ひとりの時間
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夫が亡くなって、一人暮らしの食卓が寂しい67歳。立ったまま食べていた私が、木曜の夜だけ座る席

窓辺の食卓に並ぶ二つの湯のみ
kuroko

ぷうう、ぷう。

外で、ラッパの音がしました。

木曜日の、夕方五時です。

豆腐屋さんの車が、今週も角の電柱のところに止まったのです。

私は流しの前に立ったまま、茶わんのごはんに箸を入れていました。

おかずは、鍋に残っていた昨日の煮物です。

鍋のまま、二口ほどつまみました。

ラッパはもう二回鳴って、それから遠ざかっていきました。

夫がいたころ、あの音が聞こえると、夫は決まって玄関でサンダルをつっかけました。

「行ってくる」

台所の棚から、底の端がへこんだアルミのボウルを持っていくのです。

豆腐を一丁、そのボウルの水の中に入れてもらって帰ってくる。

四十年、木曜日はそうでした。

夫を見送って、二年になります。

私は六十七歳です。

流しの前が、私の席でした

いつから立って食べるようになったのか、はっきりとは覚えていません。

最初の何か月かは、何を食べていたのかも覚えていないのです。

気がついたら、流しの前で食べるのが当たり前になっていました。

座らない理由は、自分でも分かっていました。

食卓の椅子に座ると、向かいに夫の椅子が見えるのです。

窓を背にした、少し背もたれの高い椅子です。

夫が座っていたころは、そこにいつも新聞が畳んで置いてありました。

今は、届いた郵便物や広告が、座面に積み重なっています。

片付けようと思うのですが、手が止まります。

片付けてしまうと、そこが本当に空いてしまう気がしたのです。

一人分のごはんは、作ろうと思えば作れます。

でも、作って、よそって、座って、「いただきます」と言うまでのあいだに、何度も手が止まるのです。

誰に言うのだろう、と思ってしまうのです。

立ったままなら、そういうことを考えずに済みました。

冷蔵庫を開けて、あるものを出して、食べて、洗う。

十分もかかりません。

体は困っていないのだから、それでいいと思っていました。

「どうせ、残るんだから」

娘の奈緒は、電車で四十分の町に住んでいます。

四十一歳で、小学生の男の子が二人います。

去年の冬の日曜日、奈緒が大きな紙袋を提げてやってきました。

中には、保存容器が五つ入っていました。

肉じゃが、ほうれん草のごま和え、鶏の照り焼き、きんぴら、卵焼き。

「冷凍できるのは冷凍して。お母さん、ちゃんと食べてないでしょ」

台所に容器を並べる奈緒の背中を見ながら、私は言いました。

「そんなに持ってこなくていいのよ」

「なんで。一人分ずつ分けてあるよ」

「一人分なんて、どうせ残るんだから」

自分でも、とげのある声だと分かりました。

奈緒は、容器のふたを閉める手を止めました。

「残ったら、捨てていいから」

「そういうことじゃないの。あなたには、分からないわよ」

言ってから、しまったと思いました。

奈緒も、父親を見送ったのです。

奈緒は何も言わずに、容器を冷蔵庫にしまいました。

帰りぎわ、玄関で靴を履きながら、「また来るね」とだけ言いました。

振り返りませんでした。

五つの容器のうち、私が開けたのは二つだけでした。

残りの三つは、二週間後に、中身を捨てました。

容器を洗って返すとき、私は「おいしかった」と嘘をつきました。

奈緒は「そう」と言って、それ以上は何も聞きませんでした。

夫の椅子から見えたもの

今年の九月の終わりの日曜日、奈緒が一人で来ました。

子どもたちは、奈緒の夫の健吾さんと留守番だと言いました。

お茶を淹れて、私は流しの前に立ったまま湯のみを持ちました。

奈緒は食卓の、自分が昔座っていた席にいました。

しばらく黙ってお茶を飲んでから、奈緒が言いました。

「お母さん、座らないの」

「いいのよ、ここで」

「……お父さんの席に、座ってみたら」

私は、すぐには返事ができませんでした。

「あそこは、郵便物が」

「どければいいじゃない」

奈緒は立ち上がって、椅子の上の郵便物と広告をまとめ、食卓の端に置きました。

「私、小さいころ、あの席に座りたくて、よくお父さんとけんかしてたの。覚えてる?」

覚えていました。

「お父さん、一回もどいてくれなかったんだよね」

「そうだったわね」

「理由、聞いたことある?」

「ないわ」

「お母さんが台所にいるのが、よく見えるからだって。私が中学生のとき、一回だけ教えてくれた」

私は、湯のみを持ったまま動けませんでした。

奈緒にうながされて、夫の椅子に座りました。

背もたれが思っていたより高くて、少し硬い。

目の前に、台所がありました。

流しと、ガスの火と、水切りかご。

さっきまで私が立っていた場所が、正面に見えていました。

四十年、夫はここから、私の背中を見ていたのです。

私は、何も言えなくなりました。

奈緒も、何も言いませんでした。

窓の外で、夕方の風が、隣の家の柿の葉を鳴らしていました。

週に一度だけ、座って食べる

その晩、一人になってから、私は一つだけ決めました。

毎日でなくていい。

週に一度だけ、夫の好きだったものを作って、夫の席で食べる。

曜日は、木曜日にしました。

豆腐屋さんのラッパが鳴る日です。

夫の好きなものといえば、湯豆腐でした。

十月の終わりから三月まで、木曜日の夜は、ほとんど湯豆腐でした。

私はそれを、夫の好物だと、ずっと思っていました。

最初の木曜日、ラッパが鳴っても、私は外に出られませんでした。

あのへこんだボウルを持って車の前に立つのは、まだ無理だと思ったのです。

豆腐は、昼のうちにスーパーで買っておきました。

夜、棚の上から土鍋を下ろしました。

結婚したときにいただいた、四人用の大きな土鍋です。

子どもたちがいたころは、これでちょうどよかったのです。

水を張って、昆布を敷いて、豆腐を一丁入れました。

大きな土鍋の真ん中に、豆腐が一つだけ浮いていました。

湯は、なかなか沸きませんでした。

沸くのを待つあいだ、私は火の前に立ったまま、その豆腐を見ていました。

ようやく煮えて、夫の席まで運ぼうとしました。

両手で持っても重く、鍋敷きに置くときに、がたん、と大きな音がしました。

誰もいない部屋に、その音だけが響きました。

座って、豆腐をすくいました。

半分食べたところで、箸が止まりました。

四人用の土鍋に、豆腐の残り半分と、昆布が一枚。

鍋の底が、ずいぶん広く見えました。

その晩は残りを捨てて、大きな土鍋を洗うのに、長い時間がかかりました。

片手で持てる重さ

次の週、私は駅の近くの台所用品の売り場に行きました。

大きな土鍋は、しまっておくことにしました。

捨てるのではありません。

奈緒たちが来る日のために、棚の上に戻すのです。

売り場には、土鍋が大きい順に並んでいました。

一番端に、一人用の小さな土鍋が、いくつか並んでいました。

私は一つずつ手に取って、重さを確かめました。

条件は、三つにしました。

豆腐一丁と、少しの野菜が入る、一人分の大きさであること。

ガスの火にかけて、そのまま食卓に運べること。

片手で持ち上げられる重さであること。

三つ目が、一番大事でした。

先週の、がたん、という音を、もう聞きたくなかったのです。

売り場の若い店員さんが、声をかけてくれました。

「お一人用でしたら、こちらの並びです。IHでお使いですか」

「いえ、ガスです。それと、持ち上げてみてもいいかしら」

「どうぞ。ふたを取って、本体だけで持ってみてください」

言われたとおり、ふたを外して、片手で持ち上げてみました。

三つ目に手に取ったものが、手首にちょうどよく収まりました。

「どなたかへの、贈り物ですか」

「いいえ。自分のです」

そう答えたとき、少し声がつまりました。

店員さんは、それ以上は何も聞かずに、箱を出してきてくれました。

色は、夫の湯のみに似た、黒っぽい茶色のものにしました。

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家に帰って、流しで一度洗いました。

手のひらに載せると、大きな土鍋のふたと、あまり変わらない重さでした。

あのボウルを持って

その次の木曜日、夕方五時に、ラッパが鳴りました。

私は台所の棚から、へこんだアルミのボウルを出しました。

いつだったか夫が落として、そのまま使い続けていたものです。

玄関で、自分のサンダルをつっかけました。

角の電柱のところに、白い軽トラックが止まっていました。

荷台の横に立っていたのは、夫と同じくらいの年の、日に焼けたおじさんでした。

「木綿を、一丁ください」

ボウルを差し出すと、おじさんの手が止まりました。

「あれ。そのボウル」

おじさんは、私の顔と、ボウルのへこみを見比べました。

「……二年前に、主人を見送りまして」

おじさんは帽子を取って、頭を下げました。

「そうでしたか。しばらくお見かけしないから、どうされたかと思ってたんです」

豆腐を一丁、ボウルの水の中に沈めながら、おじさんは言いました。

「ご主人、いつも言ってましたよ。うちのは湯豆腐が好きだから、冬のあいだは木曜が楽しみなんだって」

私は、ボウルを受け取る手を止めました。

「湯豆腐が好きなのは、主人のほうでしょう」

「いやあ、うちのが好きだからって、毎週そう言ってましたけどね」

おじさんは、少し困ったように笑いました。

夫が好きだから、私は四十年、冬の木曜日に湯豆腐を作っていました。

夫は、私が好きだからと、四十年、ボウルを持って外に出ていたのです。

どちらが本当に好きだったのか、今となっては、もう聞くことができません。

「これ、おまけです」

おじさんは、油揚げを一枚、ボウルの縁にのせてくれました。

ラッパを鳴らして車が角を曲がるまで、私はボウルを両手で持って立っていました。

涙は出たけれど

その晩、小さな土鍋に昆布を敷いて、豆腐を入れました。

おまけの油揚げも、切って入れました。

大きな土鍋のときより、ずっと早く、ふつふつと音がし始めました。

私は片手で土鍋を持ち上げて、夫の席に運びました。

鍋敷きに置くと、こつん、と小さな音がしました。

椅子を引いて、座りました。

正面に、台所が見えました。

さっきまで私が立っていた流しが、明かりの下にありました。

「いただきます」

声に出して言ったのは、何か月ぶりだったでしょう。

誰に言うのかは、もう考えませんでした。

豆腐をすくって口に入れると、熱くて、少し泣きました。

泣きながら、次の一口をすくいました。

油揚げも、昆布の端も、全部食べました。

土鍋の底に残った湯を、れんげで二杯すくって飲みました。

食べ終えてからも、しばらく夫の席に座ったまま、台所を眺めていました。

四十年、この景色を、夫は毎晩見ていたのです。

「知ってたよ」

次の日の夜、奈緒に電話をかけました。

用事があったわけではありません。

「昨日ね、湯豆腐を作ったの。お父さんの席で食べたのよ」

「ほんと?」

奈緒の声が、少し高くなりました。

「豆腐屋さんがね、お父さんは、湯豆腐はお母さんが好きだからって言ってたって」

電話の向こうで、奈緒が笑いました。

「なにそれ。二人とも、相手が好きだと思ってたの?」

「そうみたい」

笑っているうちに、私は言わなければいけないことを思い出しました。

「奈緒。去年、あなたが持ってきてくれたおかずね」

「うん」

「三つ、食べられなくて、捨てたの。おいしかったって、嘘をついた」

電話の向こうが、少し黙りました。

「知ってたよ」

「え?」

「容器、きれいに洗ってあったけど、しょうゆのにおいが全然しなかったもん」

奈緒の声は、責める声ではありませんでした。

「私もね、あのとき、分からないわよって言われて、ちょっと腹が立った。でも、お父さんのことは、お母さんと私では違うんだろうなって、帰りの電車で思ったの」

私は受話器を持ったまま、うなずいていました。

「今度の木曜、行っていい? 湯豆腐、食べてみたい」

「あの土鍋、一人用なのよ」

「じゃあ、大きいほう出してよ。棚の上にあるでしょ」

奈緒は、大きな土鍋がどこにしまってあるかを、ちゃんと覚えていました。

今も、毎日ではありません

木曜日のほかの日は、今も、流しの前に立って食べることがあります。

疲れた日や、雨の日の夜は、特にそうです。

夫の席に座るのは、週に一度だけです。

座って「いただきます」と言うと、今でも胸の奥がつまる晩があります。

寂しさは、二年前と形が変わっただけで、量はあまり減っていない気がします。

それでも、木曜日の夕方が近づくと、私は棚からボウルを出して、玄関に置いておくようになりました。

ラッパが鳴ると、サンダルをつっかけて、角の電柱まで歩きます。

「木綿を一丁」

「はい、毎度」

おじさんとの会話は、たいていそれだけです。

先週の木曜日には、奈緒と孫たちが来ました。

棚の上から、四人用の土鍋を下ろしました。

大きな土鍋に、豆腐を三丁入れました。

湯が沸くまで、孫たちが鍋のまわりで待っていました。

夫の席には、下の孫が座りたがりました。

私は、どいてあげました。

「おばあちゃん、いいの?」

「いいのよ。今日だけね。木曜日は、おばあちゃんの席なんだから」

奈緒が、鍋の向こうで小さく笑いました。

みんなが帰ったあと、私は二つの土鍋を洗いました。

水切りかごの中に、小さな土鍋が伏せてあります。

黒っぽい茶色の、片手で持ち上げられるくらいの土鍋です。

底の縁に、うっすらと白く、湯の跡が輪になって残っています。

その隣に、底の端がへこんだアルミのボウルが、同じように伏せてあります。

あなたなら、どうしますか?

自分のためだけに、食卓を整える日はありますか。毎日でなくてかまいません。週に一度、座って「いただきます」と言う日を決めるとしたら、何曜日にしますか。

長く誰かのために作ってきた料理の中に、本当は自分も好きだったものはありますか。その一品を、今度は自分のために作るとしたら、何を作りますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 座らない理由は、体ではなく向かいの席

主人公が立ったまま食べていたのは、面倒だったからではありませんでした。

座ると、向かいの空いた椅子が目に入る。

その椅子に積まれた郵便物は、片付けられないままの気持ちでもありました。

2. 毎日ではなく、週に一度

「きちんと食べなければ」と毎日を変えようとすると、できなかった日が重くなります。

主人公が決めたのは、木曜日の一回だけでした。

ほかの日は、今も流しの前で食べることがあります。それでも、座る日が一つあることで、一週間の形が少し変わりました。

3. 好きだったのは、どちらだったのか

夫は妻のために、妻は夫のために、四十年、同じ湯豆腐を続けていました。

どちらが本当に好きだったのかは、もう確かめられません。

確かめられないまま、その一品を自分の席で食べることが、残されたものを形を変えて持ち続けることなのかもしれません。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(豆腐一丁と少しの野菜が入る一人分の大きさ・ガスの火にかけてそのまま食卓に運べる・片手で持ち上げられる重さ)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

片手で運べる、一人用の土鍋

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  • 販売ページの記載:萬古焼・6号(1人用)・容量約900cc・日本製
  • 販売ページの記載:大きさ 約幅19×奥行21.2×高さ11cm・重さ約980g
  • 販売ページの記載:直火に使える(IHには使えない)
  • 選ぶときは、号数(大きさ)・重さ・使える熱源(ガスかIHか)を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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