一人暮らしの夜がさみしい66歳。私が夜九時に、テレビを消すようになるまで
テレビの中で、大勢の人がいっせいに笑いました。
私は流しの前で、茶わんを洗っていました。
何がおかしかったのかは、分かりません。
振り向いて画面を見ると、もう次の場面に変わっていました。
蛇口を止めると、また笑い声が聞こえました。
台所には、その笑い声と、スポンジから落ちる水の音しかありませんでした。
テレビは、帰ってすぐつけます。
消すのは、寝る直前です。
六十六歳。ひとり暮らしです。
独身のまま、定年まで働きました。
見ていないのに、つけていました
内容は、ほとんど覚えていません。
夜のうちに何を見たのか、翌朝になると、一つも思い出せない日もあります。
それでも、買い物から帰って玄関の鍵を閉めると、コートを脱ぐより先にリモコンを押していました。
食器を洗っているとき、音がしているだけで違うのです。
静かだと、冷蔵庫の音が聞こえます。
ぶうん、という低い音が、思っていたよりずっと大きいのです。
上の階の人が歩く音も聞こえます。
夜の十時ごろ、廊下を行ったり来たりする足音です。
それが嫌というより、自分の物音しかしないことが、妙に響くのです。
湯のみを置く音、椅子を引く音、自分のため息。
働いていた頃は、こんなことを考える時間がありませんでした。
帰ってきて、風呂に入って、寝るだけでしたから。
四十三年、小さな印刷会社の経理にいました。
電話が鳴れば、受話器を取って「はい、経理です」と言う。
一日に何十回も、そう言っていたと思います。
家に帰ると、その声を出すことは一度もありませんでした。
夜が長くなったのは、退職してからです
六十歳の定年のあとも、嘱託で五年働きました。
最後の出勤日は、去年の三月の末です。
朝は、意外と平気です。
やることがあります。洗濯、掃除、買い物。
昼も、なんとかなります。
図書館に行ったり、駅前まで歩いたりしているうちに、日が傾きます。
困るのは、夕食のあとです。
七時から寝るまでの三時間。
この三時間が、日によってとても長いのです。
特に、雨の日曜日のあとは長く感じました。
誰とも話さなかった日は、余計に長く感じます。
指を折って数えてみると、先週は、人と話さなかった日が四日ありました。
話したのは、スーパーのレジで「袋はいりません」と言ったことくらいです。
「お姉ちゃん、毎晩はちょっと」
退職してすぐのころ、私は毎晩、妹に電話をかけていました。
妹の恵子は四つ下で、電車で三時間ほどの町に住んでいます。
夜八時になると、なんとなく受話器を取ってしまうのです。
話すことは、たいしてありません。
今日は何を食べた、天気がどうだった、そのくらいです。
一週間ほど続いたある晩、いつものようにかけると、電話の向こうで子どもの声がしていました。
「お姉ちゃん、ごめんね。今ちょっと、孫をお風呂に入れるところで」
「あら、そう。じゃあ、また明日かけるわね」
少し間があって、妹が言いました。
「あのね、お姉ちゃん。毎晩だと、ちょっと……こっちもばたばたしてて」
「そうよね。ごめんごめん」
私は、明るい声で言って電話を切りました。
受話器を置いたあと、しばらくその場に立っていました。
妹が悪いわけではありません。
娘さんが共働きで、平日は孫を預かっているのです。
分かっているのに、頬のあたりが熱くなりました。
その晩は、テレビを夜中の十二時過ぎまでつけていました。
何を見たのかは、覚えていません。
次の日から、妹への電話は日曜日の夜だけにしました。
昔の同僚からのはがき
夏に、昔の同僚からはがきが来ました。
野口さんといって、同じ経理で二十年一緒だった先輩です。
退職して七年、年に一度だけやりとりのある人です。
野口さんは、午後三時になると決まって私に言ったものです。
「お茶番さん、そろそろお願い」
経理で一番若かった私が、ずっとお茶を淹れる係だったからです。
いつのまにか、それが私のあだ名になっていました。
はがきには、近況が三行ほど書いてありました。
膝の調子のこと、庭のトマトのこと。
その最後に、こうありました。
「夜のラジオが、今の楽しみです」
夜のラジオ。
そういえば、私は何十年もラジオを聞いていませんでした。
押し入れの奥を探すと、会社の机の引き出しに入れていた小さなラジオが出てきました。
昼休みに、お弁当を食べながら天気予報を聞いていたものです。
電池を入れ替えてスイッチを入れると、ざらざらした音のあとに、人の声が聞こえてきました。
夜九時に、テレビを消すことにしました
決めたのは、時刻だけです。
夜九時にテレビを消す。
そのあと、ラジオをつける。
決めてから、実際に消せるまでに、三日かかりました。
一日目は、九時になったとき、ちょうど旅番組で知らない港町の朝市を映していました。
終わるまで見ようと思っているうちに、次の番組が始まっていました。
二日目は、九時の少し前に、明日の天気だけ見てから消そうと思いました。
天気予報のあとの料理の話を、そのまま最後まで見てしまいました。
三日目の晩、私は八時五十五分に食卓の椅子に座って、リモコンを膝の上に置きました。
時計の長い針が十二のところに来るのを、じっと待ちました。
会社で、月末の締めの時刻を待っていたときのような気持ちでした。
その晩、九時ちょうどにリモコンを押すと、部屋が急に暗くなりました。
テレビの明かりが、部屋の明るさの半分くらいになっていたのです。
天井の蛍光灯をつけると、今度は明るすぎて落ち着きません。
次の日、手元だけを照らす小さな明かりを探しました。
食卓の端に置けて、場所をとらないもの。
本を読む手元だけが明るければ、それでよかったのです。
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次の晩、九時にテレビを消して、その明かりだけをつけました。
ラジオのスイッチを入れると、男の人の低い声が、聞いたことのない町のお祭りの話をしていました。
音の種類が変わるだけなのに、部屋の感じがずいぶん違いました。
テレビは、こちらが見ていないと置いていかれます。
画面を見ていなかった間に、話がどこかへ進んでしまうのです。
ラジオは、こちらが何をしていても、話し続けてくれます。
洗い物をしながらでも、話が続いているのです。
番組の途中で、聞いている人からのはがきが読まれました。
どこかの町の、知らない人の、今日の晩ごはんの話でした。
私は、ふきんを持ったまま、その話を最後まで聞いていました。
お茶を、一杯だけ淹れます
もうひとつ、決めたことがあります。
九時にお湯を沸かして、お茶を一杯だけ淹れる。
四十三年、人のためにばかり淹れてきたお茶です。
自分のためだけに淹れるのは、なんだか照れくさい気がしました。
最初のうち、半分くらい残して冷ましてしまいました。
読んでいるうちに、忘れるのです。
気がつくと、湯のみの底に、ぬるくなったお茶が残っています。
それを流しに捨てるたびに、少しがっかりしました。
三日続けて捨てたところで、こんなことではすぐにやめてしまうと思いました。
続かないのは、私の気持ちが弱いからだと思っていました。
でも、よく考えると、困っていたのは、お茶が冷めてしまうことだけでした。
それで、湯のみを替えることにしました。
条件は三つです。
冷めにくいこと。
蓋があること。
一杯ぶんで足りる大きさであること。
大きいものにすると、また残してしまいそうだったのです。
売り場で手に取って、重さと大きさを確かめてから選びました。
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九時にお茶を淹れたら、蓋をして、本の横に置く。
九時半になったら、最後の一口を飲んでから、ラジオを消す。
順番を、そう決めました。
お茶を捨てずに済んだ晩は、流しに湯のみを置く音まで、少し違って聞こえました。
三十分だけの習慣
九時から九時半。
お茶とラジオと、本を少し。
九時半で終わりにすると決めているので、続いています。
始める時刻より、終わる時刻のほうが大事だったのかもしれません。
終わりがあると分かっているから、九時に腰を上げられるのです。
読んでいる本は、図書館で借りた短い随筆です。
最初は、長い推理小説を借りていました。
ところが、続きが気になって、九時半を過ぎても閉じられません。
気がつくと十二時を回っていて、次の朝は起きられませんでした。
図書館の返却カウンターで、そのことを話してみました。
「続きが気になる本だと、九時半で閉じられないんです」
眼鏡をかけた若い職員さんが、少し考えてから言いました。
「それでしたら、一編が数ページの随筆はどうでしょう。どこで閉じても、次の晩に困りませんから」
案内されたのは、奥の棚の、背表紙の細い本が並ぶ段でした。
長い小説にしなかったのは、続きが気になると九時半で終われないからです。
随筆は、一晩に二編か三編読んで、閉じます。
閉じても、誰かに置いていかれた気がしません。
返しに行くたびに、あの職員さんが「今度は、どれくらいで読めました?」と聞いてくれます。
「二週間です。一晩に三編ずつ」
「じゃあ次は、これくらいの厚さで」
図書館のカウンターで交わす、そのくらいの短い会話が、週に一度の楽しみになりました。
はがきを出してみました
秋に、そのラジオ番組にはがきを出しました。
番組の最後に、「おたより、お待ちしています」と言っていたからです。
はがきを書くのは、年賀状以外では何年ぶりか分かりません。
書いたのは、ひとり暮らしの夜に九時からお茶を飲んでいること。
それだけです。
ペンネームの欄で、しばらく手が止まりました。
本名で出す勇気はありませんでした。
少し迷ってから、「元お茶番」と書きました。
本文は、最初は長くなりました。
退職したこと、夜が長いこと、妹に電話をかけすぎたこと。
書いているうちに、これを知らない人に読まれるのかと思うと、手が止まりました。
新しいはがきに、書き直しました。
「九時にテレビを消して、お茶を一杯淹れて、この番組を聞いています。九時半に、お茶を飲み終わります」
それだけにしました。
翌朝、郵便局まで歩いて、ポストに入れました。
帰り道、はがきに書いた自分の夜が、思っていたより悪くないものに思えました。
二週間後、名前が読まれました。
住んでいる市の名前と、私の考えたペンネームです。
「続いては、元お茶番さんから」
私は、ちょうど蓋を開けて、お茶を一口飲もうとしていたところでした。
その夜、私は台所で一人で「はい」と返事をしてしまいました。
受話器を取るときと同じ、「はい、経理です」の「はい」でした。
誰も聞いていません。
けれど、しばらく笑っていました。
野口さんからの電話
それから四日後の夜、八時過ぎに電話が鳴りました。
家の電話が鳴るのは、妹の日曜日のほかには、めったにありません。
「もしもし。あなた、お茶番さんでしょう」
野口さんでした。
「火曜日の、あの番組。聞いてたら『元お茶番』って読まれるんだもの。すぐ分かったわよ」
「聞いてたんですか」
「聞いてたわよ。はがきに書いたじゃない、夜のラジオが楽しみだって」
野口さんが聞いているのは、同じ番組だったのです。
「あなた、会社にいたとき、自分のお茶だけはいつも冷ましてたわよね。みんなの分を配ってるうちに」
言われて、思い出しました。
三時のお茶を配り終えて席に戻ると、自分の湯のみだけが、いつもぬるくなっていたのです。
「今は、自分の分から淹れてるの?」
「……九時だけは、そうしてます」
「それがいいわよ」
野口さんは、電話の向こうで笑いました。
「今度、私もはがき出すわ。お茶番さんへ、って書いてやろうかしら」
電話を切ったのは、八時五十五分でした。
夜が長く感じる日は、今もあります。
雨の日曜日のあとは、やっぱり三時間が長いのです。
それでも、その夜は、五分後にテレビを消して、お湯を沸かしました。
ラジオをつけると、同じ時刻に、野口さんの台所でも同じ声がしているはずでした。
その週の日曜日、いつものように妹に電話をかけました。
話の途中で、妹が言いました。
「お姉ちゃん、この頃、声が違うね」
「そう?」
「前は、なんだか、電話を切りたくなさそうだったもの」
私は笑ってごまかしました。
妹は、少し黙ってから言いました。
「あのとき、毎晩はちょっとって言ったでしょう。あれ、ずっと気になってたの」
「いいのよ。本当に、毎晩かけてたんだから」
「日曜日の電話はね、私、楽しみにしてるのよ。それは本当」
電話を切ったあと、私は受話器を置いた手を、しばらく見ていました。
時計を見ると、九時の五分前でした。
私はテレビを消して、やかんに水を入れました。
あなたなら、どうしますか?
夜の時間に、あなたが「自分で選んで」していることは何ですか。
そして、テレビを消すとしたら、何時にしますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. つけっぱなしは、選んだことにならない
音があれば静かではなくなりますが、選んだ時間にはなりません。
何時に消すかを決めると、そのあとが自分の時間になります。
2. 終わりの時刻を決めておく
始める時刻より、終わる時刻のほうが続きます。
「九時半で終わり」があるから、九時に始められます。
3. 小さな不便を、ひとつだけ直す
お茶を残してしまう、という小さなことでも、直すと習慣が続きます。
続かない理由は、気持ちではなく道具のことがあります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(マグ=冷めにくい・蓋がある・一杯ぶんで足りる/明かり=手元だけを照らす・場所をとらない)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
冷めにくい蓋つきのマグ
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- 販売ページの記載:容量350ml・本体重量約200g・本体サイズ約 幅11×奥行8×高さ10cm
- 販売ページの記載:保温効力は1時間で67℃以上
- 販売ページの記載:本体はステンレス鋼・フタはポリプロピレン
- 選ぶときは、容量・蓋があるか・重さ・洗いやすさを見ると選びやすくなります。
手元だけを照らす小さな明かり
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- 販売ページの記載:重さ60g・大きさ7.5×6.5×高さ16cm
- 販売ページの記載:USB-C充電式(コードなしで使える)・3段階の色と明るさの調整
- 販売ページの記載:クリップ(最大3cm)が台になり、置いても使える
- 選ぶときは、大きさ・充電式かコード式か・明るさを調整できるかを見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。