退職後、元同僚に連絡していいのか分からない61歳。昼休みの話し相手だった後輩に、私が日にちを二つだけ書いて送るまで
スマホの連絡先を、上から順に指でなぞっていきます。
名前のうしろに「(会社)」とついているのが、二十三件あります。
入社したときから、仕事で番号を交換した人には、そう付けて登録してきました。
三十五年分の「(会社)」です。
その中のひとつ、「順子さん(会社)」のところで、指が止まります。
名前を押せば、電話の画面になります。
横の吹き出しの印を押せば、メッセージが打てます。
私はどちらも押さずに、画面を閉じます。
退職して半年、この動きを何十回くり返したか分かりません。
六十一歳です。
食品の卸の会社の営業所で、三十五年、経理の事務をしてきました。
今年の三月の終わりに、退職しました。
封筒に貼ってあった付箋
順子さんは、私の八つ下の後輩です。
十二年、隣の机で仕事をしてきました。
昼休みは、毎日、給湯室の横の小さな机で、二人でお弁当を食べていました。
話すのは、たいてい、どうでもいいことでした。
ゆうべの夕飯の献立。
駅前にできたパン屋の行列。
順子さんの家の猫が、また網戸を破ったこと。
四十五分の昼休みが、一日のうちで一番よく笑う時間でした。
三月の最後の日、送別の花束をもらったあとで、順子さんが給湯室の前で言いました。
「先輩、また連絡しますね」
「ええ、また」
私はそう答えて、花束を抱え直しました。
「また」がいつなのかを、二人とも決めませんでした。
職場で交わす「また」は、たいてい、そのまま終わります。
三十五年、何人もの人を見送ってきて、それはよく知っていました。
四月の終わり、会社から封筒が届きました。
退職した人に送る、税金の書類です。
去年までは、私が退職者に送る側でした。
封を開けると、書類の端に、黄色い付箋が一枚貼ってありました。
順子さんの、少し右上がりの字でした。
「お昼の話し相手がいなくて、つまらないです。順子」
私はその付箋を、台所で立ったまま、何度も読みました。
書類から剥がして、手帳の裏表紙の内側に貼りました。
それから五か月、私はその付箋に返事をしていません。
月末の、受付で
連絡できない理由は、自分でよく分かっていました。
十年前のことです。
私より先に退職した、岸本さんという先輩がいました。
経理のことを一から教えてくれた人です。
岸本さんは、辞めたあとも、ときどき営業所に顔を出しました。
「近くまで来たから」と言って、受付からひょいと顔をのぞかせるのです。
来るたびに、手土産を持ってきてくれました。
ある月末の午後、私は締めの数字が合わなくて、机にかじりついていました。
受付のほうから、聞き慣れた声がしました。
「元気? 近くまで来たのよ」
私は、電卓から目を上げずに答えました。
「すみません、岸本さん。今ちょっと、締めで」
「あら、ごめんなさいね。じゃあ、これ、みなさんで」
岸本さんは、受付の台に紙袋を置いて、帰っていきました。
私は、顔を上げて見送ることもしませんでした。
岸本さんが帰ったあと、隣の席の誰かが小さく言いました。
「辞めたのに、よく来るよね」
私は、何も言いませんでした。
言い返さなかったのは、私も少し、同じことを思っていたからです。
岸本さんが営業所に来たのは、その日が最後でした。
あの人が何を思って来なくなったのか、私は知りません。
ただ、自分が辞める側になって、ようやく分かりました。
あのとき電卓から目を上げなかった私が、今度は向こう側にいるのです。
順子さんに連絡すれば、順子さんは月末の机で、私の名前を見ることになる。
そう思うと、指が止まりました。
「返事が来なけりゃ、それだけだ」
九月のはじめの夜、夕飯のあとで、夫に付箋の話をしました。
夫は六十五歳で、工務店の大工を四十年やってきた人です。
今も、知り合いに頼まれて、ときどき網戸や棚の直しに出かけます。
「連絡すりゃいいだろう」
夫は、湯のみのお茶を飲みながら言いました。
「そんな簡単な話じゃないのよ。向こうは働いてるんだから。忙しいのに迷惑でしょう」
「迷惑なら、返事が来ないだけだ」
「それが嫌なのよ」
言ってから、自分でも驚きました。
迷惑をかけたくないのではなく、返事が来ないのが怖いだけだったのです。
夫は、しばらく黙っていました。
それから、少し笑って言いました。
「俺なんか、親方のところに年に二回は顔を出してるぞ。向こうは八十過ぎて、半分は俺の名前を忘れてる」
「それで、行くの?」
「行く。忘れてても、お茶は出してくれる」
夫はそう言って、湯のみを台所に下げに立ちました。
背中を見ながら、私は岸本さんのことを考えていました。
岸本さんも、もしかしたら、忘れられていてもいいから顔を見に来ていたのかもしれない。
私はあの人に、お茶の一杯も出さなかったのです。
日にちを、二つ
その夜、私は台所のテーブルでスマホを開きました。
「順子さん(会社)」を押して、メッセージの画面を出しました。
何を送ればいいのかが、分かりませんでした。
「お元気ですか。会社のほうは変わりありませんか」
打ってから、消しました。
会社のことを聞けば、順子さんは仕事の話で返事をしなければなりません。
「新しい会計の仕組み、慣れましたか」
これも消しました。
十二年、私が順子さんと話してきたのは、ほとんど仕事の話だったのだと、そのとき気づきました。
昼休みの四十五分を除いては。
それで、昼休みのことだけを書くことにしました。
私が考えたのは、順子さんが返事をするのに迷わないことでした。
「いつか、ご飯でも」と書けば、いつにするかを決めるのは、忙しい順子さんのほうになります。
だから、日にちを二つだけ、先に書くことにしました。
月末と月初めは避けて、十月の七日と十日。
どちらも、営業所から歩いて五分のお蕎麦屋さんで、十二時十五分から。
それなら、順子さんは昼休みのうちに食べて、机に戻れます。
三十五年、同じ営業所で昼休みを過ごしてきたので、それだけは分かっていました。
「ご無沙汰しています。付箋、ずっと手帳に貼っています。一度だけ、お昼を食べませんか。十月七日か十日、いつものお蕎麦屋さんで十二時十五分から。どちらも都合が悪ければ、気にしないでください」
送信を押したのは、夜の十時過ぎでした。
画面を伏せて、お風呂に入りました。
上がってきてスマホを見ると、もう返事が来ていました。
「十日にしましょう! 待ってました。付箋、見てくれてたんですね」
私は、タオルを首にかけたまま、台所の椅子に座り込みました。
居間から、夫が顔を出しました。
「どうした。来なかったか」
「来た。十日だって」
「なんだ、早いじゃないか」
「待ってました、って」
夫は「ほらな」とだけ言って、居間に引っ込みました。
私はもう一度、画面の「待ってました」の六文字を読みました。
五か月、付箋を手帳に貼ったまま待たせていたのは、私のほうでした。
引き出しのおかき
何か持っていこう、と決めたのは次の日です。
最初は、デパートの焼き菓子を考えました。
でも、すぐに思い直しました。
順子さんは、甘いものより、しょっぱいものが好きな人です。
机の二段目の引き出しには、いつも小袋のおかきが入っていました。
三時になると、それを一つだけ出して、私の机にも一つ置いてくれたのです。
それに、私が会うのは順子さん一人でも、順子さんはお昼のあと、あの営業所に戻ります。
経理の島には、今は五人いるはずです。
一人だけに渡すと、順子さんは机の上で困るかもしれない。
みんなに一つずつ配れる数があって、一つずつ袋に分かれているもの。
配りきれなかった分を引き出しにしまっておけるように、日持ちのするもの。
それから、電車で持っていくので、かさばらず、重くないもの。
そう決めて探していたとき、ふと、十年前の月末を思い出しました。
岸本さんが受付に置いていった紙袋の中身も、小袋のおかきでした。
一つずつ分かれていて、数も多くて、あれは結局、営業所の全員の机に一つずつ配られたのです。
私も、あの日の夕方、一つ食べました。
締めの数字がようやく合ったあとでした。
岸本さんは、忙しい月末の机の上で、一人ずつがつまめるものを選んでいたのだと、十年たって気がつきました。
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十二時十五分
十月十日は、よく晴れた金曜日でした。
出がけに、夫が玄関まで来ました。
「その順子さんって人の家の網戸、猫が破るんだろう」
付箋の話をした夜に、私が猫のことも話したのを、覚えていたようです。
「そうよ。毎年、夏に」
「困ってるなら、直しに行ってやるって言っとけ。材料代だけでいい」
「会ったばかりで、そんなこと言えないわよ」
「言うだけ言っとけ」
夫はそう言って、居間に戻っていきました。
半年ぶりに、朝の通勤の電車に乗りました。
ただ、乗ったのは十一時過ぎで、車内はがらがらでした。
お蕎麦屋さんの暖簾をくぐると、奥の席で順子さんが手を振っていました。
「先に来ちゃいました。今日、課長に言って、十五分早く出てきたんです」
「そんな、悪いわよ」
「いいんです。先輩のお昼ですから」
順子さんは、少しやせたように見えました。
二人で、いつもの天ざるを頼みました。
最初の十分は、やっぱり仕事の話でした。
新しい会計の仕組みのこと、課長が眼鏡を替えたこと、今年入った若い子のこと。
私も、つい「その入力、先に部署の番号を入れると早いのよ」などと口をはさんでいました。
途中で、はっとして、箸を置きました。
「ごめんなさい。仕事の話はしないつもりだったのに」
順子さんは、笑いました。
「いいんですよ。私、誰かに聞いてほしかったんです」
それから、少し声を落として言いました。
「今の子たち、お昼は自分の机で、スマホを見ながら食べるんです。悪い子たちじゃないんですけど。給湯室の横の机、今は私一人なんですよ」
私は、黄色い付箋の字を思い出していました。
「先輩は、毎日、何をしてるんですか」
「何も。朝、川沿いを歩いて、図書館で新聞を読んで、夕方スーパーに行くくらい」
「いいなあ」
「いいのかしら。誰とも話さない日もあるのよ」
口にしてから、自分でも少し驚きました。
夫にも言っていなかったことでした。
順子さんは、蕎麦湯を注ぎながら言いました。
「じゃあ、私たち、同じですね。お昼の話し相手がいない同士」
そこから先は、猫の話になりました。
網戸は、この夏も二回破られたそうです。
夫が材料代だけで直しに行くと言っている、と伝えると、順子さんは「本当ですか」と身を乗り出しました。
気がつくと、十二時五十分でした。
「次は、私から」
店の前で、紙袋を渡しました。
「経理のみなさんで。小袋になってるから、配りやすいと思って」
順子さんは、袋の中をのぞいて、目を丸くしました。
「これ、先輩、覚えてたんですか。引き出しのおかき」
「三時に、一つずつくれたでしょう」
「あれ、もともと岸本さんに教わったんですよ」
今度は、私が目を丸くする番でした。
「私が入ったばかりの頃、岸本さんが、月末は甘いものより、しょっぱいのを一つつまむといいのよって。それからずっと、引き出しに入れてるんです」
私は、何も言えなくなりました。
十年前、電卓から目を上げなかった月末の午後を、順子さんは知りません。
知らないまま、岸本さんの小さな習慣を、十二年、私の机に届けてくれていたのです。
「じゃあ、戻ります」
順子さんは紙袋を胸に抱えて、信号のほうへ歩きかけて、振り返りました。
「先輩、次は私から連絡しますね。先輩からだと、また半年かかりそうだから」
私は笑って、手を振りました。
図星でした。
帰りの電車で、スマホの連絡先を開きました。
「順子さん(会社)」を押して、名前の欄を直しました。
「(会社)」の三文字を消して、「順子さん」だけにしました。
残りの二十二件は、そのままです。
その中に、「岸本さん(会社)」も入っています。
十年前の番号が、今もつながるのかどうか、私は知りません。
二か月後
十二月のはじめ、洗濯物を取り込んでいると、スマホが鳴りました。
順子さんからでした。
「約束どおり、私から連絡です。十二月十二日か十九日、同じお店で十二時十五分。どちらも無理なら、気にしないでください」
私の書いた文と、ほとんど同じでした。
最後に、写真が一枚ついていました。
営業所の、経理の島の机です。
五つの机の端に、小さな袋のおかきが一つずつのっていました。
「十月の、最後の五つです。月末まで取っておきました」
私は洗濯物を抱えたまま、写真を大きくしてみました。
一番手前の机は、私が最後の日まで使っていた机でした。
今は、あの春に入った若い子の席です。
その子の机の上にも、ちゃんと一つのっていました。
私は「十二日で」と返事をして、洗濯物をたたみ始めました。
たたみ終わってから、もう一度連絡先を開いて、「岸本さん(会社)」の名前の上で、しばらく指を止めていました。
押したのかどうかは、まだ、誰にも話していません。
あなたなら、どうしますか?
職場がなくなったあとも、会いたいと思う人はいますか。その人に連絡をためらう理由が「迷惑かもしれない」だとしたら、それは本当に相手の都合なのか、それとも返事が来ないことへの怖さなのか、少しだけ分けて考えてみてください。
もし一度だけ会うことを誘うとしたら、あなたはどんな日時を、いくつ書きますか。そして、その場で仕事の話が出てきたら、どうしますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 「迷惑だから」の中に、自分の怖さが混ざっていることがある
連絡をためらうとき、相手の忙しさを理由にしがちです。
けれど、よく考えると、断られることや返事が来ないことが怖いだけ、という場合もあります。
理由を分けてみると、送るかどうかの迷い方が少し変わるのかもしれません。
2. 誘うときは、相手が迷わない形にする
「いつか、ご飯でも」は、日にちを決める役を相手に渡してしまいます。
こちらが日時をいくつか先に書いておけば、相手は選ぶだけで済みます。
同じ職場にいた人なら、相手の忙しい時期や昼休みの長さを、誰よりも知っているはずです。
3. 昔の自分の振る舞いも、あとから見え方が変わる
働いていた頃、辞めた人が訪ねてきたとき、どんな顔をしていたかを思い出すことがあります。
そのときは気づかなかった相手の気づかいに、自分が辞める側になってから気づくこともあります。
気づいたことを、今度は自分から誰かに渡すことはできるのかもしれません。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(一つずつ袋に分かれている・職場の五人に配れる数がある・日持ちがする・甘くない・電車で持ち運べる重さと大きさ)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
職場に持っていく小袋のおかき
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この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。