ひとりの時間
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60代、一人旅の勇気が出ない。64歳の私が最初に選んだのは、電車で一時間の町でした

駅の改札を、小さなキャリーケースを引いて歩く女性の後ろ姿
kuroko

「ひとりだと、帰る時間も自分で決められます」

絵はがきの裏に書いてあったのは、その一行だけでした。

表の写真は、川沿いに柳が並ぶ、どこかの小さな町です。

差出人は、高木さんでした。

私が二十代のころに勤めていた信用金庫の、窓口の先輩です。

八十歳近くになる今も、年賀状のやりとりだけは続いていました。

年賀状以外の便りが届いたのは、四十年で初めてのことです。

十月の終わり、郵便受けからそれを取り出して、私は玄関で立ったまま、同じ一行を三回読みました。

帰る時間を、自分で決める。

そんなことを、私はもう何十年もしていませんでした。

行きたい場所の名前は、決まっていた

行きたい場所の名前は、ずっと前から決まっていました。

北の海沿いの、灯台のある町です。

二十年ほど前、駅でもらったパンフレットを、今も台所の引き出しの奥にしまってあります。

決まっていなかったのは、誰と行くかです。

私は六十四歳です。

旅行は、いつも夫か友人と一緒でした。

夫は人混みが苦手で、遠出をしたがりません。

友人と行くときは、二人の都合と二人の好みが重なる場所を選びます。

私が行きたい場所ではなく、二人で行ける場所。

それで困ったことはありませんでした。

困ったことがないまま、灯台のパンフレットは少しずつ黄ばんでいきました。

「また今度ね」が、三回

いちばん一緒に出かける友人は、佐知子さんです。

子どもが同じ小学校に通っていたころからのつきあいで、もう三十年になります。

去年の春、二人で一泊の温泉に行く約束をしていました。

出発の五日前に、電話が鳴りました。

「ごめんね、お嫁さんに急な出張が入って、孫を預かることになったの」

「いいのよ、そんなの。また今度ね」

夏にもう一度決めた日は、佐知子さんのご主人の法事と重なりました。

「本当にごめん。私から誘ったのに」

「気にしないで。また今度ね」

秋に決めた三度目の日の前の晩、また電話が鳴りました。

受話器の向こうで、佐知子さんが何度も謝っていました。

孫が熱を出したのだそうです。

「行ってきなさいよ、一人でも。宿、もったいないじゃない」

「一人じゃ、つまらないわよ。また今度ね」

電話を切ってから、私は寝室に行きました。

夫と共用のボストンバッグには、二日前から私の着替えを詰めてありました。

それを一枚ずつ取り出して、たんすに戻しました。

最後に、いちばん下に入れておいた灯台のパンフレットが出てきました。

旅行に持っていくつもりなど、なかったはずなのに。

また今度が、いつになるかは誰にも分かりません。

佐知子さんが悪いわけでもありません。

ただ、「また今度ね」と言うたびに、私の行きたい場所がひとつずつ遠くなっていく気がしました。

特急の扉の前で

ひとりで行けばいい、とは思いました。

実は三年前に一度だけ、ひとりで出かけようとしたことがあります。

海の見える町まで、特急で二時間半。

切符は前の日に買ってありました。

当日の朝、ホームで特急を待っているうちに、いろいろなことが頭に浮かびました。

道に迷ったら。

帰りの電車に乗り遅れたら。

お昼どき、ひとりで席に座って、まわりの人に見られたら。

特急がホームに入ってきて、扉が開きました。

私は、足が前に出ませんでした。

扉が閉まって、特急が行ってしまうまで、私はベンチの横に立っていました。

家に帰ると、夫が驚いた顔をしました。

「なんだ、行かなかったのか」

「空が暗くなってきたから。雨になりそうで」

嘘でした。

その日は、夕方まで一日よく晴れていました。

夫は窓の外を見て、それ以上は何も聞かずに、お茶をいれてくれました。

使わなかった切符は、払い戻しの窓口に持っていけませんでした。

自分が行かなかったことを、駅の人に言うのが恥ずかしかったのです。

高木さんの電話

絵はがきが届いた週の日曜、私は思い切って高木さんに電話をかけました。

「はがき、ありがとうございました。あれ、どちらの町なんですか」

「隣の県の、川のある町よ。うちから電車で四十分」

高木さんの声は、窓口にいたころと少しも変わっていませんでした。

「おひとりで行かれたんですか」

「そうよ。主人が亡くなってから、ひとりで出かけるようになったの。最初の一回なんて、着いて一時間で帰ってきちゃったのよ」

「一時間で?」

「商店街を歩いたら、なんだか心細くなってね。でも、帰りの電車に乗ったら、急におかしくなって笑っちゃった。誰にも謝らなくていいのよ、帰りたいときに帰っても」

私は、三年前のホームのことを話しました。

特急の扉の前で、足が止まったこと。

夫に、雨のせいにしたこと。

高木さんは、しばらく黙って聞いてくれていました。

「特急で二時間半は、最初にしては遠すぎたのよ。あなた、昔から真面目だったから」

それから、こう言いました。

「帰ってこられるところから行けばいいの。ひとりのいいところは、帰る時間も自分で決められることなんだから」

はがきの一行は、そういう意味だったのだと思いました。

電車で一時間、乗り換えは一回まで

私が最初に決めたのは、行き先ではなく条件でした。

電車で一時間以内。

乗り換えは一回まで。

日帰りでも帰れる場所に、一泊する。

路線図をテーブルに広げて、家の最寄り駅から指でたどっていきました。

選んだのは、川沿いに古い商店街がある町でした。

有名な観光地ではありません。

駅の名前を聞いても、たぶん誰も思い浮かばない町です。

「失敗しても、電車に乗れば帰れる」

その安心があったから、決められたのだと思います。

宿は、駅から歩いて五分ほどの、小さなビジネスホテルにしました。

ひとりで一部屋に泊まれることと、食事を付けずに泊まれることを、条件にしました。

夕食の時間に縛られずに、町を歩けるほうがいいと思ったのです。

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その夜、夕食のあとで夫に話しました。

「来月、ひとりで一泊してこようと思うの」

「ひとりでか。……どこだ」

私が町の名前を言うと、夫は少し首をかしげました。

「電車で一時間くらいだろう。近いな」

「近いのがいいの」

夫は湯のみを置いて、「そうか」とだけ言いました。

次の日、佐知子さんにも電話で話しました。

黙って行くのは、なんだか約束を破るような気がしたのです。

「ひとりで? すごいじゃない」

「すごくないわよ。電車で一時間の町よ」

「一時間でも、ひとりはひとりよ。私、三回も流しちゃったから、なんだか申し訳なくて」

「佐知子さんのせいじゃないわよ」

私がそう言うと、受話器の向こうで、佐知子さんが少し笑いました。

「帰ってきたら、どんな町だったか教えてね。下見してきてよ」

下見。

そう言われると、少しだけ気が楽になりました。

自分で持つ、ひとつの荷物

一泊なのに、荷物が決まりませんでした。

いつもは、夫と共用の大きなバッグに二人分を詰めていました。

あの秋の夜、着替えを一枚ずつ取り出したバッグです。

自分の分だけを、自分で持つ。

それが、初めてだったのです。

家にある小さなかばんは、どれも日帰り用で、着替えが入りません。

駅ビルのかばん売り場に、二度足を運びました。

決めた条件は三つです。

軽いこと。

雨が降っても平気なこと。

肩と手の両方で持てること。

誰かに持ってもらわなくても、一日じゅう自分で抱えていられるもの。

それだけを考えて選びました。

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詰めたのは、着替えと薬と、本が一冊。

それだけで、思ったより軽く収まりました。

出発の前の晩、私は小さなメモ用紙に、その日の予定を三つだけ書きました。

「商店街を端から端まで歩く」

「川沿いを歩く」

「夕方、宿の近くで晩ごはん」

三つより多くは、書かないことにしました。

疲れたら帰る、も予定のうちだと思ったからです。

各駅停車の扉

出発の日は、十一月の半ばの木曜日でした。

朝の八時過ぎ、玄関で靴をはいていると、夫が新聞を持ったまま出てきました。

「傘は」

「かばんに入ってる」

「夕方、着いたら電話しろ」

「着くのは十一時よ。一時間で着くんだから」

「……そうだったな」

夫は少しきまり悪そうに、新聞を丸めて持ち直しました。

駅のホームに立つと、三年前の朝のことが、体のほうが先に思い出しました。

特急の扉の前で、足が動かなくなった朝です。

今日の電車は、各駅停車でした。

乗り換えは一回、全部で五十五分。

電車が入ってきて、扉が開きました。

私は、ひと呼吸だけ置きました。

それから、かばんの持ち手を握り直して、一歩、中に入りました。

扉が閉まる音がして、電車が動き出しました。

窓の外を、見慣れた町の屋根が流れていきます。

誰にも見られていないのに、私は少しだけ、口元がゆるむのをこらえていました。

乗り換えの駅では、ホームの案内板を二回見上げて、番線を確かめました。

間違えても、次の電車を待てばいい。

そう思えたのは、一時間で帰れる町だったからだと思います。

川沿いのベンチで、三十分

町に着いたのは、午前十一時でした。

改札を出ると、駅前に観光案内所がありました。

ガラス戸の向こうで、年配の男性が新聞を読んでいます。

私は中に入って、町の地図を一枚もらいました。

「川沿いを歩くなら、橋を二つ渡ったところにベンチがありますよ。いまの時期は柿がなってます」

商店街を端から端まで歩いたら、三十分で終わってしまいました。

乾物屋さんと、古い時計屋さんと、店先で焼いているおせんべい屋さん。

おせんべい屋さんの前で立ち止まると、網の上をひっくり返していたおばあさんが顔を上げました。

「焼きたて、一枚から売るよ」

「じゃあ、一枚ください」

ひとりだと、一枚から買えるのだと、そのとき初めて気がつきました。

二人のときは、いつも二枚か、一袋でした。

することがなくなって、案内所の人に教えられた川沿いのベンチに座りました。

向こう岸の家の庭で、柿が色づいていました。

持ってきた本を開いてみましたが、三ページで閉じました。

川の音と、どこかの家のラジオの音と、自転車のブレーキの音。

そういうものを聞いているほうが、よかったのです。

三十分、ただ座っていました。

誰にも「次はどこ行く?」と聞かれない時間が、こんなに長くて、こんなに楽なものだとは知りませんでした。

夕方、宿の近くの定食屋さんに入りました。

入り口の前で、一度だけ深呼吸をしました。

三年前のホームのことが、少しだけ頭をよぎったからです。

「おひとり? 窓際、空いてますよ」

店の人に言われて、二人がけの小さなテーブルに座り、日替わりを頼みました。

隣のテーブルにいた同じくらいの年の女性が、椅子に置いた私のかばんを見て、声をかけてくれました。

「旅行ですか」

「ええ。一泊だけ」

「こんな何もない町に、珍しいわね」

「何もないのが、よかったんです」

私がそう言うと、その人は笑って、「川沿いの柿、見ました?」と聞いてくれました。

それだけの会話でしたが、その日のことでいちばんよく覚えています。

店を出る前に、商店街の文房具屋さんで買っておいた絵はがきを一枚、テーブルの上で書きました。

川と柳の写真の、この町の絵はがきです。

宛名は、高木さんにしました。

「電車で一時間の町に来ています。帰る時間は、明日の朝に決めます」

それだけ書いて、店の前のポストに入れました。

宿に戻って、かばんの内ポケットから薬を出そうとしたとき、指に紙が触れました。

折りたたんだ、小さなメモ用紙でした。

夫の字で、こう書いてありました。

「上り 最終 二十一時〇二分 一時間に二本」

いつ入れたのか、私は知りません。

「近いな」としか言わなかった人が、帰りの電車を調べてくれていたのです。

帰りの電車で決めたこと

翌日、宿を出たのは十時でした。

観光案内所にもう一度寄って、昨日の男性に教えてもらった小さなお寺をひとつだけ見ました。

境内には誰もいなくて、鐘の横の木だけが赤くなっていました。

お昼前の電車に乗りました。

帰る時間を、自分で決めた電車です。

窓の外を見ながら、私は次の行き先を決めました。

今度は、乗り換え二回まで。

その次は、特急に乗ってみる。

そうやって少しずつ遠くしていけば、いつか灯台の町にも届くのかもしれません。

家に着くと、夫は居間で新聞を読んでいました。

「楽しかった?」

「うん」

それ以上は、まだうまく言葉になりませんでした。

「メモ、ありがとう」とだけ言うと、夫は新聞をめくりながら「使わなかったろ」と言いました。

「使わなかった。でも、あって助かった」

その週の金曜日、佐知子さんから電話がありました。

「孫のほうが落ち着いたの。来月なら行けそうよ。今度こそ、どこか行こう」

私は受話器を持ったまま、台所の引き出しを見ました。

奥に、黄ばんだ灯台のパンフレットが入っています。

「うん、行こう。電車で一時間のところに、いい町があるの。今度は私が案内するね」

あなたなら、どうしますか?

もし電車で一時間以内の町へ、ひとりで行くとしたら、どこを選びますか。

そして、その日の予定を三つだけ決めるとしたら、何を入れますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 「勇気」ではなく「条件」から決める

行き先を先に決めると、不安が大きくなります。

「電車で一時間以内」「乗り換え一回まで」のように、引き返せる条件から決めると、決心の量が減ります。

2. 予定は三つまでにしておく

ひとりの旅は、決める回数が多くなります。

朝いちばんに三つだけ決めて、あとは決めない。

疲れたら帰る、も立派な予定です。

3. 荷物は自分で持てる量に

誰かに持ってもらう前提でいると、荷物は増えます。

自分ひとりで持てる量が、そのまま自由に動ける範囲になります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(軽い・雨に強い・肩と手の両方で持てる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

軽いボストンバッグ(一泊用)

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  • 販売ページの記載:重さ650g・容量30L
  • 販売ページの記載:手持ち/肩掛け/ショルダー/リュック/キャリーオンの5通りの持ち方
  • 販売ページの記載:防水ポケット付き
  • 選ぶときは、重さ・容量・持ち方の種類・雨に強いかを見ると選びやすくなります。

一人で泊まれる宿を探すとき

  • 予約サイトで宿泊人数を「1名」にして探すと、一人で泊まれるプランに絞り込めます。
  • 選ぶときは、駅からの距離・食事の有無(素泊まりか、朝食付きか)・チェックインの時刻を見ると選びやすくなります。

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※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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