仕事を辞めたら、平日の昼の近所の目が気になる61歳。カーテンを閉めて夕方を待っていた私が、朝十時に歩きはじめた十一月
二十三の春、十時台のバス
二十三の春に、はじめて勤めに出ました。
毎朝、七時十二分のバスに乗りました。
同じ顔ぶれの人たちと、同じ吊り革の位置で、四十分ほど揺られます。
あるとき、休みを取って昼前のバスに乗ったことがありました。
十時台のバスは、がらがらでした。
三人か四人しか乗っていません。
窓際に、帽子をかぶった男の人が座っていて、外をずっと見ていました。
急いでいる様子は、まったくありません。
この人たちは、どういう人なんだろう。
そんなことを、二十三の私は本気で考えていました。
平日の午前十時に、急がずにバスに乗っている人。
そういう人が、この世にはいるのだ、と。
今年の三月で、私はその側になりました。
「今日はお休み?」
私は六十一歳です。
二十四年、私立高校の事務室に勤めました。
六十で定年を迎えたあと、一年だけ嘱託で残って、この三月で辞めました。
家は、十七年前に買った建売の一戸建てです。
前の道は車がすれ違えないくらい狭くて、向かいの家の台所の窓と、うちの居間の窓が、ちょうど向き合っています。
夫は五十九歳で、バス会社の整備の仕事に出ています。
朝は六時に家を出ます。
息子は三十四歳で、東京にいます。
辞めて最初の月曜日、私は八時に洗濯機を回しました。
干そうと思ってベランダに出たとき、下の道から声がしました。
「あら、今日はお休み?」
三軒先の人でした。
洗濯かごを抱えたまま、私は言葉に詰まりました。
「……ええ、まあ」
「いいわねえ、平日に休めて」
それで終わりです。
その人は、そのまま自転車で行ってしまいました。
悪気など、ひとつもない一言です。
三軒先のその人とは、二十年近く会えば話をしてきました。
それなのに、私はその日、洗濯物を干し終わってからカーテンを閉めました。
閉めてから、自分でおかしいと思いました。
隠すようなことは、何もないのです。
辞めたと言えばいいだけでした。
けれど、その「だけ」が、どうしても口から出ませんでした。
言ってしまったら、そのあとに必ず何か聞かれる気がしたのです。
これからどうするの。何かなさるの。ご主人はまだお勤め?
答えを、私はひとつも持っていませんでした。
車で出て、駐車場に一時間
六月になると、私の平日には決まりができていました。
洗濯物は、朝七時までに干すか、夜に部屋の中に干す。
居間のカーテンは、昼のあいだ半分閉めておく。
買い物は、夕方の五時を過ぎてから行く。
そして、月曜と木曜は、朝八時に車で家を出ます。
夫が出たあと、わざと音を立てて門を開けて、車を出すのです。
仕事に行くように見えるからです。
行き先はありません。
大きなスーパーの駐車場に停めて、エンジンを切って、一時間ほど座っています。
ラジオを聞いて、それから店で買い物をして、遠回りをして帰ります。
家に着くのは十時ごろです。
そのころには、道に人がいなくなっています。
買い物袋を提げて門を開ければ、仕事帰りではないことくらい、誰が見ても分かります。
それでも、私は車を出さずにいられませんでした。
ある木曜日、駐車場でバックミラーを見たら、自分の顔が映っていました。
何をしているんだろう、と思いました。
誰に追われているわけでもありません。
悪いことをしているわけでもありません。
それなのに、私は自分の家に、昼間いられなくなっていました。
夜、夫にそれとなく言ってみました。
「近所の人に、休みなの? って聞かれるの」
「辞めたって言えばいいだろ」
「言えないのよ」
「なんで」
そこで、私は黙ってしまいました。
なんで、が自分でも説明できなかったのです。
夫は「変なやつだな」と笑って、それ以上は聞きませんでした。
三十二年前の、向かいの窓
言えない理由に心当たりがないわけではありません。
三十二年前のことです。
息子が二歳になった年に、私は一度、勤めを辞めました。
三年後に同じ学校の事務に戻るのですが、その三年のあいだ、私は平日の昼が苦手でした。
あのころは、この道にまだ小さい子どもが何人もいました。
昼間に家にいる母親は、何人もいたはずです。
それでも、私は自分だけが道に出ているような気がしていました。
ある日の昼下がり、布団を干していると、向かいの家の人が道から声をかけてきました。
河野さんという、当時四十代の人でした。
「いいわねえ、奥さんは家にいられて」
「……はい」
「うちなんか、こんな時間に家にいたら、何言われるか」
笑いながら言った言葉でした。
けれど私は、その日から布団を干す時間を変えました。
昼の一時ではなく、朝の七時半に干すようになったのです。
洗濯物も同じです。
三年間、私は近所の人と顔が合わない時間だけを選んで外に出ていました。
息子を幼稚園に送ったあとの道も、大通りではなく、川沿いの遠いほうを歩きました。
三十二年たって、私はまた同じことをしていました。
時間をずらして、道を変えて、カーテンを閉めて。
違うのは、今度は「奥さんは家にいられて」と言われる立場ですらないことでした。
私は、何者でもありませんでした。
ゴミの日に、言ってみた
七月のはじめの金曜日でした。
前の晩のうちに出そうと思っていたゴミを、出しそびれていました。
しかたなく、朝の八時半に集積所へ持っていきました。
そこに、隣の松尾さんがいました。
六十八歳で、三年前に勤めを辞めた人です。
ネットを持ち上げて、押さえてくれました。
「どうも、すみません」
「最近、朝は会わないね」
心臓が、少し速くなりました。
「……私、三月で退職したんです」
言ってしまいました。
自分でも驚くくらい、あっさり口から出ました。
松尾さんは、ネットを下ろしながら言いました。
「そう。おつかれさま」
それだけでした。
何か聞かれるかと身構えていたのに、何も聞かれません。
そのまま帰ろうとしたら、松尾さんが振り返りました。
「朝、裏の緑地を歩いてるんだけどね。十時ごろ」
「十時ですか」
「うん。鳥がね、いるのよ」
「鳥」
「よかったら。ひとりで歩くには、ちょうどいい広さだから」
「ひとりで歩くには」という言い方が、私には妙にありがたく聞こえました。
エナガという鳥
その次の週の火曜日、私は朝十時に家を出ました。
車ではなく、歩きです。
家の裏手の坂を上がると、昔の雑木林がそのまま残っている緑地があります。
十七年住んでいて、中に入ったのは数えるほどでした。
家を買うときに「裏に緑地があります」と言われたのを、思い出しました。
そのときは、日当たりの話しか頭にありませんでした。
松尾さんは、木の下で立ち止まっていました。
首から、小さな双眼鏡を下げています。
「来たね」
「あの、本当に来てしまって」
「来るところだから」
松尾さんは、上のほうを指さしました。
「あそこ。白いのが五、六羽いるでしょう」
私には、葉っぱが揺れているようにしか見えませんでした。
「ちょっと、これ」
双眼鏡を渡されました。
覗くと、最初は何も見えません。
木の幹と、空と、また葉っぱ。
ようやく、丸い白い鳥が見えました。
尾が長くて、体が小さくて、枝から枝へ、ぱっぱっと移ります。
「なんですか、これ」
「エナガ。この辺じゃ珍しくないよ」
「……かわいいですね」
自分の口から出た言葉に、自分で照れました。
三か月ぶりくらいに、何かを見て素直にそう言った気がしました。
「そこの木にね、毎朝来るのよ」
「毎朝ですか」
「毎朝。こっちが休んでも、向こうは来てる」
松尾さんは、双眼鏡を受け取りながら言いました。
「そう思うと、こっちも来ようかって気になる」
その日は、三十分ほど緑地の中を歩きました。
帰り道に腕時計を見たら、十一時十分でした。
家に着いても、まだ昼前です。
それなのに、その日はカーテンを閉めようと思いませんでした。
松尾さんが、笑いながら言いました。
「最初の半年はね、私も平日の昼に外を歩けなかった」
「松尾さんもですか」
「車で出て、どこも行かずに帰ってきたこともあるよ」
駐車場の一時間のことを、私は言いませんでした。
言わなくても、たぶん分かっていたのだと思います。
「葉が落ちると、鳥が見やすくなるから。秋になったら、また違うのがいるよ」
首から下げて、一時間
八月に入って、私は自分の双眼鏡を買うことにしました。
借りたままでは、松尾さんが休んだ日に歩けないからです。
家電の店に行って、並んでいるものを見比べました。
正直に言うと、どれも同じに見えました。
そこで、条件を四つ決めました。
ひとつめは、重さです。
首から下げて一時間歩くので、軽いものにしたい。
店の人に聞いて、重さの数字が書いてあるものだけを見ました。
ふたつめは、眼鏡をかけたまま見えることでした。
私は遠近両用の眼鏡をかけています。
外して覗くと、足元が見えなくて危ないのです。
三つめは、倍率でした。
大きく見えるほどいいのだろうと思っていたら、店の人に止められました。
倍率が高いと、手の揺れも大きく見えて、鳥を見失うのだそうです。
四つめは、大きさです。
上着のポケットに入るくらいでないと、持って出るのが面倒になります。
四つに合うものは、思ったより少なく、値段も幅がありました。
いちばん安いものは、眼鏡をかけたままでは覗けませんでした。
いちばん高いものは、持ち上げただけで手首に来ました。
売り場の窓から外の電柱を見せてもらって、三つまで絞りました。
最後は、首にかけて三分立ってみて決めました。
三分でつらいものは、一時間は無理です。
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家に帰って、二階の窓から電線を見てみました。
雀が三羽、並んでいました。
雀を双眼鏡で見たのは、六十一年で初めてでした。
カーテンを開けたまま
秋になって、私の平日は少しずつ形が変わりました。
朝十時に家を出て、緑地を一周して、十一時ごろ帰ってきます。
雨の日は休みます。
松尾さんがいる日もあれば、いない日もあります。
いなくても、歩きます。
十月のある日、緑地の入り口で、三軒先の人とばったり会いました。
六月に「今日はお休み?」と聞いた人です。
今度は、私のほうから先に言いました。
「三月で仕事を辞めたので、毎朝ここを歩いてるんです」
「あら、そうなの」
その人は、ほんの一瞬だけ間を置いて、こう言いました。
「じゃあ、犬の散歩の人たちと会うでしょう。にぎやかよね」
それだけでした。
私が半年かけて恐れていたものは、たったそれだけの返事で終わりました。
その帰り道、向かいの河野さんと会いました。
今はもう八十近い人です。
立ち話のついでに、三十二年前のことを言ってみました。
「昔、布団を干してたときに、いいわねえって言われたの、覚えてます」
河野さんは、きょとんとしていました。
「そんなこと言ったかしらねえ」
「言いましたよ。私、それから干す時間を変えたんです」
「あらまあ」
河野さんは、少し困ったような顔をしてから、こう言いました。
「あのころね、私、パートを探してたのよ。二年くらい見つからなくて」
「そうだったんですか」
「面接に行っては、断られてね。帰りに商店街をぐるっと回って、時間をつぶして帰ってたの」
私は、駐車場の一時間を思い出しました。
「うちの人に、今日も駄目だったって言うのが、いやでねえ」
河野さんは、そう言って笑いました。
知りませんでした。
三十二年、私が一人で持ち歩いていた一言は、言った本人にはもう残っていませんでした。
葉が落ちて、見えるもの
十一月になりました。
緑地の木が、ずいぶん裸になりました。
松尾さんが六月に言っていたとおりです。
葉が落ちると、鳥が見やすくなります。
夏には声だけだったものが、枝の上にはっきりと見えます。
先週、エナガの群れに会いました。
今度は、自分の双眼鏡で見ました。
七羽いました。
一羽が枝の先で逆さまになるのを、しばらく見ていました。
家に帰って、居間のカーテンを開けたまま、昼ごはんを食べました。
向かいの台所の窓が見えます。
河野さんが、何かを洗っているのが見えました。
見えるということは、見られてもいるということです。
前は、それがこわくて閉めていました。
今も、まったく平気になったわけではありません。
洗濯物を昼に干すのは、いまだに少しためらいます。
夫には、駐車場の一時間のことを、まだ話していません。
でも、月曜と木曜の朝八時に車を出すのは、七月でやめました。
十二月になれば、木はもっと裸になるそうです。
そうしたら、もっと遠くの枝まで見えるようになるのだと、松尾さんが言っていました。
あなたなら、どうしますか?
仕事を辞めたあと、近所の人に「今日はお休み?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか。
平日の昼に、家の外で過ごせる場所を一つ決めるとしたら、あなたはどこを選びますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 見られているのは、たいてい自分の目
近所の人が自分をどう見ているかは、実のところ確かめようがありません。
確かめられないので、人は自分の中で「こう思われているはずだ」という像を作ります。
そして、その像に合わせて、時間や道を変えていきます。
相手は、たいてい覚えてもいません。
三十年前の一言を持ち歩いていたのが自分だけだった、ということは、よくあります。
2. 先に言ってしまうと、聞かれなくなる
聞かれるのがこわいのは、答えを用意していないからです。
「辞めたんです」と自分から先に言ってしまうと、相手は次の話に移ります。
説明も、言い訳も、いりません。
一言だけ決めておくと、身構える時間がなくなります。
言う相手を一人選んで、そこから始めるのでも十分です。
3. 昼に行く場所が一つあると、家にいられる
家にいるのが後ろめたいとき、人は家から出ようとします。
けれど、あてもなく出ると、かえって時間が重くなります。
行き先と時刻を決めてしまうと、その前後の時間が自分のものに戻ります。
毎日でなくてもかまいません。
雨の日は休む、と決めておくほうが続きます。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(首から下げて一時間歩ける重さ・眼鏡をかけたまま見える・倍率が高すぎない・上着のポケットに入る大きさ)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
朝の散歩に持って出る、小さな双眼鏡
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- 選ぶときは、倍率・重さ・眼鏡をかけたまま使えるかを見ると選びやすくなります。
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次の物語
この記事について
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※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。