仕事を終えたあと
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パートを辞めた60代。毎日が暇になった私が、手帳に最初に書いた一行

住宅街の坂道を歩く女性の後ろ姿
kuroko

四月の雨は、三日続けて降りました。

パートを辞めた翌週の火曜日、私は朝の八時に、まだ寝間着のまま台所の窓の前に立っていました。

ガラスの向こうでは、細い雨が団地の駐輪場の屋根をたたいていました。

十二年間、この時間の私は、自転車を漕いでスーパーに向かっていたはずです。

雨の日は合羽を着て、ハンドルを握る手がかじかむのを我慢しながら。

その日は、急ぐ理由が何ひとつありませんでした。

冷蔵庫の扉には、三月のシフト表が、まだマグネットで留めてありました。

私の名前の横に、「早」「早」「休」「遅」と、鉛筆の丸がついています。

もう来ない日の予定表です。

外そうと思って手を伸ばして、なぜか、そのままにしました。

「これからは自由ね。うらやましい」

スーパーのレジに、十二年立ちました。

五十一歳で始めて、辞めたのは六十三歳の春です。

最後の日、休憩室でパート仲間から花束をもらいました。

黄色いガーベラと、かすみ草でした。

「これからは自由ね。うらやましい」

いちばん長く一緒に働いた人が、そう言って笑いました。

「ゆっくりするわ。朝も寝坊してやるの」

私も笑って答えました。

本当に、そのつもりでした。

辞めた理由は、ひとつではありません。

同じ時間立っているのが、前より疲れるようになったこと。

夕方になると、ふくらはぎがぱんぱんに張って、家に帰っても座り込んでしまう日が増えていました。

それから、去年の秋に入った新しいレジのことです。

新しいレジの前で

新しいレジは、画面を指で押して操作するものでした。

割引のシールが貼られた商品、ポイントカード、それから何種類もある支払いの方法。

若い人たちは、一週間もしないうちに慣れていきました。

私は、手順を書いたメモを制服のポケットに入れて、何度も見返していました。

十一月の夕方、いちばん混む時間のことです。

年配の男性のお客さんが、スマホで支払いたいと言いました。

画面のどこを押せばいいのか、分からなくなりました。

後ろには、かごを持った人が五人並んでいました。

「すみません、少々お待ちください」

そう言いながら、指が画面の上をうろうろしました。

「まだかかるの?」

列の後ろのほうから、そんな声が聞こえました。

隣のレジから、二十歳くらいの男の子が飛んできてくれました。

「ここです、この青いところ。大丈夫ですよ」

彼はさっと押して、お客さんに頭を下げて、自分のレジに戻っていきました。

優しい子でした。

責められたわけではありません。

それなのに、その日、帰りの自転車で涙が出ました。

できていたことが、できなくなっていく。

十二年やってきた場所で、自分が「助けられる人」になっていく。

そのことが、ただ悲しかったのです。

年が明けて、東京にいる娘から電話がありました。

「お母さん、声が疲れてるよ。もう無理しなくていいのに」

「無理なんてしてないわよ」

「してるよ。電話の最初に、ため息ついてるもん」

言われて、はじめて気がつきました。

辞めると店長に伝えたのは、その翌週でした。

「今日は何してた?」

辞めて一か月が経つころには、一日の組み立て方が分からなくなっていました。

朝は、目が覚めた時間に起きます。

六時の日もあれば、九時近くまで布団にいる日もありました。

洗濯をして、掃除機をかけて、それでもまだ十時です。

テレビをつけると、番組が次の番組に変わっていきます。

お昼は、朝の残りのごはんにお茶漬け。

気がつくと窓の外が暗くなっていて、夫が仕事から帰ってきます。

夫は、あと二年は今の会社で働くことになっていました。

「ただいま。今日は何してた?」

夫は毎晩、上着を脱ぎながら、そう聞きました。

「別に。何も」

「そうか」

そんな会話が、何日も続きました。

何もしていない、と答えるのが嫌だったのではありません。

何もしていないのに、夕方にはくたくたに疲れている。

その理由が自分でも分からないのが、嫌だったのです。

五月の連休明けに、階段で三階の奥さんと会いました。

「あら、お仕事辞めたんですって。毎日ゆっくりできていいわね」

「ええ、まあ」

うまく笑えませんでした。

部屋に戻ってから、ふと数えてみました。

この一週間、夫以外の誰かと、何分話しただろう。

スーパーの店員さんに「袋はいりません」と言ったのと、今の階段の三十秒。

それだけでした。

十二年間、一日に何百人と「いらっしゃいませ」を交わしていた私が、です。

暑中見舞いの余白

七月のはじめに、はがきが一枚届きました。

三年前に先に辞めた、パート仲間の佐山さんからでした。

表には、風鈴の絵が印刷されていました。

裏の余白に、見慣れた丸い字で、こう書いてありました。

「私も辞めた年は、曜日がわからなくなりました。だから、週に三つだけ、家を出る用事を作りました」

週に三つ。

多くも少なくもない数でした。

私はしばらく、その数字を指でなぞっていました。

その夜、思い切って佐山さんに電話をかけました。

「はがき、ありがとう。あれ、読んで電話しちゃった」

「あら、うれしい。どう、ひまでしょう」

佐山さんは、昔と同じ調子で笑いました。

「ひまっていうか、何をしていいか分からないの。一日が長いのに、何も残らなくて」

「わかる。私なんて最初の年、火曜と水曜の区別がつかなかったもの」

「三つって、何にしたの?」

「最初は、ほんとに小さいことよ。燃えないごみの日と、郵便局と、公民館の掲示板を見に行くの」

「掲示板?」

「そう。見るだけ。でもね、見に行くって決めると、その日は着替えるのよ」

着替える。

私は、自分が昼過ぎまで寝間着でいる日があることを思い出しました。

「毎日じゃなくていいの。毎日にすると、できなかった日に落ち込むから」

佐山さんは、そう付け足しました。

電話を切ってから、冷蔵庫のシフト表を見ました。

思えば、パートに行っていた十二年間、私の予定はぜんぶ、あの紙に書かれていました。

店長が決めて、私はそれに合わせる。

自分で決めた予定を、私はもう何年も、どこにも書いていませんでした。

一日に一行の手帳

次の日、駅前の本屋の文房具売り場に行きました。

手帳が棚にずらりと並んでいました。

最初に手に取ったのは、一日に一ページある、厚い手帳でした。

でも、開いてすぐに棚に戻しました。

この広い白いページが、毎日空っぽのまま続いていくところを想像したからです。

書く欄が広いと、空白が目立つ。

今の私には、それがいちばんこたえる気がしました。

選んだのは、ひと月が見開きになっていて、一日に一行か二行しか書けない大きさのものでした。

かばんにも入るし、何も書いていない日があっても、目立ちません。

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家に帰って、台所のテーブルで手帳を開きました。

ボールペンを持ったまま、しばらく考えました。

最初に書いた予定は、これだけです。

「火曜 十時 図書館」

それ以外の日は、空白のままにしました。

佐山さんは三つと言いましたが、まずひとつから始めることにしたのです。

翌週の火曜日、私は九時に着替えて、十時に家を出ました。

図書館までは、歩いて二十分です。

平日の午前の図書館は、思ったより人がいました。

新聞を読んでいる男の人、絵本を選んでいる若いお母さん、窓ぎわで居眠りしている人。

私は料理の棚の前で三十分迷って、煮物の本を一冊だけ借りました。

カウンターの人が「二週間後の火曜日までです」と言いました。

返しに来る日が、向こうから決まりました。

家に帰ってから、手帳の「火曜」の欄に、小さく丸をつけました。

丸をつけるために出かけたようなものでした。

それでよかったのだと思います。

その晩、夫がいつものように聞きました。

「今日は何してた?」

「図書館に行ってきた」

夫は上着をハンガーに掛ける手を止めて、こちらを見ました。

「そうか」

同じ「そうか」なのに、少し違って聞こえました。

四日目の雨

図書館の帰り道、川沿いの遊歩道を、何人もの人が歩いているのを見ました。

それで、朝の散歩を足してみることにしました。

手帳の月曜から金曜まで、全部に「朝 散歩」と書きました。

張り切っていたのです。

けれど、三日で終わりかけました。

理由は、二つあります。

一つめは、靴でした。

家にあったのは、買い物用の白いスニーカーです。

三十分ほど歩くと、右足の親指の付け根が痛くなりました。

帰ってから靴を脱いでみると、そこが赤くなっていました。

幅がきついのだと、そのとき初めて気がつきました。

十二年、レジでは店の決まりの靴を履いていたので、自分の足の形を気にしたことがなかったのです。

二つめは、雨でした。

四日目の朝、窓を開けると、また細い雨が降っていました。

今日は休もう、と思いました。

次の日は晴れていました。

でも、なんとなく足が玄関に向きませんでした。

一日休んだら、次の日も休みました。

その次の日も。

手帳の「朝 散歩」の行が、五つ、六つと、何も書かれないまま過ぎていきました。

自分で書いた予定を守れないのは、人に決められた予定を守れないより、ずっと恥ずかしいものでした。

そのうち、手帳を開くのもおっくうになりました。

白いスニーカーは一週間、玄関の隅に置いたままになりました。

足が痛くならないこと、雨の日でも履けること

もう一度始めようと思えたのは、娘からの電話がきっかけでした。

「お母さん、最近どう?」

「図書館には行ってるのよ。散歩は三日でやめちゃったけど」

私は正直に言いました。

「三日やったんだ。すごいじゃん」

「すごくないわよ。四日目で雨が降って、それっきり」

娘は少し笑ってから、言いました。

「じゃあ、雨の日のことを先に決めておけば? 私も会社までの道、雨の日の道を決めてるよ」

雨の日のことを、先に決めておく。

電話を切ってから、手帳を開きました。

「朝 散歩」と書いた五つの行を、二本線で消しました。

そして、月曜と水曜と金曜にだけ、書き直しました。

その下に、小さく付け足しました。

「小雨なら行く。本降りなら休む。休んだ次の日は、五分だけでも出る」

毎日にしなかったのは、休んだ日に自分を責めたくなかったからです。

それから、靴を買いに行きました。

売り場には、驚くほどたくさんの靴が並んでいました。

軽いもの、走れるもの、色のきれいなもの。

最初は、値段の安い順に見ていました。

途中で、自分が三日でやめた理由を思い出しました。

足が痛くならないこと。

雨の日でも履けること。

この二つだけを条件にしました。

見た目や色は、二番目にしました。

足の幅を測ってもらうと、思っていたより広いことが分かりました。

それで、幅の広いもの(4Eという表示のもの)を選び、雨の日でも履けるものにしました。

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続けるための靴であって、頑張るための靴ではありません。

家に帰って、白いスニーカーの隣に並べました。

小雨の日のために、つばのある帽子もひとつ選びました。

傘をさすと片手がふさがって、川沿いの柵につかまれないのが気になったからです。

条件は、両手が空くことと、少しの雨ならはじくことの二つにしました。

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「こむぎ、ご挨拶は?」

朝七時半に家を出て、川沿いを三十分歩いて帰る。

手帳には「月・水・金 朝」とだけ書きました。

最初の週は、誰とも目を合わせずに、前だけ見て歩きました。

二週間が過ぎたころ、同じ時間に、同じ茶色い柴犬を連れた女性とすれ違うようになりました。

私より少し年上に見える、白い帽子の人でした。

三度目に、向こうから声をかけられました。

「おはようございます」

「あ、おはようございます」

四度目には、私から言いました。

五度目のときには、柴犬が私の靴のにおいをかぎに来ました。

「こら、こむぎ。ご挨拶は?」

女性がリードを引きながら、笑いました。

「こむぎちゃんっていうんですか」

「そうなの。パンみたいな色でしょう」

犬の名前は、こむぎです。

女性の名前は、今も知りません。

何の仕事をしていた人なのかも、どこに住んでいるのかも知りません。

それでも、朝に挨拶をする人がひとりいるというのは、思っていたよりずっと大きなことでした。

九月の小雨の朝、迷いながら家を出ると、遊歩道に白い帽子が見えました。

こむぎは、黄色い雨合羽を着せられていました。

「あら、雨でも来たの」

「小雨なら来るって、決めてるんです」

「私もよ。この子が雨でも行きたがるから」

秋になって、その人から教わったことがあります。

「そこの角のパン屋さん、火曜だけ食パンが焼きたてなんですよ。十時半ごろ」

火曜の十時半。

図書館の帰りに、ちょうど通る時間でした。

それ以来、火曜日は図書館の帰りに、角のパン屋に寄るようになりました。

焼きたての食パンは、袋の口を閉じると中が曇るくらい温かいのです。

手帳の火曜の欄には、いま、二つの予定が書いてあります。

冷蔵庫のシフト表

あれから、半年が経ちました。

手帳は、まだ半分以上が空白です。

埋めるつもりもありません。

月・水・金の朝と、火曜の図書館とパン屋。

それに、ときどき佐山さんとのお茶が一行増えるくらいです。

先月、佐山さんに「三つには、まだ届いてないの」と言うと、「二つと半分ね」と笑われました。

夫に「今日は何してた?」と聞かれると、今は答えられます。

「川沿いを歩いて、こむぎに会って、パンを買ってきた」

「こむぎって誰だ」

「犬よ。飼い主さんの名前は知らないの」

夫は「なんだそれは」と言って、少し笑いました。

十月のある晩、夕飯のあとで、夫がぽつりと言いました。

「毎晩、何してたって聞くの、嫌だったか」

私は、湯のみを持ったまま、夫の顔を見ました。

「……ちょっとね」

「そうか。悪かったな」

夫は、テーブルの上の手帳に目を落としました。

「十二年、お前はいつも俺より先に家を出てたからな。家にいるお前に、何を聞けばいいのか分からなかったんだ」

責めているのではなく、気にかけてくれていた。

あの「今日は何してた?」は、そういう言葉だったのかもしれません。

ときどき、パート時代の夢を見ます。

レジの前に立って、次のお客さんを待っている夢です。

目が覚めると、少し寂しくなります。

あの場所に、もう私の名前の欄はありません。

冷蔵庫の三月のシフト表は、先週、やっと外しました。

四つ折りにして、手帳のうしろのポケットに入れました。

捨てることは、できませんでした。

同じマグネットの下には、いま、角のパン屋の小さなチラシが一枚留めてあります。

「火曜日 食パン焼きたて 十時半ごろ」

黄ばんだ紙の端が、冷蔵庫の扉を開けるたびに、少しだけ揺れます。

あなたなら、どうしますか?

もし来週、自分のためだけの予定をひとつ入れるとしたら、何曜日の何時にしますか。

そして、その予定に「行く理由」をひとつだけ足すとしたら、何にしますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 予定がなくなると、曜日の感覚から消えていく

仕事をしている間は、予定が向こうからやってきます。

辞めたあとは、予定を自分で作らないかぎり、一週間が均一な時間になります。

「毎日」と決めずに、「週に二つか三つ」から始めるほうが続けやすかった、という人もいます。

2. 「暇を埋める」より「出かける理由」を作る

時間を埋めようとすると、やることを探し続けることになります。

そうではなく、家を出る理由をひとつ作ると、その前後の時間も自然に決まります。

図書館、買い物、散歩、教室。目的は小さくてかまいません。

3. ひとりで始めたことが、顔見知りにつながることがある

友達を作ろうとしなくても、同じ時間に同じ道を歩いていると、挨拶をする人ができることがあります。

名前も知らない関係で十分です。

無理に誰かと約束をしなくても、外に出る理由があれば、人とのつながりは後からついてくることがあります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(足が痛くならないこと・雨の日でも履けること)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

晴雨兼用のウォーキングシューズ(幅広)

選ぶときは、足の幅の表示(3E・4Eなど)・片足の重さ・雨の日に履けるか・脱ぎ履きのしやすさを見ると選びやすくなります。

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  • メーカー:ムーンスター
  • 販売ページの記載:晴雨兼用・防水・4E・22〜25cm
  • 販売ページの記載:重さ 270g(片足/22.0cm)・プラットフォームの高さ2cm・レースアップ
  • 販売ページの記載:素材は合成繊維、ソールは合成底
  • 足の形や幅の感じ方には個人差があります。可能であれば、実際に履いて確かめてください

A6サイズのマンスリー手帳

選ぶときは、1日に書ける行数・持ち歩けるサイズ・何月始まりかを見ると選びやすくなります。

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  • 販売ページの記載:サイズ 幅11.1×高さ15.4cm・96頁
  • 販売ページの記載:月間ページはブロック式・日曜始まり・月別インデックス・ペンホルダー付き
  • 販売ページの記載:掲載期間は2026年12月1日〜2028年3月31日

小雨の日にかぶる、つばのある帽子

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  • 販売ページの記載:素材はポリエステル100%・表面に撥水加工
  • 販売ページの記載:つばの長さ10cm・つばにワイヤー入り・あご紐付き
  • 販売ページの記載:アジャスターでサイズを調整できる・手洗いのみ
  • 選ぶときは、つばの長さ・頭まわりを調整できるか・洗い方を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

次の物語

この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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