仕事を終えたあと
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パートを辞めたら、仲間と縁が切れた62歳。十四年働いた店の前を遠回りしていた私が、お客として扉を押した水曜

図書館の窓際で本を読む女性
kuroko

台所の棚の、いちばん奥に、花柄のマグカップがあります。

十四年、休憩室で使っていたものです。

三月の最後の日に、エプロンと三角巾と一緒に、紙袋に入れて持って帰りました。

あの日は、店長と、店長の奥さんと、パートの三人が、裏口まで見送りに出てきてくれました。

「また、顔出してね」

そう言われて、私は「うん、来る来る」と答えました。

六十二歳です。

駅前のパン屋で、十四年働きました。

辞めて、もう五か月になります。

家に帰ってから、私はそのマグを一度も使っていません。

「パンの休憩室」

辞めた日の夜に、スマホが鳴りました。

グループLINEの名前が変わっていました。

「パンの休憩室」

つけたのは、真知子さんです。

四十五歳で、私より十七も下ですが、いちばんよく笑う人でした。

「名前だけでも残しましょう」

そう書いてありました。

志乃さんも「賛成」とだけ送ってきました。

志乃さんは五十八歳で、私の次に長くいる人です。

最初のひと月は、私もよく返していました。

新しい機械が入った話。

雨の日に食パンが売れ残った話。

私は、自分の知っている話だから返せました。

二か月目から、少しずつ分からなくなりました。

知らない名前が出てくるようになったのです。

「ミナちゃんが、今日はじめて一人でレジ回した」

ミナちゃんが誰なのか、私は知りません。

四月に入った人なのでしょう。

写真も届きました。

休憩室のテーブルに、見たことのないお菓子の箱が置いてありました。

そのお菓子が誰からの差し入れなのかも、私には分かりませんでした。

三か月目には、私は既読をつけるだけになりました。

四か月目には、開くのが少し遅くなりました。

五か月目の今は、通知が来ても、その日のうちに開かないこともあります。

嫌になったのではありません。

返す言葉が、見つからないのです。

「懐かしい」は、一度書いたら、二度目は書けません。

辞めた理由を、うまく言えませんでした

私が辞めたのは、けんかをしたからではありません。

去年の秋に、店長の息子さんが店に戻ってきました。

四十歳で、都会のパン屋で十年修業をしてきた人です。

仕込みの時間が、少しずつ早くなりました。

前は五時半でしたが、冬のあいだに五時になり、年が明けて四時半になりました。

週に二日だったその時間帯が、三日になり、四日になりました。

二月のある朝、暗い道を自転車で走りながら、手袋の中の指の感覚がなくなっていました。

信号で止まったとき、私は「あと何年これができるだろう」と考えました。

そのことを、店長の奥さんに言いに行くのに、三週間かかりました。

「四時半が、少しきつくて」

「無理させちゃってたわねえ」

「いえ、無理というか」

「遅番だけにする、っていうのはどう」

そう言ってもらえました。

でも、遅番だけにすると、休憩室で三人と一緒になる時間がなくなります。

私が十四年続けられたのは、たぶん、あの三十分があったからでした。

半分だけ残るくらいなら、と思ってしまったのです。

それを、誰にも言いませんでした。

「そろそろ、家のこともあるので」

最後に私が出した理由は、それでした。

嘘ではありませんが、本当でもありません。

信号を二つ、遠回りしています

駅へ行くときは、いつもあの店の前を通っていました。

十四年、毎日そうしてきました。

今は、通りません。

駅の手前の信号を一つ早く曲がって、裏の道に入ります。

そうすると、店の前を通らずに駅の東口に出られます。

信号にして二つ分、歩く時間は四分ほど余計にかかります。

夫に、一度聞かれました。

「なんで、そっちから行くんだ」

「こっちのほうが、日陰が多いのよ」

八月でした。

嘘ではありませんが、本当でもありません。

店の前を通ると、ガラス越しに中が見えます。

見えたら、中の人と目が合うかもしれません。

目が合ったら、どんな顔をすればいいのでしょうか。

入らずに通り過ぎたら、冷たいと思われるでしょうか。

入ったら、忙しい時間に邪魔をすることになりはしないでしょうか。

そんなことを、信号を待つあいだにいくつも考えて、結局、私は裏の道を選びました。

夫は、六十二歳です。

町の設備会社で、今も働いています。

九月のはじめの夜、夫がテレビを見ながら言いました。

「お前、あそこのパン、もう食ってないな」

「そうねえ」

「クリームの入ったやつ、俺は好きだったんだがな」

それだけ言って、夫はチャンネルを変えました。

私は、台所で急須を洗いながら、その言葉を何度も思い出しました。

十二年前の、「そのうちね」

思い出したことが、もうひとつあります。

私がまだ働きはじめて二年ほどのころ、谷口さんという人がいました。

当時、六十歳でした。

私より年上で、いちばん古くからいた人です。

谷口さんが辞めるとき、私は仕込みの台の向こうから、軽く手を振っただけでした。

その一か月後、駅の階段で谷口さんに会いました。

「あら、元気」

「谷口さん、久しぶりです」

「ねえ、落ち着いたら、お茶でもしましょうよ」

「はい、そのうちね」

私は、そう言いました。

そのあと、二度、同じやりとりをしました。

二度とも、「そのうちね」と答えました。

忙しかったのです。

朝の五時に起きて、昼過ぎまで立ちっぱなしで、家に帰れば夕飯の支度がありました。

その上で、辞めた人とお茶を飲む時間を、私は作れませんでした。

作れなかったのではなく、作ろうとしなかったのだと、今なら分かります。

次の年の春、谷口さんから引っ越しの知らせが一枚届きました。

娘さんのいる町に移る、と書いてありました。

裏に、細い字で「近くに来ることがあったら寄ってね」とありました。

私は、その一枚を見て、「よかったですね」と心の中で思っただけでした。

返事も出しませんでした。

あのはがきは、たしか引き出しのどこかにあります。

五か月のあいだに、二度ほど探しました。

二度とも、見つかりませんでした。

谷口さんが今どうしているのか、私は知りません。

五か月のあいだ、私はずっと、自分がされたことを気にしていました。

誰からも誘われない。

グループLINEが、知らない話で流れていく。

でも、十二年前に同じことをしたのは、私のほうでした。

スーパーの駐車場で

九月の半ばの夕方でした。

スーパーの駐車場で、自転車の鍵を開けていると、後ろから名前を呼ばれました。

真知子さんでした。

制服のままで、夕方の休憩に出てきたのだと言いました。

「久しぶり。元気にしてた」

「うん、元気よ。真知子さんは」

「元気に決まってるじゃない」

真知子さんは笑って、それから、少し声を落としました。

「ねえ、なんでうちに買いに来ないの」

私は、すぐに返事ができませんでした。

「みんな待ってるのに」

待ってる、という言葉が、胸に引っかかりました。

「忙しいでしょう、みんな」

「忙しいけど、お客さんは来るじゃない」

真知子さんは、当たり前のことを言いました。

「志乃さんなんか、この前も言ってたよ。あの人、うちのパン好きだったのにねって」

「そう」

「棚の、上から二段目の左から三番目。あそこ、まだ誰も使ってないよ」

マグを置いていた場所のことでした。

私は、笑おうとして、うまく笑えませんでした。

真知子さんは「じゃ、戻るね」と言って、店のほうへ走っていきました。

その背中を見ながら、私は十二年前の駅の階段を思い出していました。

谷口さんも、こんなふうに言いたかったのかもしれません。

午後二時すぎの、空いている時間

次の水曜日、私は店に行きました。

行くと決めてから、二日かかりました。

まず、時間を決めました。

朝の焼き上がりのあとの七時半から九時は、いちばん混みます。

昼の十二時から一時も、勤めの人で列ができます。

十四年いたので、店の一日は分かっていました。

いちばん静かなのは、午後二時から三時のあいだです。

その時間なら、レジに一人しか立っていません。

次に、買うものを決めました。

夫の好きな、クリームの入ったものを二つ。

それと、朝食用の食パンを一斤。

決めてから行かないと、扉の前で迷うと思ったのです。

三つ目に決めたのは、出かける前に鏡を見ないことでした。

前の日の夜から、何を着ていこうかと考えている自分に気づいたからです。

客として行くのに、身なりを整えて行くのはおかしい気がしました。

ふだんの上着で、ふだんの自転車で行くことにしました。

水曜の二時十五分に、私は店の前に立ちました。

五か月ぶりに、表の道から近づきました。

看板の電球が、右から二つ目だけ切れていました。

私がいたころから、切れやすい場所でした。

扉を押すと、上の鈴が鳴りました。

その音が、こんなに大きかったかと思いました。

レジにいたのは、志乃さんでした。

志乃さんは、顔を上げて、一秒ほど止まりました。

それから、何も言わずに、トングとトレーを出してくれました。

「いらっしゃいませ」

「……こんにちは」

私が言うと、志乃さんは小さく笑いました。

「お客さんの声じゃないわよ、それ」

つぶれたクリームパン

買ったのは、決めていた三つだけです。

志乃さんは、袋に入れながら、二言だけ言いました。

「食パン、スライス五枚でよかった」

「うん、五枚で」

「相変わらずね」

それで終わりました。

長く話したわけではありません。

三分もいなかったと思います。

でも、家に帰る自転車の上で、私は何度も口の中で言葉を繰り返していました。

相変わらずね。

十四年、私は五枚切りでした。

家に着いて、買い物袋から出すと、クリームの入ったものが、両方ともつぶれていました。

家にあった薄いレジ袋に入れて、自転車の前かごに置いたからです。

かごの中で横になって、上から食パンの袋が乗っていました。

夫は「うまい」と言って食べましたが、私は情けなくなりました。

十四年、私は店で何度も言ってきたのです。

「袋の中では、立てて入れてくださいね」

「上に重いものを乗せると、つぶれますから」

自分が客になったとたん、そのとおりにできませんでした。

次の水曜までに、私は袋を探すことにしました。

条件は、四つでした。

ひとつめは、畳むと小さくなって、いつも鞄に入れておけることです。

行こうと思った日に持っていないと、また来週になってしまいます。

ふたつめは、広げたときに底が平らで、四隅に角があることでした。

袋の底が丸いと、パンが横に倒れてしまいます。

三つめは、持ち手が肩にかけられる長さであることです。

自転車のかごに入れず、肩にかけて帰れば、上から重いものが乗ることもありません。

四つめは、洗えることでした。

パンくずは、思っているよりたくさん落ちます。

日曜日に、夫と駅の向こうの店まで歩いて行きました。

売り場には、色と柄の違うものが、壁一面に下がっていました。

私は、畳んだ状態のものを手に取っては、広げてみました。

店の人に断って、三つほど広げさせてもらいました。

広げてみると、同じ大きさに見えても、底の形がずいぶん違いました。

夫は、少し離れたところで、工具の売り場のほうを見ていました。

戻ってきて、私が持っていたものを見て言いました。

「それ、四角いな」

「そう。底が四角くないと、倒れるのよ」

「なるほど」

夫は、それ以上は聞きませんでした。

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水曜日の、三十分

十月に入ってから、私は毎週水曜の二時すぎに店へ行くようになりました。

三十分もいません。

買って、二言か三言交わして、帰ります。

三回目の水曜に、レジの奥から若い人が出てきました。

「あ、いらっしゃいませ」

髪をきちんとまとめた、二十代の人でした。

志乃さんが「ミナちゃん、この人ね、前ここで十四年働いてた人」と紹介してくれました。

ミナちゃんは、目を丸くして、頭を下げました。

「十四年ですか」

「そうなの。でも、今はお客さん」

私がそう言うと、志乃さんが「お客さんなのに、五枚切りしか買わないの」と言って笑いました。

グループLINEには、今も返せていません。

既読をつけるだけの日が、ほとんどです。

毎日笑っていたあの休憩室に、戻れるわけではありません。

あそこにはもう、私の席はないのです。

それでいいのだと、少しずつ思えるようになりました。

十月の終わりの水曜、いつものように店に入ると、志乃さんがトレーを拭いていました。

お客は、ほかに誰もいませんでした。

志乃さんは、布巾を置いて、こちらを見ずに言いました。

「ねえ。今度の休み、お茶しない」

私は、考えませんでした。

「行く」

志乃さんが顔を上げて、笑いました。

「即答じゃない。もっと迷うかと思った」

「十二年、迷ってたから」

「なによ、それ」

私は説明しませんでした。

谷口さんの話は、いつか、お茶を飲みながらするつもりです。

あなたなら、どうしますか?

職場を離れたあと、切れてしまったと感じている縁はありますか。その縁は、相手が離れていったのでしょうか。それとも、あなたが遠回りする道を選んだのでしょうか。

もし一度だけ戻れるとしたら、あなたはどんな立場で、どの時間に、その場所へ行きますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 縁が切れたのではなく、会う理由がなくなっただけのことがある

毎日顔を合わせていた関係は、「同じ場所にいること」が理由になっていました。

その場所を離れると、会う理由だけがなくなります。

気持ちが離れたわけでも、嫌われたわけでもありません。

理由がなくなったのなら、別の理由を一つ作れば足ります。

買い物に行く、というだけの理由でも十分です。

2. 返せない連絡を、無理に返さなくてもいい

グループの話題が自分の知らない話になると、返す言葉が見つからなくなります。

そこで無理に何か書こうとすると、かえって足が遠のきます。

文字で返すことと、顔を合わせることは、別の道です。

文字が書けないなら、短く会える場所を選ぶほうが続きます。

3. 誘われなかった側にも、誘わなかった過去がある

辞めたあとに声がかからないと、自分だけが外されたように感じます。

けれど、働いていたころの自分が、先に辞めた人の誘いをどう扱ったかを思い出すと、景色が変わります。

そのころは、本当に忙しかったのです。

相手も、いま同じように忙しいだけかもしれません。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(畳むと小さく鞄に入る・底が平らで角がある・肩にかけられる持ち手・洗える)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

畳んで持ち歩ける、底が平らな買い物袋

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  • 販売ページの記載:容量7.5L・重さ約33g・使用時 約30×26cm・たたむと約直径4×6cm
  • 販売ページの記載:素材はポリエステル(リップストップ生地)・両端を引くと一気にたためる
  • 選ぶときは、容量・たたんだときの大きさ・重さ・底の形(マチ)を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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