夫婦ふたりの時間
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夫婦の旅行が楽しくない60代。私が「午後の三時間だけ、別行動」を頼んだ日

カフェで向かい合って話す二人の女性
kuroko

夫の旅程表は、いつも便箋一枚に収まっています。

罫線の左端に、鉛筆で時刻が縦に並びます。

「八時〇〇分 宿を出る」

「八時四十分 一つ目の寺」

「十時十五分 二つ目の寺」

「十一時四十分 昼(並ぶ)」

「十四時〇〇分 展望台」

十五分刻みの時刻の横に、ところどころ小さな字で「トイレ」「バス三番乗り場」と書き足してあります。

旅行の三日前になると、夫はそれを同じものを二枚書いて、四つに折って、一枚を私に渡します。

私は四十年近く、その紙をかばんの内ポケットに入れて歩いてきました。

去年の秋も、そうでした。

玄関の上がりかまちで

私は六十六歳です。

夫は六十八歳で、三年前に勤めを終えてから、年に二回の旅行を何よりの楽しみにしています。

行き先を決めるのも、宿を取るのも、電車の時刻を調べるのも夫です。

居間のテーブルに時刻表と地図を広げて、赤鉛筆を片手に何日もかけて組み立てます。

見たいものは、たしかに全部見られます。

有名なお寺も、行列のできるお店も、展望台からの景色も。

けれど帰ってくると、私は玄関の上がりかまちに座り込んで、しばらく立てなくなります。

靴を脱ぐ前に、まず座る。

それが、旅行から帰った日のいつもの形になっていました。

足の重さは、三日くらい抜けません。

四日目にやっと洗濯物をたためるようになったころ、夫が次の旅行の話を始めます。

「春は、北のほうにするか」

「そうね」

そう答える自分の声が、年々小さくなっていくのが分かりました。

「せっかく来たのに」

去年の秋は、山あいの温泉町でした。

一日目は夫の旅程表どおりに寺を三つ回り、昼は四十分並んで蕎麦を食べました。

午後はロープウェイで展望台へ上がり、宿に着いたのは夕方の五時過ぎです。

部屋に通されると、私は座卓の前に座ったまま、しばらくお茶にも手が伸びませんでした。

夫は窓際の椅子で、明日の旅程表を広げています。

「明日は七時半に朝飯だ。八時十五分のバスに乗れば、滝まで行ける」

私は湯のみを両手で持ったまま、少しだけ言ってみました。

「明日の午前は、宿のまわりを歩くだけでもいいんだけど」

夫は顔を上げて、驚いた顔をしました。

「せっかく来たのに」

その一言で、私は黙りました。

「……そうね。せっかくだものね」

夫は意地悪で言っているのではありません。

それは、四十年一緒にいれば分かります。

計画を立てて、私を連れていくことが、夫なりの楽しませ方なのです。

滝のバスを旅程に入れたのも、私が夏にテレビを見ながら「きれいね」と言ったのを覚えていたからでした。

だから、「楽しくない」とは言えませんでした。

五年前の、あの一言

言えない理由は、もうひとつありました。

五年前の春に一度だけ、私はひどい言い方をしたことがあるのです。

その旅行は三泊四日で、毎晩宿を移りました。

朝ごとに荷物を詰め直し、駅のコインロッカーに入れ、夕方に出して、次の宿へ運ぶ。

二人分の荷物は、夫と共用の大きなボストンバッグにまとめていました。

財布も、飲み物も、折りたたみ傘も、全部その中です。

三日目の午後、大きなお寺の石段の下で、私は言いました。

「少しだけ、ここで座っててもいい?」

「あと十分で次のバスだぞ。上の本堂だけは見ておかないと」

夫はそう言って、バッグを肩にかけ直し、石段を上がっていきました。

財布も飲み物もバッグの中ですから、私は自動販売機でお茶ひとつ買えません。

追いかけるしかありませんでした。

石段の途中に、小さな木の看板が立っていました。

「郷土の織物資料館 この先二百メートル」

私の祖母は、若い頃に機を織っていたと、母から聞いたことがあります。

少しだけ足が止まりましたが、夫の背中はもう石段の上でした。

家に帰った夜のことです。

夫が居間でガイドブックを広げて、うれしそうに言いました。

「次は、どこにする」

私は玄関に座り込んだまま、答えました。

「もう、どこにも行きたくない」

自分の声が、思っていたより大きく響きました。

夫は何か言いかけて、やめました。

ガイドブックを閉じて、本棚に戻しました。

その年の秋、旅行の話は一度も出ませんでした。

翌年の春に夫がまた地図を広げたとき、私はほっとして、それから申し訳なくなりました。

あの人から旅行を取り上げかけたのは、私の一言だったからです。

それからは何を言われても、「そうね」と答えるようにしてきました。

仲居さんの一言

去年の秋の宿に、話を戻します。

その夜、夫が大浴場に行っているあいだに、仲居さんが布団を敷きに来てくれました。

私と同じくらいの年の方で、手際よくシーツを広げながら「明日はどちらへ」と聞いてくれました。

「主人が、滝まで行くって。主人は歩くのが速くて」

私が笑うと、その方も笑って、それからこう言いました。

「ご夫婦で、別々に過ごされる方も、けっこういらっしゃいますよ」

「別々に?」

「ええ。昼間はそれぞれお好きなところへ行かれて、夕食の時間にここで待ち合わせて。うちは二泊なさるお客さんが多いので、二日目にそうされる方が多いですね」

「喧嘩でもしてるのかと思われないかしら」

「いいえ。そういうご夫婦ほど、夕食のときによくしゃべってらっしゃいますよ」

仲居さんは枕を並べながら、「同じものを見ていると、話すことって案外ないでしょう」と言いました。

意外でした。

旅行は二人で全部一緒に回るものだと、思い込んでいたのです。

夫婦で来て、昼間は別々に過ごして、夕食で話す。

そういう旅もあるのだと、そのとき初めて知りました。

「ここの三時間だけ、とかにすれば?」

家に帰って二週間ほどたったころ、娘から電話がありました。

東京で暮らす美穂は、四十歳になります。

「旅行、どうだった?」

「楽しかったわよ。お寺を三つ回って、滝も見て」

「お母さん、声が疲れてる」

美穂には、昔から隠しごとができません。

私は、仲居さんの話をしました。

「でも、別行動なんてお父さんに言ったら、がっかりするでしょう」

「全部別にしようって言うからだよ」

美穂は、あっさり言いました。

「ここの三時間だけ、とかにすれば? お父さんって、時間が決まってるほうが安心する人じゃない」

そう言われて、あの便箋の旅程表が浮かびました。

十五分刻みで時刻を書く人です。

「別行動」も、時刻が書いてあれば、あの人の旅程表に入るのかもしれない。

十二月の夜、夫が居間で春の旅行の地図を広げたとき、私は隣に座りました。

「ひとつ、お願いがあるんだけど」

「なんだ」

「宿を移らずに、同じところに二泊できないかしら」

夫は赤鉛筆を止めました。

「移らないと、回れる所が減るぞ」

「減っていいの。毎朝荷物を詰め直すのが、もうしんどくて」

夫は地図を見たまま、「うむ」と小さくうなりました。

「それと、もうひとつ。二日目の午後の三時間だけ、別行動にしてほしいの」

居間の時計の音が、やけに大きく聞こえました。

「楽しくないのか」

夫の声は、怒ってはいませんでした。

むしろ、少し困っているように聞こえました。

「楽しくないんじゃないのよ。あなたの行きたいところに、私の足がついていけないの。三時間だけ、自分の速さで歩いてみたいの」

夫はしばらく黙っていましたが、「三時間か」と言って、地図を広げ直しました。

赤鉛筆が、二日目のところで止まりました。

「十三時から十六時。十六時に宿の玄関。それでいいか」

「ええ」

夫が旅程表に「別行動」と書くのを、私は横で見ていました。

自分の分だけのかばん

三月になって支度を始めたとき、困ったのは荷物でした。

いつもの共用のボストンバッグは、夫が持ちます。

三時間だけとはいえ、私はそのあいだ手ぶらでは歩けません。

五年前の石段の下で、お茶ひとつ買えなかったことを思い出しました。

自分の分だけを持って歩ける、小さくて軽いものが要る。

家にあるのは、法事に使う黒いハンドバッグと、スーパーへ行くときの布の袋くらいです。

駅ビルのかばん売り場を、二回見て回りました。

肩にかけるものは、歩いているうちに片方の肩が下がってきそうでした。

条件は三つにしました。

ひとつは、背負っても手で提げても使えること。

電車やお店の中では、手に持ちたかったからです。

二つめは、急な雨でも中身が濡れないこと。

山あいの町は、天気が変わりやすいと聞いていました。

三つめは、観光案内の紙や本が折れずに入ること。

夫の旅程表と、行った先でもらうパンフレットを、くしゃくしゃにしたくなかったのです。

値段や色は、三つの条件のあとで見ました。

選んだのは、両手が空くリュックでした。

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家に帰って、財布と水筒と小さな手ぬぐいを入れてみました。

背負って居間を一周すると、夫が新聞の向こうから「遠足か」と言いました。

「三時間の遠足よ」

私が言うと、夫は少し笑いました。

十三時、宿の玄関で

四月、夫が選んだのは、去年の秋と同じ温泉町の、同じ宿でした。

「あの仲居さんのところなら、二泊でも気が楽だろう」

夫はそれだけ言いました。

二日目の午後一時、私たちは宿の玄関に並んで立っていました。

空は薄く曇っていました。

「傘は持ったか」

「リュックには財布と水筒だけよ。傘はそっちのバッグに一本でしょう」

夫は黙って共用のバッグを開け、折りたたみ傘を取り出すと、私のリュックの横のポケットに差し込みました。

「あなたは?」

「展望台は屋根がある」

そう言って、夫は先に歩き出しました。

私は反対の道へ曲がりました。

誰の背中も追いかけない道は、思っていたより長く感じました。

十五分ほど歩いたところで、見覚えのある形の看板が目に入りました。

「郷土の織物資料館」

五年前のお寺の町とは違う町なのに、同じ言葉が書いてありました。

地図に小さく載っていただけの、木造の建物でした。

中は薄暗くて、私のほかにお客さんは二人だけでした。

入ってすぐのところに、古い機織り機が一台置いてありました。

私は、その前の長椅子に座りました。

座りたいときに座れる。

それだけのことを、私はずいぶん長いあいだ、旅先でしていなかったのです。

受付の女性が、お茶を持ってきてくれました。

「このあたりは、昔はほとんどの家に機織り機があったんですよ」

「祖母も、若い頃に織っていたそうなんです。見たことはないんですけど」

「じゃあ、これ、持ってみます?」

その方は、舟のような形の木の道具を、私の手のひらにのせてくれました。

糸を通して、左右に渡すものだそうです。

思っていたより軽くて、角がすっかり丸くなっていました。

祖母の手も、こんなふうに丸くなった木を握っていたのかもしれません。

展示を見終わったとき、時計は二時半を回っていました。

一時間半、そこにいたことになります。

夫となら、五分で出ていたと思います。

外に出ると、細かい雨が降り始めていました。

私はリュックの横から傘を抜いて、開きました。

夕食のときに、話すことが増えた

四時少し前に宿に戻ると、夫は先に着いていました。

上着が、部屋のハンガーに掛けてありました。

肩のところが、濃い色に濡れていました。

「展望台、屋根があったんでしょう」

「帰りの道には、なかった」

夫はそれだけ言って、風呂に行きました。

夕食の席で、「どうだった」と聞かれて、私は織物の話をしました。

祖母のこと、木の道具の丸い角のこと、受付の方がいれてくれたお茶のこと。

夫は、展望台からの景色と、雨宿りに入った蕎麦屋の話をしました。

「そこの親父が、昔は鉄道で働いてたって言うんだ。三十分も話し込んでな」

同じものを見た日より、話すことがずっと多かったのです。

夫がこんなに蕎麦屋の話をするのを、私は初めて聞いた気がしました。

その夜、布団に入ってから、夫が天井を見たまま言いました。

「次も、三時間はやるか」

「ええ」

「……五年前、どこにも行きたくないって言われたときは、こたえた」

私は、しばらく返事ができませんでした。

「ごめんなさい」と言おうとして、言えないうちに、夫の寝息が聞こえてきました。

家に帰った日、私はやっぱり玄関の上がりかまちに座りました。

でも、その日の夕方には洗濯機を回していました。

宿を移らなかった分、荷物を詰め直さずに済んだのだと思います。

帰る前に、駅の売店の隣で、自分の分の折りたたみ傘を買いました。

リュックの横のポケットに収まる長さのもので、夫の傘よりずっと軽いものにしました。

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九月の旅程表

この九月も、夫は同じ町の、同じ宿を選びました。

夫は相変わらず朝が早く、歩くのも速いままです。

私は相変わらず、途中で座りたくなります。

二日目の午後、私はもう一度あの資料館に寄りました。

受付の方が、「また来てくださったんですね」と言ってくれました。

それだけのことが、少しうれしかったのです。

五年前の「ごめんなさい」は、まだ言えていません。

言えないまま、旅程表の紙は、今も私のリュックの内側のポケットに入っています。

便箋一枚、罫線の左端に、鉛筆の時刻が縦に並んでいます。

「八時〇〇分 宿を出る」の下のほうに、「十三時〜十六時 別行動」とあります。

その横に、前にはなかった小さな字が一行、書き足してありました。

「傘 二本」

あなたなら、どうしますか?

次の旅行で、半日だけ自由な時間があるとしたら、どこへ行きますか。

そして、そのことを相手に話すとしたら、どんな言い方にしますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 「楽しくない」とは言いにくい

相手が良かれと思って立てた計画には、不満を言いにくいものです。

「楽しくない」ではなく、「この時間だけこうしたい」と、範囲を区切って頼むほうが伝わりやすいことがあります。

2. 別行動は、仲が悪いという意味ではない

同じ宿に泊まり、夕食を一緒に食べる。

昼間だけ別々に過ごす旅の形もあります。

「全部を一緒に」と決めているのは、たいてい自分たちの思い込みです。

3. 移動を減らすと、疲れ方が変わる

宿を毎晩移ると、荷造りと移動だけで時間が過ぎます。

同じ宿に連泊すると、荷物を置いたまま出かけられます。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(両手が空く・雨に強い・紙が折れずに入る)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

2wayの軽いリュック

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  • ブランド:アネロ グランデ(anello GRANDE)
  • 販売ページの記載:製品サイズ 11×30×35cm・A4サイズ収納可
  • 販売ページの記載:強撥水・ポケット10か所(フロント/背面のセキュリティポケット/サイドポケットなど)
  • 販売ページの記載:背負う・手で提げるの2通りで使える
  • 選ぶときは、A4が入るか・雨に強いか・背負う以外でも持てるかを見ると選びやすくなります。

リュックに入れておく折りたたみ傘

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  • 販売ページの記載:重さは188〜230g(サイズにより異なる)
  • 販売ページの記載:晴雨兼用・自動開閉・収納ポーチ付き
  • 販売ページの記載:畳んだときの梱包サイズは27.7×6.3×6cm
  • 選ぶときは、重さ・畳んだときの長さ(ポケットに入るか)を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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