退職したら、誰にも名前で呼ばれなくなった62歳。病院でフルネームを呼ばれてうれしかった私が、はがきの差出人に足した二文字
「芦田千鶴さん。三番の窓口へどうぞ」
呼ばれて、私は立ち上がりました。
市民病院の、二階の待合です。
十月のはじめの、水曜の午前でした。
椅子から立ち上がって、四歩ほど歩いたところで、私は自分の胸のあたりが妙に浮いているのに気づきました。
うれしかったのです。
血圧の薬をもらいに来ただけで、何かいい知らせがあったわけでもありません。
ただ、名前を呼ばれた。
それだけのことで、うれしかったのです。
三番の窓口で、次の予約の紙を受け取りながら、私は少し恥ずかしくなりました。
六十二にもなって、名前を呼ばれたくらいで。
けれど家に帰って、台所で薬を仕分けながら、私はもう一度考えていました。
前に名前で呼ばれたのは、いつだったろう、と。
思い出せませんでした。
一日に、何と呼ばれたか
私は六十二歳です。
市の窓口で、嘱託の職員をしていました。
住民票や戸籍の証明書を出す、あの窓口です。
正職員ではありません。
五十を過ぎてから入って、十二年勤めて、去年の三月で終わりました。
今は夫と二人で、庭のある古い一戸建てに住んでいます。
息子は同じ市内にいて、お嫁さんと、六歳になる孫がいます。
病院から帰ったその日から、私はおかしなことを始めました。
一日のうちに、自分が何と呼ばれたかを数えたのです。
朝、夫が台所から言います。
「おい、めがね知らんか」
昼、宅配の方が伝票を見て言います。
「芦田さん、印鑑かサインをお願いします」
夕方、お嫁さんから電話が来ます。
「お義母さん、日曜、お願いできますか」
夜、孫が来れば「おばあちゃん」です。
近所では「芦田さんの奥さん」。
回覧板にも「芦田様」と書いてあります。
三日数えて、やめました。
「千鶴」と呼ばれた回数が、三日でゼロだったからです。
窓口にいたころは、そうではありませんでした。
職場では、だれもが私を「芦田さん」と呼びました。
名字ですが、あれは私の名字です。
「芦田さん、この人、戸籍が遠いところだから時間かかりますよ」
「芦田さん、五番の方、少し耳が遠いみたい」
一日に何十回も呼ばれていました。
呼ばれるたびに、私は顔を上げて返事をしていました。
辞めてから半年、私はその声を一度も聞いていません。
引き出しの奥の、丸いはんこ
名前のことで、思い出すことがあります。
四十年前の話です。
結婚して、名字が変わりました。
私は、市の銀行の支店で通帳を作り直しました。
窓口の方が、新しい名字の欄を指して言いました。
「こちらに、新しいお名前でご捺印をお願いします」
私は、鞄から新しいはんこを出しました。
結婚が決まったときに、母が作ってくれたものです。
「芦田」と彫ってあります。
押してから、私は古いほうのはんこを、鞄の内ポケットにしまいました。
旧姓の、丸い小さなはんこです。
高校を出て働き始めたときに、自分の初めての給料で作ったものでした。
その晩、実家に寄りました。
母に、通帳が新しくなったことを話しました。
母は、台所で洗い物をしながら、背中で言いました。
「そう。もう、あっちの家の人だからね」
悪気はなかったと思います。
母は、そういう時代の人でした。
けれど私は、そのあと何も言えなくなって、湯のみを拭くのを手伝いました。
帰り道、電車の中で、内ポケットの小さなはんこを触りました。
指の腹で、彫ってある字をなぞりました。
自分の名前が、もう要らないものになった気がしたのです。
家に帰って、そのはんこを、たんすのいちばん下の引き出しの奥に入れました。
四十年、そこにあります。
一度も捨てていません。
捨てられなかった理由を、私はその日、うまく言葉にできませんでした。
「おばあちゃんの名前、なんていうの」
十一月の日曜でした。
孫を預かって、居間で折り紙をしていました。
六歳です。
保育園で、自分の名前を書く練習をしているそうです。
鉛筆を握って、たどたどしく、ひらがなを並べていました。
書き終わって、孫が顔を上げました。
「おばあちゃんの名前は、なんていうの」
私は、少し黙りました。
「おばあちゃん」ではない名前を、この子は聞いたのです。
「千鶴っていうのよ」
「ちづる」
孫が、声に出して繰り返しました。
「ちづる。……つる、いる?」
「鶴のつる。千のつるで、千鶴」
孫は、折り紙の裏に「ちづる」と書きました。
四文字、ぜんぶ、ひらがなです。
「じょうず」
私がそう言うと、孫はその紙を私にくれました。
夕方、お嫁さんが迎えに来ました。
玄関で、孫がその紙を指さして言いました。
「ママ、おばあちゃん、ちづるっていうんだよ」
お嫁さんは、少し驚いた顔をして、それから笑いました。
「知ってたけど、言われると新鮮ですね」
「そうねえ。私も、久しぶりに言ったわ」
「お義母さん、って呼んでばかりですもんね。すみません」
「謝ることじゃないのよ。呼びやすいほうでいいの」
そう答えながら、私は、本当にそうだろうかと思っていました。
その晩、孫が帰ったあとで、私は折り紙の裏を、しばらく見ていました。
自分の名前を、声に出したのは久しぶりでした。
書いてもらったのは、もっと久しぶりでした。
たぶん、四十年ぶりです。
差出人の欄が、名字で終わる
もうひとつ、気になっていたことがありました。
窓口を辞めたあと、私は手紙を書くようになりました。
嘱託仲間だった方が、去年から秋田に帰っています。
その方と、年に何回か、はがきのやりとりをしていました。
書くのは好きです。
ただ、いつも最後で止まりました。
差出人の欄です。
住所を書いて、そのあとに「芦田」と書いて、そこで終わるのです。
「芦田千鶴」と書くと、なんだか改まりすぎている気がしていました。
夫の名字だけを書いて出すと、受け取った方は、封を開けるまで私からだと分かりません。
秋田の方から来た返事に、一度だけ、こう書いてありました。
「お名前まで書いてくださると、うれしいです。芦田さんは、何人もいますから」
そのはがきを、私は冷蔵庫の横に貼りました。
貼ってから、自分でもおかしいと思いました。
はがき一枚を、台所の目につくところに貼る人がいるでしょうか。
でも、はがしませんでした。
「芦田さんは、何人もいますから」
その一行が、私には、名前を呼ばれたのと同じくらいの重さでした。
十二月に入って、年賀状の用意を始めました。
差出人の欄を、どうするか。
毎年、夫の名前を先に書いて、その下に「千鶴」と書いていました。
小さい字で、下のほうに。
今年は、もう少し大きく書きたいと思いました。
でも、四十枚を手で書くと、後半は字が震えます。
去年、最後の五枚が読みにくくなって、書き直しました。
それで、差出人のゴム印を作ることを考えました。
条件は、三つに決めました。
名字だけでなく、下の名前まで入れられること。
はがきの差出人の欄に収まって、住所と名前が一度に押せること。
インクが中に入っていて、朱肉やスタンプ台を出さずに押せること。
三つ目は、台所の引き出しから朱肉を探す手間をなくすためです。
探しているうちに、書く気がなくなることがあるのです。
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注文の画面で、彫る文字を打ち込む欄がありました。
一行目に住所。
二行目に、名前です。
私は「芦田」まで打って、指が止まりました。
そこで終われば、いつもと同じです。
「千鶴」と打ち足すのに、三十秒くらいかかりました。
打ってから、画面の中の四文字を、しばらく見ていました。
十日ほどで、小さな箱が届きました。
試し押しの紙に、一度押してみました。
住所の下に、「芦田千鶴」と並んでいました。
私はそれを持って、たんすのいちばん下の引き出しを開けました。
四十年前の、丸いはんこを出しました。
旧姓の三文字が、まだはっきり残っています。
二つを机の上に並べて、私は少し笑いました。
どちらも、私の名前でした。
一度だけ、頼みました
年が明けて、一月の夜のことです。
夫と二人で、夕食の片づけをしていました。
夫は六十五歳で、二年前に会社を辞めました。
口数の少ない人です。
四十年、けんからしいけんかもしていません。
その代わり、名前で呼ばれたこともありません。
私は、水を止めて言いました。
「ひとつだけ、お願いしてもいい」
「なんだ」
「たまにでいいから、『お母さん』じゃなくて、名前で呼んでくれない」
夫は、ふきんを持ったまま、私を見ました。
「名前って」
「千鶴。私の名前」
長い間がありました。
夫は、少し困った顔をしていました。
「……急に、どうした」
「病院で呼ばれたの。芦田千鶴さんって」
「そりゃ、病院は呼ぶだろう」
「うん。それがね、うれしかったの」
自分で言って、また恥ずかしくなりました。
夫は、ふきんをたたんで、かけました。
それから「まあ、考えとく」と言って、居間に行きました。
その晩は、それきりでした。
私は、頼んだ自分を少し後悔しました。
よけいなことを言った、と思ったのです。
四十年言わなかったことを、なぜ今さら言ってしまったのか。
布団に入ってからも、しばらく眠れませんでした。
暗い天井を見ていたら、四十年前の母の背中を思い出しました。
もう、あっちの家の人だからね。
あのとき言えなかった言葉が、今になって出てきたのかもしれません。
私は、あっちの家の人になっても、名前まで置いてきたつもりはなかったのです。
窓口の、向こう側
一月の終わりに、市役所へ行く用事ができました。
印鑑登録の証明書が要ったのです。
十二年勤めた、あの窓口です。
辞めてから、一度も行っていませんでした。
番号札を取って、長椅子に座りました。
正面に、証明の窓口が三つ並んでいます。
私が立っていたのは、いちばん右でした。
今は、若い女の人が座っています。
私の知らない顔でした。
十分ほど待って、呼ばれました。
「二十四番でお待ちの、芦田千鶴さま」
書類を受け取って、印鑑を押して、それで終わりです。
三分もかかりませんでした。
立ち上がって振り返ったとき、うしろの事務室から声がしました。
「あれ、芦田さん」
顔を出したのは、私が辞める前の年に入ってきた職員さんでした。
三十くらいの方です。
「お久しぶりです。今日はどうされたんですか」
「印鑑証明を。もう、こっち側だから」
「こっち側って」
「座って待つほうよ」
その方は笑って、「番号でお呼びしちゃって、すみません」と言いました。
「いいのよ。ちゃんと名前も呼んでくれたもの」
言ってから、自分でも意外な言葉だと思いました。
帰りのバスで、窓の外を見ながら考えました。
私は十二年、あの席に座って、一日に何十回も、人の名前を呼んでいました。
「田中太郎さま」「佐々木和江さま」。
証明書を渡すための、ただの手続きです。
そう思っていました。
けれど、呼ばれた人の中には、その日、ほかにだれからも名前を呼ばれなかった人がいたかもしれません。
私は、その重さを一度も考えたことがありませんでした。
呼ぶ側にいるうちは、分からないのだと思います。
バスが川を渡るところで、私は鞄から証明書の封筒を出しました。
宛名の欄に、私の名前が印字してありました。
玄関で
二月のはじめの、寒い朝でした。
私は、公民館の集まりに出かけるところでした。
靴を履いて、鞄を持って、ドアに手をかけたときです。
居間から、夫の声がしました。
「千鶴。傘、持ったか」
私は、ドアノブを握ったまま、動けませんでした。
振り返ると、夫は新聞を持ったまま、こちらを見ていませんでした。
「……持った」
そう答えるのが、やっとでした。
外に出て、門のところで一度、立ち止まりました。
雪が、少しだけ降っていました。
傘は、鞄に入っていました。
その日から、二週間ほど経ちます。
夫は、あれから一度も、私を名前で呼んでいません。
今朝も「おい、ごみの日は今日か」でした。
照れているのだと思います。
四十年やってこなかったことを、六十五歳から毎日はできないでしょう。
私も、もう一度頼むつもりはありません。
一度でよかったのです。
それでも、時々、考えます。
あの朝、夫が呼んだのは、私の名前だったのでしょうか。
それとも、急いでいたから、いちばん短い言葉が出ただけだったのでしょうか。
聞けば分かることです。
でも、私はまだ聞けていません。
年賀状の返事は、もう全部出しました。
秋田の方からの返事に、こう書いてありました。
「千鶴さん、今年はお名前が大きくて、すぐ分かりました」
冷蔵庫の横に、そのはがきも貼ってあります。
二枚、並んでいます。
孫からもらった折り紙は、机の引き出しの、丸いはんこの隣に入れました。
自分の名前を呼んでもらうために、六十二の私にできることは、まだあるのでしょうか。
それとも、呼ばれなくても平気になっていくのが、これからということなのでしょうか。
私には、まだ分かりません。
あなたなら、どうしますか?
最後に、だれかに自分の名前を呼ばれたのは、いつでしたか。その人は、どんな場面で呼んでくれましたか。
もし家族に「名前で呼んで」と頼めるとしたら、あなたは何と言って切り出しますか。言わずにおくとしたら、それはなぜですか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 役割の呼び名は、便利だから増えていく
お母さん、お義母さん、おばあちゃん、奥さん。
どれも間違いではなく、呼ぶ側にとっては分かりやすい言葉です。
便利だから増え、増えたぶんだけ、名前を使う場面が減っていきます。
2. 名前を呼ばれる場所は、たいてい外にある
職場、病院、教室、窓口。
名前で呼ばれてきた場所の多くは、家の外にありました。
その場所を一つ手放すと、呼ばれる回数は、思っているより急に減ります。
3. 呼んでもらうより先に、自分で書く場面を作る
人に頼むのは、四十年分の照れがあって難しいものです。
けれど、差出人の欄に名前まで書くかどうかは、自分だけで決められます。
書いた名前は、受け取った人が読み上げてくれることがあります。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(名字だけでなく下の名前まで入れられる・はがきの差出人の欄に収まる・インクが中に入っていて朱肉が要らない)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
はがきの差出人に押す、住所と名前のゴム印
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この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。