仕事を終えたあと
PR

定年の最後の出勤日、何を感じればいいのか分からなかった60歳。三十八年分の通勤鞄を、私が玄関で空にした夜

夕焼けの中、花束を持って職場を出る女性の後ろ姿
kuroko

目覚まし時計が鳴るのは、五時五十分です。

三十八年、平日はずっとその時刻でした。

最後の出勤日の朝、私は五時四十分に目を覚ましました。

鳴る前に目が覚めるのは、いつものことです。

いつもなら、鳴る前にボタンを押して止めてしまいます。

でもその日は、布団の中で、鳴るのを待っていました。

最後くらい、ちゃんと聞いておこうと思ったのです。

ジリリ、という音が、薄暗い寝室に響きました。

隣で寝ていた夫が、寝返りを打ちました。

私はボタンを押して、天井を見ました。

何か感じるだろうと思っていたのに、頭に浮かんだのは、今日のお弁当のおかずのことでした。

六十歳です。

地元の小さな建材会社で、事務の仕事を三十八年続けてきました。

二十二歳で入って、伝票と電話とお茶と、給与の計算と。

気がつけば、事務所でいちばん古い人間になっていました。

今日で、最後なんでしょう

台所に下りると、夫がもう起きていました。

夫は六十二歳で、定年のあとも同じ会社で、週に四日働いています。

「今日で最後か」

「うん」

「そうか」

夫はそれだけ言って、味噌汁をすすりました。

口数の少ない人です。

私も、それ以上は何も言いませんでした。

言いたいことが、特になかったのです。

七時十分に家を出る前、スマホに娘からLINEが届きました。

娘の真紀は三十二歳で、電車で二時間の町に住んでいます。

「お母さん、三十八年おつかれさま! 今日は泣いちゃうんじゃない?」

私は返事を打とうとして、指が止まりました。

泣くかしら。

泣くような気は、まったくしませんでした。

「どうかしらね。いってきます」

それだけ送って、いつもの鞄を肩にかけました。

黒い革の、角が白くすれた通勤鞄です。

花束を持って、各駅停車で

最後の日は、驚くほど普通でした。

朝いちばんに、郵便物を仕分けました。

十時に、取引先から請求書の問い合わせの電話が一本ありました。

午後は、引き継ぎのノートの最後のページを、後輩の佐藤さんと一緒に確かめました。

佐藤さんは二十九歳で、この一年、私の仕事を少しずつ覚えてくれた人です。

「この取引先、月末は電話じゃなくてファクスなんですよね」

「そう。担当の方がね、電話だと忘れちゃうからって」

「ノートに書いておきます」

五時に、事務所のみんなが集まってくれました。

社長の短いあいさつがあって、花束と寄せ書きをもらいました。

それから、佐藤さんが薄い箱を差し出しました。

「これ、事務所のみんなからです。体験のカタログなんです。好きなものを一つ選べるので」

「あら、ありがとう」

私は頭を下げながら、何を選べばいいのか、見当もつかないと思っていました。

最後に、総務の係に社員証を返しました。

首から下げる紐ごと、机の上に置きました。

三十八年、毎朝首にかけていたものです。

帰りは、いつもの快速ではなく、各駅停車に乗りました。

花束を膝にのせていると、向かいの席の女子高生が、ちらりとこちらを見ました。

窓の外は、もう暗くなっていました。

花のにおいの中で、私が考えていたのは、こんなことでした。

明日の朝は、何時に起きればいいのだろう。

うれしいのか、寂しいのか。

どちらの気持ちも、どこにも見つかりませんでした。

三十八年も働いて、最後の日に何も感じないなんて。

私はどこかおかしいのではないかと思いました。

「明日から、毎日が日曜日ですね」

電車の窓に映る自分の顔を見ながら、十二年前のことを思い出していました。

同じ事務所に、岡田さんという先輩がいました。

私より十二歳上で、入社したとき、伝票の書き方を一から教えてくれた人です。

その岡田さんが定年を迎えた日、私は花束を渡す係でした。

渡しながら、私はこう言ったのです。

「岡田さん、うらやましい。明日から、毎日が日曜日ですね」

事務所のみんなが笑いました。

岡田さんも笑って、「そうね」と言いました。

それから、小さな声で付け足しました。

「でもね、目覚まし、どうしようかと思って」

私は何のことか分からずに、「好きなだけ寝られるじゃないですか」と返しました。

岡田さんは、もう一度「そうね」と言っただけでした。

あのときの岡田さんの顔を、なぜか急にはっきりと思い出したのです。

笑っているのに、目だけが笑っていないような顔でした。

うらやましいなんて、言うんじゃなかった。

十二年たって、ようやくそう思いました。

玄関で、鞄を逆さにした夜

三日後の、日曜日の夜のことです。

夕飯を片付けたあと、私は玄関に置いた通勤鞄の前にしゃがんでいました。

日曜の夜に鞄の中を確かめるのは、三十八年の癖です。

明日の朝、慌てないように。

そう思って留め金を外してから、明日はもう行かないのだと気がつきました。

それでも手が止まらなくて、私は鞄を逆さにしました。

玄関の床に、中身が全部出てきました。

会社の名前が入った茶封筒が三枚。

黄色い付箋の束。

赤のボールペンと、ホッチキスの芯の箱。

仕事用の認め印。

使い終わった通勤定期。

名刺入れには、私の名刺がまだ十二枚残っていました。

財布も出てきました。

開けてみると、カードがぎっしり詰まっていました。

会社の近くのドラッグストアのポイントカード。

昼休みに通ったパン屋のスタンプカード。

事務所の向かいの文房具店の会員証。

どれも、会社のそばでしか使わないものでした。

床に並んだものを、一つずつ見ていきました。

私のものだと言えるのは、ハンカチが一枚と、財布そのものだけでした。

三十八年、毎日肩にかけていた鞄の中身は、ほとんど会社のものだったのです。

最後の日に何も感じなかった理由が、少しだけ分かった気がしました。

会社の日は、あの日で終わりました。

けれど、私の日は、まだ一日も始まっていなかったのです。

「で、明日からどうするんだ」

居間に戻ると、夫がテレビを見ていました。

「玄関で何してたんだ」

「鞄の中、出してたの」

「そうか」

夫は、画面を見たまま言いました。

「で、明日からどうするんだ」

悪気のない聞き方でした。

分かっているのに、私は言ってしまいました。

「そんなの、分かるわけないでしょう」

自分でも驚くくらい、とがった声でした。

夫はテレビから目を離して、私の顔を見ました。

「……そうだな。悪かった」

それきり、夫は何も聞きませんでした。

私は台所に行って、意味もなく流しを拭きました。

夫に怒ったのではありません。

明日のことを聞かれて、答えを一つも持っていない自分に、腹が立ったのです。

その夜、寝る前に、目覚まし時計を手に取りました。

五時五十分のままです。

止めておこうか、少し迷いました。

でも、夫のお弁当は明日も作ります。

私は、そのまま枕元に戻しました。

岡田さんの電話

次の週の水曜日、私は岡田さんに電話をかけました。

年賀状のやりとりだけは、ずっと続いていたのです。

「あら、あなた。辞めたの、先月でしょう。寄せ書き、私も書きたかったわ」

岡田さんは七十二歳になっていましたが、声は事務所にいた頃と変わりませんでした。

私は、最後の日に何も感じなかったことを話しました。

「三十八年もいたのに、うれしくも寂しくもなかったんです。私、薄情なのかしらって」

岡田さんは、電話の向こうで笑いました。

「感じなくていいのよ、最後の日なんて。あれは会社の日だもの」

「会社の日」

「そうよ。花束をもらって、あいさつをして。あれはね、会社があなたを送り出す日なの。あなたの日は、そのあとからでしょう」

私は、玄関の床に並んだ中身を思い出していました。

「岡田さん、あのとき、ごめんなさい。うらやましいなんて言って」

「言われたわねえ」

岡田さんは、また笑いました。

「でも、うれしかったのよ、本当に。うらやましがってもらえるような顔で、辞められたんだって」

「目覚まし、どうしたんですか」

「止めるまで、半年かかったわよ」

「半年」

「最初の一か月は、鳴ったら起きて、定期入れを探してたの。鞄の中にないって、毎朝がっかりしてね」

電話を切ってから、私は台所の椅子に座って、しばらく窓の外を見ていました。

半年かかってもいい。

そう言ってもらえた気がしました。

四枚だけのカード

その週のうちに、財布の中を全部出しました。

会社のそばでしか使わないカードは、はさみを入れて捨てました。

名刺は一枚だけ残して、あとは処分しました。

残ったのは、交通系のICカードと、キャッシュカードと、美容院の会員証。

それから、財布のいちばん奥から出てきた、図書館の利用カードでした。

二十年前に作って、一度も使わなかったものです。

平日の昼間に開いている図書館に、行ける日がなかったのです。

ICカードは、これまで通勤定期と一緒に、会社の名前が入ったパスケースに入れていました。

そのパスケースは、もう使いたくありませんでした。

それで、新しく小さなカードケースを探しました。

条件は三つでした。

カードが四、五枚だけ入ること。

改札で、片手でさっと出せること。

上着のポケットに入る薄さであること。

たくさん入るものにすると、また何かでいっぱいにしてしまいそうだったのです。

売り場でいくつか手に取って、四枚入れたときの厚みを確かめてから決めました。

広告

図書館の利用カードは、いちばん手前に入れました。

財布を持たずに出かけられる日が、そのうちあるかもしれません。

そう思ったのは、三十八年で初めてでした。

寄せ書きと一緒にもらった体験のカタログも、その夜、ようやく開きました。

最初は、どのページも誰か別の人のためのものに見えて、閉じてしまいました。

二度目に開いたとき、先に自分で条件を決めてから見ることにしました。

平日の昼に、一人で行けること。

二時間ほどで終わること。

手を動かして、何か一つ持って帰れること。

そうやって絞ると、残ったのは三つだけでした。

私は、その中から藍染めの体験を選びました。

染めるのは、ハンカチ一枚です。

鞄の中で、私のものはハンカチだけでした。

それなら、最初に自分で作るのも、ハンカチがいいと思ったのです。

広告

行き先を決めずに、駅まで

四月のはじめの月曜日、夫を送り出したあとで、私は家を出ました。

肩にかけたのは、通勤鞄ではありません。

押し入れの奥にあった、若い頃の小さな布の鞄です。

中身は、ハンカチと、カードケースと、小銭入れだけでした。

行き先は、決めていませんでした。

決めずに出てみようと思ったのです。

足は、勝手に駅のほうへ向かいました。

三十八年、同じ道を歩いてきたのですから、当たり前です。

駅前に着いたのは、七時半を少し過ぎた頃でした。

ホームに、七時三十二分の快速が入ってくるのが見えました。

私が毎朝乗っていた電車です。

スーツの人たちが、次々に乗り込んでいきました。

ドアが閉まって、電車が動き出しました。

私は改札の外で、それを見送りました。

乗り遅れたのではなく、乗らなくていいのです。

胸の奥が、きゅっとしました。

寂しいのか、ほっとしたのか、そのときもやっぱり分かりませんでした。

ただ、最後の日の電車の中よりは、何かを感じていました。

私は駅前のベンチに座って、カードケースから図書館の利用カードを出してみました。

図書館が開くのは、九時半です。

まだ二時間近くありました。

二時間。

誰にも、何にも追われない二時間です。

私は駅前の喫茶店に入って、モーニングを頼みました。

平日の朝、この店に座るのは初めてでした。

窓の外を、さっきの電車に乗り遅れたらしい若い人が走っていきました。

九時半、図書館の自動ドアが開くのと同時に、中に入りました。

カウンターで利用カードを出すと、職員の方が画面を見て言いました。

「長い間ご利用がなかったので、更新の手続きをしますね。ご住所はお変わりありませんか」

「はい。二十年、同じところです」

私がそう答えると、職員の方が少し笑いました。

目覚ましが鳴らなかった朝

藍染めに行ったのは、五月の平日でした。

染め液にハンカチを沈めて引き上げると、最初は緑色をしていました。

空気にふれるうちに、それが少しずつ青に変わっていくのです。

先生が、「何度も沈めると、色が深くなりますよ」と言いました。

私は、五回沈めました。

ムラのある、上手とは言えない青になりました。

それでも、帰りの電車でそのハンカチを膝の上に広げたとき、最後の日の花束のことを思い出しました。

あの日の花は、もらったものでした。

このハンカチは、私が自分で決めて、自分で染めたものです。

六月のはじめ、目覚ましが鳴らない朝がありました。

目を開けると、窓の外がすっかり明るくなっていました。

時計を見ると、六時二十分でした。

慌てて台所に下りると、夫がもう出かける支度をしていました。

食卓の上に、ラップに包んだおにぎりが二つ置いてありました。

形の悪い、大きなおにぎりでした。

「目覚まし、止めといた」

夫は、靴をはきながら言いました。

「毎朝五時五十分に鳴るのに、お前、鳴る前から起きてるだろう。俺の弁当なら、週に一回くらい自分で握る」

「……いつから気づいてたの」

「結婚したときからだ」

夫はそれだけ言って、玄関を出ていきました。

最後の出勤日に何を感じたのか、今でもよく分かりません。

たぶん、何も感じなかったのだと思います。

あの日は会社の日で、私の日ではなかったのですから。

玄関には、今も小さな布の鞄が掛かっています。

中身は、カードケースと、図書館の本と、ムラのある青いハンカチです。

目覚ましは、あれから週に三日だけ鳴るようになりました。

あなたなら、どうしますか?

明日の朝、あなたの鞄には何が入っていますか。そのうち、仕事や家族のためではなく、あなた自身のために入っているものは、いくつありますか。

平日の朝に、誰にも何にも追われない二時間があるとしたら、最初にどこへ行きますか。行き先を決めずに家を出たら、足はどちらへ向かいそうですか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. 最後の出勤日は、「会社の日」

花束をもらい、あいさつをして、社員証を返す。

最後の出勤日は、会社がその人を送り出すための日でもあります。

そこで何も感じなかったとしても、長い年月が軽かったということにはなりません。

2. 鞄の中身は、その人の毎日

長く通った仕事の鞄には、その仕事の道具がぎっしり入っています。

逆さにしてみると、自分のためのものがどれだけ入っていたかが見えてきます。

入れ直すのは、少しずつでかまいません。

3. 目覚ましは、急に止めなくていい

何十年も同じ時刻に起きてきた体は、すぐには変わりません。

主人公の先輩は、止めるまで半年かかりました。

鳴る日を少しずつ減らしていくやり方もあります。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(カードが四、五枚だけ入る・改札で片手で出せる・上着のポケットに入る薄さ)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

四、五枚だけ入る薄いカードケース

広告

  • 販売ページの記載:本革・二つ折り・カードを分けて入れられる透明のポケットが5面
  • 販売ページの記載:交通系ICカードや免許証を入れる薄型のパスケース
  • 選ぶときは、入る枚数・厚み・カードを出さずに改札を通れる作りかを見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

次の物語

この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

記事URLをコピーしました