでいました。

残っていたのは、アイロンの一つだけでした。

夜の九時、私はそれを見ながら、食卓の椅子から立ち上がれずにいました。

仕事の日より、疲れている

六十歳です。

食品工場の総務課に、三十六年勤めました。

今年の三月末に、定年で退職しました。

再雇用の話もありましたが、断りました。

家のことを、一度ちゃんとやってみたかったのです。

共働きのあいだ、家の中はいつも「とりあえず」で回っていました。

窓は年末にしか拭けませんでしたし、換気扇の油汚れは見ないふりをしていました。

辞めたら、全部きれいにしよう。

そう思っていました。

四月は、楽しかったのです。

十年ぶんの汚れが、一日ごとに落ちていくのですから。

五月になっても、私はやめませんでした。

一度きれいにした場所は、きれいなままにしておきたくなったのです。

六月には、家の中に、拭いていない場所はほとんどなくなっていました。

それなのに、夕方になると、仕事の日より体が重いのです。

夫の洋一は六十三歳で、市役所を定年になったあと、同じ役所の窓口で週に四日働いています。

その夜、帰ってきた夫は、アイロン台の前でぼんやりしている私を見て言いました。

「そんなの、明日でいいだろう。休めば」

「休むって、どうやって」

自分でも驚くような声が出ました。

夫は少し困った顔をして、「座ってればいいんじゃないか」と言いました。

私は座っていました。

座ったまま、頭の中で、明日の枠を七つ数えていたのです。

総務の朝

会社にいたころ、私の一日は、朝の八時十五分に始まりました。

事務所の入口に、大きな予定表がありました。

その日にやることを、上から順に書いていくのが、私の最初の仕事でした。

備品の発注、〆十時。

来客の会議室、〆十三時。

社内報の原稿集め、〆十五時。

終わったものには、「済」の判を押しました。

総務は何でも屋だ、とよく言われました。

蛍光灯が切れても、トイレの紙がなくなっても、社長の名刺が足りなくても、電話は総務に来ます。

誰にも気づかれずに全部が回っているのが、いちばんいい日でした。

最後の出勤日、課の人たちが、小さな包みをくれました。

開けてみると、使い込んだ「済」のゴム印が入っていました。

私が三十六年、毎朝押していたものです。

「これがないと、落ち着かないでしょう」

後輩の早川さんがそう言って、みんなが笑いました。

私も笑いました。

家に持って帰ったその判を、食器棚のメモに押すようになったのは、四月の最初の週からです。

冗談のつもりでした。

最初のうちは。

冷蔵庫の上の、指の跡

夜、ひとりで台所を拭いていると、ときどき思い出す場面があります。

三十年前の、お正月の少し前のことです。

娘の智子が一歳になったばかりで、私は育児休業から職場に戻ったところでした。

夫の母が、泊まりがけで手伝いに来てくれていました。

台所で並んでお茶をいれていたとき、義母がふと、冷蔵庫の上に手を伸ばしました。

指先を見て、義母は小さく言いました。

「あら。ここ、見えないものねえ」

それから、自分のハンカチで、冷蔵庫の上を一度だけ拭きました。

責めるような言い方ではありませんでした。

でも私は、顔がかっと熱くなりました。

その夜、夫に言いました。

「お義母さんに、冷蔵庫の上を拭かれたの」

「母さんは、昔からそういう人なんだよ。気にするな」

夫は、なだめるつもりで言ったのだと思います。

でも私は、気にするな、と言われたことが悲しくて、洗面所で少し泣きました。

それから三十年、私は冷蔵庫の上を、誰かが来る前に必ず拭くようになりました。

義母は、七年前に亡くなりました。

それでも、踏み台に乗って冷蔵庫の上を拭くたびに、あの指先を思い出すのです。

「予定表と、同じ書き方ですね」

六月の終わりの土曜日、早川さんが家に遊びに来ました。

会社の近くのお菓子屋さんの箱を、手に提げていました。

「どうしてるかなと思って。お休みの日に、すみません」

早川さんは四十五歳で、私のあとの総務を引き継いでくれた人です。

台所でお茶の用意をしていると、早川さんが食器棚のメモに気づきました。

しばらく、じっと見ていました。

「これ、朝の予定表と、同じ書き方ですね」

「え?」

「〆の字の書き方も、枠の大きさも。済の判まで」

早川さんは、声を出して笑いました。

「私、今でも毎朝あの予定表を書いてるんですけど、つい同じ形にしちゃうんです。でも、まさかご自宅でも書いてらっしゃるとは」

私も笑おうとしましたが、うまく笑えませんでした。

言われるまで、気づいていなかったのです。

早川さんは、お茶を一口飲んでから、少し声を落としました。

「実は私、辞めたあと、いちばん心配してたんです」

「何を?」

「お家でも〆切を作っちゃうんじゃないかなって。会社でも、昼休みに電話が鳴ると、お弁当の途中でも出てたじゃないですか」

私は、何も言えませんでした。

「でも、家の〆切って、誰が見に来るんですか」

早川さんは、責めるのではなく、本当に不思議そうに聞いたのでした。

その夜、私はメモの前に立って、七つの枠を見ていました。

会社の予定表には、見る人がいました。

課長がいて、同僚がいて、終わったものに「済」が並ぶと、誰かが「助かった」と言ってくれました。

家のメモを見る人は、いません。

夫は、食器棚の扉を開けたこともありません。

それなのに私は、誰かに見せるための表を、毎朝書いていたのです。

見せる相手がいるとしたら、それは冷蔵庫の上に手を伸ばした、三十年前の義母だったのかもしれません。

九時から十一時まで

次の月曜日から、決まりを一つだけ作りました。

家事は、午前の九時から十一時までの二時間だけにする。

終わらなかったものは、翌日に回す。

午後は、仕事にしないことだけをする。

言葉にすると簡単でした。

でも、最初の日、十一時になっても手が止まりませんでした。

時計を見ていなかったのです。

気がつくと、十二時半でした。

会社では、壁の時計を一日に何十回も見ていたのに、家ではまったく見ていないのでした。

それで、キッチンタイマーを使うことにしました。

家にあった古いものは、鳴ると台所じゅうに響く、甲高い音でした。

その音を聞くと、会社の終業のチャイムを思い出して、急がなくてはいけない気持ちになるのです。

欲しかったのは、「そこまで」を知らせてくれる音で、「急げ」と言う音ではありませんでした。

条件は四つにしました。

音が小さいか、音の大きさを選べること。

冷蔵庫の扉に、磁石で貼っておけること。

二時間を一度で合わせられて、数字が遠くからでも読めること。

ボタンが少なくて、迷わずに押せること。

食器棚のメモの横、目の高さのところに貼れるものにしたかったのです。

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最初の朝、九時ちょうどに、百二十分に合わせてボタンを押しました。

洗濯機を回して、浴室を洗って、掃除機をかけているうちに、小さな電子音が鳴りました。

ピピッ、ピピッ。

冷蔵庫の前に戻ると、表示がゼロになっていました。

北側の窓は、半分しか拭けていませんでした。

私は、ぞうきんを持ったまま、しばらくその窓を見ていました。

残り半分を拭くのに、たぶん十五分もかかりません。

でも、そこで拭いてしまったら、何も変わらないのです。

私は、ぞうきんを洗って、ベランダの物干しに掛けました。

仕事にしないこと

困ったのは、午後のほうでした。

何をすればいいのか、分からなかったのです。

二日目の朝、私は気がつくと、メモの下のほうにこう書いていました。

読書(十三時〜十四時)。

散歩(十四時半〜十五時半、六千歩)。

書いてから、しばらくペンを持ったまま動けませんでした。

楽しみのはずのことに、〆切と歩数をつけていたのです。

私はその二行に線を引きました。

午後のことは、メモに書かない。

数えない。

それを、決まりの二つ目にしました。

その日の午後は、図書館で借りてきた時代小説を、居間の窓際で読みました。

二十ページほどで、うとうとしてしまいました。

目が覚めると、三時を過ぎていました。

昼寝をしたのは、何年ぶりだったでしょう。

起きたとたんに、罪悪感がやってきました。

窓の半分が、まだ拭けていないのです。

私は立ち上がりかけて、冷蔵庫のタイマーを見ました。

ゼロのままでした。

今日の二時間は、もう終わっている。

そう自分に言い聞かせて、もう一度座りました。

夕方、家の裏の用水路沿いを歩きました。

歩数は数えませんでした。

白いさぎが一羽、浅い水の中に立っていました。

私が歩いているあいだ、さぎはずっと同じ場所で、何もしていませんでした。

「うちの窓、拭いてたでしょう」

七月の半ば、札幌に住む娘の智子から電話がありました。

「お母さん、お盆はこっちに来るんでしょう。何日にする?」

「そうねえ。十三日からかな」

少し間があって、智子が言いました。

「あのね、去年来たとき、うちの窓、拭いてたでしょう」

「ああ、あれ。気になっちゃって」

「ありがとうとは思ったんだけど」

智子は、言葉を選ぶように、ゆっくり言いました。

「なんか、ちょっと苦しかったの。私、ちゃんとしてないって言われてる気がして」

私は、受話器を持ったまま、台所の冷蔵庫の上を見上げていました。

三十年前、あの指先を見た私と、同じことを言われていたのです。

「ごめんね。そんなつもりじゃなかったの」

「分かってる。お母さんが、そういう人じゃないのは」

智子は、少し笑って言いました。

「だから今年は、うちでは何もしないで。窓も台所も。ソファで寝ててくれたらいいから」

電話を切ってから、私はタイマーを手に取りました。

表示は、ゼロのままでした。

冷蔵庫の上を、拭かなかった日

お盆に札幌から戻った週、夫と夕食を食べていたときのことです。

智子の家で、ソファで二回も昼寝をしたと話すと、夫が笑いました。

「お前が昼寝か。母さんが聞いたら驚くな」

「お義母さんに、冷蔵庫の上を拭かれたことがあったでしょう」

言ってから、自分でも驚きました。

三十年、口にしなかったことでした。

夫は、箸を置いて、しばらく考えていました。

「……ああ、あったな。お前、泣いてたな」

「覚えてたの」

「覚えてるよ。あのあと、母さんに言ったんだ。あいつは働きながらやってるんだから、って」

私は、夫の顔を見ました。

「母さん、帰りの電車で言ってたよ。私は働いたことがないから、あの子のほうがずっと大変だ、って。拭いたのは、自分の家の癖が出ただけだってさ」

「どうして、そのとき言ってくれなかったの」

「気にするな、って言っただろう」

夫は、少し困った顔で笑いました。

「あれで、伝わったと思ってたんだ」

私は、何か言い返そうとして、やめました。

三十年、伝わっていなかったのです。

でも、夫は三十年前から、ちゃんと言ってくれていたのでした。

その週、九時から十一時の二時間のあいだに、冷蔵庫の上を拭く時間はありませんでした。

踏み台は、洗面所の隅に立てかけたままです。

「済」の判

十月のはじめの土曜日、夫が役所の仕事の休みで、朝から家にいました。

九時にタイマーを押すと、夫がそれを見ていました。

十一時、ピピッ、ピピッと小さな音が鳴りました。

私が掃除機を片付けていると、夫が食器棚の前に立っていました。

手に、あの「済」のゴム印を持っていました。

夫は、メモのいちばん上の行に、赤い判を一つ押しました。

「はい、今日の分はおしまい」

それから、やかんに水を入れながら言いました。

「午後のお茶、淹れようか」

三十年以上、夫がお茶をいれてくれたことは、数えるほどしかありません。

お湯の沸くあいだ、夫は湯のみを二つ出して、どちらを使うかで少し迷っていました。

残った四行には、判は押されていません。

換気扇も、北側の窓も、そのままです。

気にならなくなったわけではありません。

今でも、午後にふと、拭きかけの窓が目に入って、立ち上がりかけることがあります。

そういう日は、冷蔵庫のタイマーを見るようにしています。

ゼロのままの表示を見て、座り直します。

メモは今も、毎朝書いています。

ただ、〆の字は、もう書いていません。

あなたなら、どうしますか?

毎日の家事の中で、誰にも見られていないのに、きちんとしておかないと落ち着かない場所はありますか。その「きちんと」は、誰の目を思い浮かべて続けているものでしょうか。

一日のうちで、家事を「ここまで」と区切る時刻を決めるとしたら、あなたは何時にしますか。区切ったあとの時間に、何もしない自分を許せそうですか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 仕事の段取りは、家の中にもついてくる

長く働いた人ほど、〆切を決め、順番に片付け、終わったら印をつける、というやり方が体にしみこんでいます。

それ自体は、悪いことではありません。

ただ、家の中には「もう十分です」と言ってくれる上司や同僚がいないので、終わりがなくなりやすいのです。

2. 区切るのは、気持ちではなく時刻

「疲れたら休もう」と決めても、疲れに気づいたときにはもう夕方です。

主人公は、休む気持ちより先に、終わる時刻を外から知らせてもらうことにしました。

残った仕事は、次の日に回すと先に決めておくことが大事でした。

3. その「きちんと」は、誰に見せるためのものか

主人公がきちんとしようとしていた相手は、三十年前の義母の指先でした。

その人がもういなくても、思い出の中の目は残ることがあります。

誰の目なのかが分かると、少しだけ手を止められることがあります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(音が小さいか音の大きさを選べる・冷蔵庫に磁石で貼れる・二時間を一度で合わせられて数字が読みやすい・ボタンが少ない)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

音の小さい、冷蔵庫に貼れるキッチンタイマー

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  • 販売ページの記載:アラームの音は「音無し・小・中・大」の4段階・最大99時間59分59秒まで
  • 販売ページの記載:背面に磁石・折りたたみの台付き・2.6インチの大きな表示・日本語表記
  • 選ぶときは、音の大きさを選べるか・磁石が付いているか・一度に合わせられる時間・数字の見やすさを見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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