パートを辞めたい60代。「人間関係が理由」でもいいのだと、私が思えるまで
十八の春、初めて勤めに出る朝のことを、今でもよく覚えています。
母は台所で、私のアルミの弁当箱を紺色の布で包みながら言いました。
「辞めるときは、ちゃんとした理由がないとだめよ」
まだ一日も働いていない娘に、辞めるときの話をする母でした。
「辞めないわよ、そんな」
私が笑うと、母は結び目をきゅっと締めて、弁当箱を私の手にのせました。
その菓子工場に、私は結婚するまで八年勤めました。
辞めたのは、結婚して遠くの町に移ることになったからです。
それは、誰が聞いても「ちゃんとした理由」でした。
あれから四十年あまり、母の言葉は、胸のどこかに結び目のように残っていました。
辞めたい、と思ってから一年
辞めたい、と思ってから一年が過ぎていました。
私は六十一歳です。
家から自転車で十分のスーパーの、惣菜売り場で六年働いています。
朝の八時半から午後の二時まで、週に四日。
八時半に白い帽子をかぶって揚げ場に立つと、まず油の温度を見ます。
十時の開店までに、唐揚げとコロッケと天ぷらを、棚の三段分そろえるのが最初の仕事です。
揚げ物を揚げて、パックに詰めて、値札を貼る。
仕事そのものは、嫌いではありません。
唐揚げが揚がる音も、昼前に棚がいっぱいになったときの眺めも、好きでした。
辞めたい理由は、人間関係です。
そして、その理由がいちばん言い出しにくいものでした。
誰かに意地悪をされたわけではありません。
面と向かって何かを言われたことも、ありません。
だから、辞める理由として説明しづらいのです。
休憩室の、扉の向こうで
売り場は、女性ばかり七人の職場です。
誰かが休むと、休憩室でその人の話が始まります。
おととしの秋、私は孫の運動会のために、一日だけ休みをもらいました。
次の日の朝、休憩室の扉を開けようとしたとき、中から笑い声が聞こえました。
「昨日は大変だったのよ、揚げ場を二人で回して」
「誰かさんがお休みだったからねえ」
「運動会ですって。いいわねえ、孫がいる人は」
私は扉の前で、エプロンのひもを結び直しました。
それから、何も聞こえなかった顔をして、扉を開けました。
「おはようございます。昨日はすみませんでした」
「いいのよ、いいのよ。運動会、どうだった?」
さっきと同じ声が、にこにこと私に聞きました。
私も笑って、「かけっこで二番でした」と答えました。
その日は一日じゅう、唐揚げの油の音が、やけに大きく聞こえました。
悪い人たちではないのです。
忙しい日の帰りには、売れ残りのコロッケを「持っていきなよ」と分けてくれる人たちです。
ただ、私がいない日には、私の話をしているのだろうと思うと、休みを取るのが怖くなりました。
もうひとつ、忘れられないことがあります。
去年の春、二十代の女性が新しく入ってきました。
その人は、最初の日の一時間で、エプロンを返して帰っていきました。
その日の休憩室では、その人の話でもちきりでした。
「一時間よ、一時間。今の子はねえ」
私は、何も言いませんでした。
あの人がどんな顔でエプロンを畳んでいたのか、私は見ていたのに。
「その程度で」と言われそうで
辞めたいことを、夫にも言えませんでした。
夫は、同じ会社に四十年勤めて定年を迎えた人です。
「その程度のことで辞めるのか」と言われそうな気がしていました。
日曜の夜になると、私は台所のテーブルで、いつまでもお茶を飲んでいました。
明日の朝のことを考えると、布団に入る気になれなかったのです。
「まだ起きてるのか」
廊下から、夫が声をかけてきたことがあります。
「ちょっと、テレビの続きが気になって」
テレビはついていませんでした。
夫は「そうか」と言って、寝室に戻っていきました。
「その理由で辞めちゃいけない決まりなんて、あるの」
去年のお盆に、娘の麻衣が帰ってきました。
夕食のあと、二人で並んで洗い物をしていたときです。
「お母さん、仕事どう?」
麻衣が皿を拭きながら聞きました。
私は、少しだけ話しました。
休憩室のこと、運動会の次の日のこと、一時間で帰った若い人のこと。
「辞めたいとは思うのよ。でも、理由がね」
「理由?」
「人間関係なんて、理由にならないでしょう。おばあちゃんにも言われたのよ。辞めるときはちゃんとした理由がないとだめだって」
麻衣は、手を止めずにこう言いました。
「その理由で辞めちゃいけない決まりなんて、あるの」
決まりは、ありません。
そんなことは、分かっていました。
分かっていたのに、誰かに言ってもらうまで、私は自分に許可を出せずにいたのです。
「おばあちゃんの言う『ちゃんとした理由』ってさ、誰が決めるの」
麻衣はそう言って、拭き終わった皿を棚に戻しました。
私は答えられないまま、蛇口の水を止めました。
三週間だけのノート
その夜、麻衣が寝たあとで、私は考えました。
辞めたいのは、本当に毎日なのか。
たまたま嫌な日が続いただけなのか。
自分でも、分からなくなっていたのです。
それで、三週間だけ、書いてみることにしました。
家にあったのは、薄い大学ノートが一冊です。
でも、それでは三週間でいっぱいになってしまいそうでした。
辞めるにしても続けるにしても、その先も書き続けるかもしれない。
そう思って、次の日、駅前の文房具売り場でノートを選びました。
条件は二つだけにしました。
一日に少しずつ書ける大きさであること。
三週間で終わらずに、長く使えるページ数があること。
広告
ペンも一本、買いました。
夜の台所で書くので、手が疲れにくい太さのものと、細い字になりすぎないものを選びました。
広告
書き方は、自分で決めました。
左のページに、その日あったこと。
右のページに、辞める理由と、続ける理由。
一日ぶんは、三行でも四行でもいいことにしました。
三週間後の日曜の夜、台所のテーブルにノートを広げて、ページを並べて眺めました。
続ける理由は、三つでした。
家計の足しになること。
生活のリズムができること。
体を動かす機会になること。
どれも、毎日同じことが書いてありました。
ある日のページには、こう書いてありました。
「十月二日 揚げ場が混んだ。三浦さんが、私の分の値札を黙って貼ってくれた」
三浦さんのことは、右のページのどちらの欄にも書けませんでした。
続ける理由にしてしまうと、三浦さんに寄りかかって続けることになる気がしたのです。
辞める理由には、もちろんなりません。
結局、左のページに、その日あったこととして書いただけでした。
辞める理由は、日によって違いました。
休憩室の笑い声の日もあれば、シフトの話を私だけ知らなかった日もありました。
けれど、何かが書いてある日の数は、続ける理由の日よりも多かったのです。
自分の気持ちを、その日の気分ではなく、日数で見たのは初めてでした。
最後のページに、一行だけ書き足しました。
「辞めたら、やりたいこと。あの弁当箱で、外でお昼を食べる」
六年間、弁当箱は休憩室の机の上でしか開けたことがなかったのです。
夫に話した夜
ノートを閉じようとしたとき、夫が台所に入ってきました。
「また起きてるのか」
私は、ノートを夫のほうに向けました。
「辞めようと思うの。パート」
夫は椅子を引いて座り、ノートを一ページずつめくりました。
長いあいだ、何も言いませんでした。
「人間関係なんて、理由にならないって思うでしょう」
私が言うと、夫はノートから顔を上げました。
「日曜の夜、台所の電気が遅くまでついてたろ。気づいてたよ」
「……テレビの続き、って言ったのに」
「テレビ、ついてなかったじゃないか」
夫は、少しだけ笑いました。
「六年、よくやったな。理由は、これで十分だ」
私は返事をしようとして、声が出ませんでした。
「辞めたら、何するんだ」
「まだ決めてない。一行だけ、書いてあるけど」
夫は最後のページを開いて、あの一行を読みました。
「弁当か」
「弁当よ」
夫はノートを閉じて、私のほうへ戻しました。
「そのときは、俺の分も頼む」
「十一月いっぱいで」
店長に伝えたのは、その年の九月の初めです。
用意していった言葉は、これだけでした。
「十一月いっぱいで辞めさせてください。家のこともあるので」
嘘ではありません。
人間関係のことは、言いませんでした。
言えば、店長が誰かに確かめることになります。
そうなると、残りの二か月が長くなると思ったからです。
「年末は人が足りなくてね。なんとか一月まで、無理かな」
店長にはそう引き止められました。
私は、同じことをもう一度言いました。
「十一月いっぱいで、お願いします」
二度目に言ったとき、店長は「分かりました」と言いました。
帰りの自転車をこぎながら、ハンドルを握る手が少し震えていたのを覚えています。
辞めることが売り場に伝わると、休憩室で何度か聞かれました。
「どうしたの、急に。ご主人、どこか悪いの?」
「ううん、そういうわけじゃないの。家のことでね」
「お孫さんの面倒でも見るの?」
「ううん。家のことでね」
同じ言葉を、三回くらい繰り返しました。
それ以上は、誰も聞いてきませんでした。
短い言葉は、思っていたより長持ちするのだと知りました。
弁当箱を洗った日
最後の出勤は、十一月三十日でした。
休憩室で、みんなが小さな花束をくれました。
「さびしくなるわねえ」
そう言ってくれた声は、あの秋の朝に扉の向こうで聞いた声と同じでした。
私は「お世話になりました」と頭を下げました。
その声を嫌いになりきれない自分がいることにも、そのとき気づきました。
その日の午前、揚げ場に、先週入ったばかりの若い女性が立っていました。
二十代の、まだエプロンのひもの結び方がぎこちない人です。
私は、春に一時間で帰っていったあの人の顔を思い出しました。
あのとき、私は何も言いませんでした。
「油、はねるでしょう。袖はね、こうやって一回折っておくといいのよ」
私が自分の袖を折って見せると、その人は「ありがとうございます」と言って、同じように折りました。
最後の日にしか言えなかったことが、少しだけ悔しくもありました。
帰り際、裏口で三浦さんが追いかけてきました。
三浦さんは私より三つ年下で、六年のあいだ、いちばん気の合った人です。
「お茶くらい、行こうね。売り場の話は抜きで」
「ええ、抜きで」
その夜、私は六年使った弁当箱を洗いました。
ふたの角の塗りが、少しはげていました。
仏壇の前に座ったのも、その夜でした。
「お母さん、辞めました」
線香の煙が、まっすぐ上っていきました。
「ちゃんとした理由かどうかは、自分で決めることにしたの」
母がなんと言うかは、分かりません。
案外、「そう」と言って、結び目をきゅっと締めるだけのような気もしました。
十二月の最初の朝、目が覚めて、行くところがないことに少し戸惑いました。
同時に、ほっとしてもいました。
母の言っていた「ちゃんとした理由」が何だったのか、今もよく分かりません。
ただ、私がつらかったということは、ノートの日数が知っています。
年が明けて、今年の春になりました。
ノートは、そのまま続けています。
今は、辞める理由の代わりに、その日に出かけた場所を書いています。
四月の晴れた日、私はあの弁当箱におにぎりを二つ詰めて、夫と桜の残る近所の公園へ行きました。
ノートの最後のページに書いた、あの一行です。
ベンチでふたを開けると、夫が「こんなに小さい弁当で、六年もったのか」と言いました。
「揚げ物の匂いで、お腹がいっぱいになるのよ」
私が言うと、夫は笑って、自分のおにぎりを一つ、私の弁当箱の横に置きました。
三浦さんと初めてお茶を飲んだのは、二月の寒い日でした。
駅前の喫茶店の、窓際の席です。
「あなたが辞めるって聞いたとき、ちょっと、うらやましかったのよ」
三浦さんは、カップを両手で包んで言いました。
「私も、日曜の夜は憂うつなの。でも、まだ辞める理由が見つからなくて」
私は、ノートのことを話そうかと思って、やめました。
三浦さんには、三浦さんの数え方があるはずです。
「お茶なら、いつでも付き合うわよ」
私がそう言うと、三浦さんは「売り場の話は抜きでね」と笑いました。
三浦さんとは、今も年に二回、駅前の喫茶店でお茶を飲みます。
売り場の話はしません。
孫の話も、噂話もしません。
「最近どう」と聞いて、「変わらないよ」と答える。
それくらいのつきあいが、今はちょうどいいのです。
あのスーパーには、今も週に一度、買い物に行きます。
惣菜の棚の向こうから、前の仲間が「元気?」と手を振ってくれます。
私も手を振り返して、唐揚げを一パック、かごに入れます。
あなたなら、どうしますか?
もし今の気持ちを三週間書き留めるとしたら、どんなことを書きますか。
そして、辞める・続けるのどちらを選ぶにしても、伝える言葉を一文にするなら何と言いますか。
今週、ひとつだけ決めるなら
ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。
この物語から、考えたいこと
1. 理由の大きさは、他人が決めることではない
人間関係は、外からは見えません。
だからこそ、他人の物差しで「その程度」と測られてしまいます。
自分がつらいと感じているなら、それは十分な理由です。
2. 気分ではなく、日数で見る
今日の気持ちだけで決めると、翌日には揺れます。
三週間書いてみると、「たまたま嫌だった日」なのか「ずっと続いていること」なのかが分かります。
3. 伝える言葉は短くていい
理由を細かく説明するほど、話が広がります。
短く伝えて、同じことをもう一度言う。それで足ります。
※職場の手続きや条件は、勤め先によって違います。実際の退職の進め方は、勤め先の決まりを確認してください。
振り返りチェック
当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。
印をつけた数:
数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。
この物語に登場したもの
ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(毎日少しずつ書ける・長く使える)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。
書き出すためのノート
広告
- 販売ページの記載:A5サイズ・方眼・192ページ・クリーム色の用紙
- 販売ページの記載:手帳用の紙を使用
- 選ぶときは、サイズ・ページ数・罫線の種類(方眼か横罫か)を見ると選びやすくなります。
毎日書くためのボールペン
広告
- 販売ページの記載:ボール径0.7mm・油性インク
- 販売ページの記載:軸径13.3mm・全長141.7mm・重さ21g
- 選ぶときは、ボールの太さ(字の太さ)・軸の太さ・重さを見ると選びやすくなります。
※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。
次の物語
この記事について
※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。