60代、服を一人で買いに行けない。店員さんに声をかけられるのが怖くて店の前を素通りしていた60歳の私が、平日の朝十時に一着だけ試着した秋
クローゼットの右側に、パンツが六本、かかっています。
紺が三本、灰色が二本、黒が一本です。
形は、六本とも同じです。
ウエストがゴムで、すとんとまっすぐで、裾が少しだけ細くなっている。
どれも、駅前のスーパーの二階の衣料品売り場で買ったものです。
いちばん古い紺は、膝のところが白っぽく光っています。
いちばん新しい灰色は、先月買いました。
レジに持っていくとき、家に同じものがあることは分かっていました。
分かっていて、また同じものを選びました。
クローゼットのいちばん奥には、一度もはいていないスカートが一枚、かかっています。
値札が、まだついたままです。
十五年前に、一人で買ったものです。
同じ形の、六本
私は六十歳です。
県庁のある市から電車で四十分の町の、駅から自転車で十分のアパートの二階に、夫と二人で住んでいます。
夫は六十三歳で、今もタクシーの運転の仕事を続けています。
夜の勤めが多いので、昼間は奥の部屋で眠っていることがほとんどです。
娘の瑞穂は三十二歳です。
去年の春、娘の夫の転勤で、飛行機でないと行けない町へ引っ越していきました。
服を買うときは、いつも瑞穂が一緒でした。
年に二回、春と秋に、二人で駅ビルへ行くのが決まりでした。
瑞穂が先に店に入って、店員さんと話してくれる。
「母が、こういう感じのを探してて」
私は、その後ろで、うなずいているだけでよかったのです。
最後に二人で行ったのは、引っ越しの前の月、去年の二月でした。
駅ビルの三階で、瑞穂は私のために、春のブラウスを一枚選んでくれました。
「お母さん、これ、どう?」
「いいわね。瑞穂がいいなら、それで」
「私じゃなくて、お母さんがいいかどうかだよ」
「いいわよ。いいと思う」
瑞穂は、ブラウスを持ったまま、少しだけ困った顔をしました。
それから、店員さんのほうを向いて、「これ、試着させてください」と言ってくれました。
帰りの電車で、瑞穂は窓の外を見ながら言いました。
「次の秋、私いないけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。服くらい、一人で買えるわよ」
そう答えたのを、私は覚えています。
そのブラウスは、今もクローゼットの左側にかかっています。
春に三回、着ました。
瑞穂がいなくなって、最初の秋が来たとき、私は一人で駅ビルに行きました。
婦人服の店が並ぶ階まで、エスカレーターで上がりました。
一軒目の店の前で、店員さんと目が合いました。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ご覧になってください」
にこやかな声でした。
私は、会釈をして、そのまま通り過ぎました。
二軒目も、三軒目も、同じでした。
その階を一周して、エスカレーターで下りて、スーパーの二階へ行きました。
そこなら、誰にも声をかけられません。
ハンガーから、同じ形の紺を一本取って、レジに持っていきました。
値札のついたスカート
一人で服を買えなくなったのは、四十五歳のときからです。
その年の秋、私は一人で、駅ビルの小さな店に入りました。
ショーウインドウの、えんじ色のスカートが気になったのです。
「よかったら、ご試着どうぞ」
店員さんに言われるまま、試着室に入りました。
スカートは、ファスナーが途中までしか上がりませんでした。
ひとつ上のサイズを頼めばいいだけのことです。
でも、カーテンの向こうから、声がかかりました。
「いかがですかぁ。開けてもよろしいですか」
「あ、ちょっと、待ってください」
「サイズ、お持ちしましょうか。ひとつ上のもございますよ」
店員さんの声は、少し大きく聞こえました。
店の中には、ほかにも若いお客さんが二人いました。
その人たちに、全部聞こえている気がしました。
「いえ、大丈夫です」
私は、ファスナーを下ろしたまま、スカートを脱いで、元の服を着ました。
カーテンを開けて、スカートを店員さんに渡しました。
「これ、いただきます」
「サイズは、こちらでよろしいですか」
「はい。大丈夫です」
大丈夫ではありませんでした。
でも、そう言わないと、店から出られない気がしたのです。
一万八千円でした。
家に帰って、紙袋のままクローゼットの奥にしまいました。
それから十五年、一度もはいていません。
捨てることもできずに、値札をつけたまま、奥にかかっています。
あの日から、服の店に一人で入ると、試着室のカーテンの向こうの声を思い出すようになりました。
瑞穂と行くようになったのは、そのあとです。
「一人で行けばいいじゃない」
九月のはじめ、瑞穂から電話がありました。
「お母さん、秋の服、買った?」
「まだ。……というか、いつものところで、また同じのを買っちゃった」
「スーパーの二階の? また紺?」
「灰色よ」
瑞穂は、電話の向こうで笑いました。
「駅ビル、一人で行けばいいじゃない。お母さん、服見るの好きでしょう」
「一人だと、入れないのよ。声をかけられると、何か買わなきゃいけない気がして」
「買わなくていいんだよ、別に」
「分かってるけど」
瑞穂は、少し黙ってから言いました。
「私がいたころ、お母さん、いつも私の後ろにいたもんね。私、それ、ちょっと寂しかったんだよ。お母さんが何を好きなのか、店員さんに説明してるの、私だったから」
私は、受話器を持ったまま、何も言えませんでした。
瑞穂のために一緒に行っているつもりでした。
でも、本当は、私が瑞穂を盾にしていたのです。
開店すぐの、十時
九月の終わり、高校の同級生の史子と、駅前の喫茶店でお茶を飲みました。
史子は、四十年近く、デパートの婦人服売り場で働いていた人です。
今年の春、定年で辞めました。
私は、瑞穂との電話のことを話しました。
それから、十五年前のスカートのことも話しました。
誰かに話したのは、初めてでした。
史子は、笑わずに聞いていました。
「そのスカート、まだあるの?」
「あるの。値札もついたまま」
「そう」
史子は、コーヒーを一口飲んでから言いました。
「一人で行くなら、平日の開店すぐがいいわよ」
「開店すぐ?」
「朝の十時。店員さんは、開ける準備で忙しいの。それに、朝いちばんのお客さんは、見るだけの人が多いって、みんな分かってるから。あんまり話しかけないのよ」
「そういうものなの」
「そういうものよ。私も、朝はそうしてた」
史子は、続けて言いました。
「それとね、試着して、買わないで出てきても、いいのよ」
「悪くない?」
「悪くない。売り場の人間はね、試着して買わないお客さんで、いちいち傷ついたりしないの。むしろ、合わないのに買っていかれるほうが、あとで気になるのよ」
合わないのに、買っていかれるほうが。
十五年前の店員さんの顔を、私は思い出そうとしました。
もう、よく思い出せませんでした。
あの人も、私がファスナーの上がらないスカートを買って帰ったことを、気にしていたのでしょうか。
一着だけ、と決める
その晩、私はクローゼットの前で、いちばんよくはく紺のパンツを出しました。
いきなり店に行っても、また何を見ていいか分からなくなる。
だから、先に、自分で探すものを決めておくことにしたのです。
史子の言うとおり、平日の朝十時に行く。
一着だけ、試着する。
買わなくてもいい。
この三つを、メモ帳に書きました。
それから、紺のパンツを床に広げて、メジャーで測りました。
ウエストは、ゴムがいい。
前だけすっきりして、後ろがゴムになっているものでもいい。
丈は、股下が六十五センチ。
いつも、スーパーのパンツは裾を三センチ上げてはいていました。
丈を直さずにはけることを、一つ目の条件にしました。
洗濯機で洗えること。
ポケットが、左右にあること。
財布と鍵を入れて、手ぶらで自転車に乗れるからです。
色は、紺と灰色と黒以外にしようと決めました。
測った数字の意味がよく分からなかったので、夜、スマホで、服のサイズの測り方が詳しく書いてある店の画面を見ました。
素材や、どこで作られたかまで一着ずつ書いてあって、読んでいるうちに、自分が何を気にしているのかが、少しずつ分かってきました。
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ただ、その晩は、何も買いませんでした。
一度は、自分の足で店に入ってみたかったのです。
試着室のカーテン
十月の二週目の水曜日、朝の九時五十分に、駅ビルの入り口の前に着きました。
シャッターの前には、私のほかに、二、三人しかいませんでした。
十時に扉が開いて、エスカレーターで婦人服の階まで上がりました。
どの店でも、店員さんが、ハンガーを整えたり、床にモップをかけたりしていました。
史子の言ったとおり、「いらっしゃいませ」と言うだけで、こちらには来ませんでした。
三軒目の店の奥に、パンツが並んでいる棚がありました。
私は、メモ帳を思い出しながら、一本ずつ見ていきました。
ウエストの後ろがゴム。
ポケットが左右。
洗濯表示に、洗濯機のマーク。
丈の表示に、六十五。
深い緑の一本が、全部に当てはまりました。
手に取ってから、しばらく動けませんでした。
試着室が、棚の向こうに見えていました。
一着だけ。
買わなくてもいい。
心の中で二回言って、店員さんに声をかけました。
「すみません。これ、試着してもいいですか」
自分から店員さんに声をかけたのは、十五年ぶりでした。
「はい、どうぞ。ごゆっくり」
店員さんは、カーテンを開けてくれて、すぐにレジのほうへ戻っていきました。
試着室の中で、緑のパンツに足を通しました。
ウエストは、苦しくありませんでした。
裾は、ちょうどくるぶしの上で止まりました。
鏡の中の自分を、しばらく見ていました。
紺でも灰色でも黒でもない色が、腰から下にありました。
カーテンの向こうからは、何の声もかかりませんでした。
私は、自分でカーテンを開けて、外に出ました。
通りかかった店員さんが、裾のあたりを見て言いました。
「丈、ちょうどですね」
それだけ言って、また棚のほうへ離れていきました。
緑の一本
私は、そのパンツを買いました。
買わなくてもいい、と決めて行ったのに、買いました。
レジで、店員さんに聞かれました。
「すぐにおはきになりますか。タグ、お切りしましょうか」
少し迷ってから、「はい」と答えました。
家に帰ると、夫が、奥の部屋から起きてきたところでした。
寝ぐせのついた頭で、台所で水を飲んでいました。
私の足もとを見て、夫は少し目を細めました。
「緑か」
「一人で買ったのよ。駅ビルで」
「そうか」
夫は、コップを流しに置いてから、言いました。
「お前、若いころ、緑のコート着てたな。俺の車に最初に乗ったとき」
私は、そんなコートのことは、すっかり忘れていました。
四十年近く前の話です。
夫は、それだけ言って、また奥の部屋へ戻っていきました。
夕方、夫が仕事に出る前に、玄関で靴をはきながら、もう一度こちらを振り返りました。
「それ、どこで買った」
「駅ビルの三階。一人で入ったのよ。朝の十時に」
「一人でか」
「一人で。試着もしたの。自分で、試着していいですかって言ったのよ」
言いながら、自分でも少しおかしくなりました。
六十歳にもなって、試着したことを夫に報告しているのです。
夫は、笑いませんでした。
「そうか。……次、どこか乗せていくときは、それ、はいてこい」
夫はそう言って、車の鍵を指に引っかけて出ていきました。
夫の運転する車に乗って出かけることなど、この何年もありませんでした。
夜、瑞穂に写真を送りました。
緑のパンツをはいた、足もとだけの写真です。
「一人で買った」
返事は、すぐに来ました。
「えー! いいじゃん。今度電話で、どの店か教えて。次は私が一人で行った報告するから」
十一月、十二月
それから、服の買い方が大きく変わったわけではありません。
十一月に、もう一度駅ビルに行きました。
今度は、試着をせずに、婦人服の階を一周して帰ってきました。
店員さんと目が合うと、まだ少し、肩に力が入ります。
十二月のはじめ、スーパーの二階で、また灰色のパンツを手に取りかけて、棚に戻しました。
それでも、クローゼットの右側に、緑が一本加わりました。
紺と灰色と黒のあいだで、そこだけ色が違って見えます。
あの値札のついたスカートは、まだ奥にかかっています。
えんじ色は、十五年たっても、色あせていませんでした。
いつか、ひとつ上のサイズを探しに行くのか、それとも、このまま奥にかけておくのか。
まだ、決めていません。
年が明けたら、冬の朝の十時は、きっと寒いでしょう。
春になったら、また平日の十時に、駅ビルのシャッターの前に立つつもりです。
今度は、スカートの棚の前まで、行ってみようと思っています。
あなたなら、どうしますか?
誰かと一緒でないと入れない店は、あなたにとって、どこですか。
一人で行くとしたら、「一着だけ」「買わなくてもいい」のように、先に決めておけることは何でしょう。
この物語から、考えたいこと
1. 一緒に行く人が、盾になっていることがある
家族や友達と一緒に買い物をするのは、楽しいことです。
でも、いつの間にか、店員さんと話すのも、自分の好みを説明するのも、相手に任せていることがあります。
2. 同じ服ばかり買うのは、選べないからとは限らない
同じ形、同じ色を選んでしまうのは、好みがないからではなく、人に声をかけられない場所でしか買えなくなっているからかもしれません。
3. 「買わなくていい」と先に決めておく
一着だけ試着する、買わなくてもいい、と先に決めておくと、店に入るときの重さが少し変わります。
試着して買わないお客さんで、店の人はいちいち困ったりしない、と知っておくだけでも違います。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。