仕事を終えたあと
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定年した夫が、一日中家にいる。64歳の私が、朝の一時間だけ先に起きるようになった話

平日の昼間、窓際の席でひとりお茶を飲む女性
kuroko

「昼は、何でもいいよ」

夫がそう言ったのは、定年から三日目の朝でした。

私が「お昼、何にしようか」と聞いたのに答えてくれたのです。

夫は食卓で新聞を広げたまま、顔を上げずにもう一度言いました。

「本当に、何でもいい。あるもので」

優しい言い方でした。

私は「分かった」と答えて、冷蔵庫を開けました。

卵が四つと、ちくわが一本と、きのうの残りのきんぴら。

その中から「何でもいい」昼ごはんを考えるのは、私の仕事でした。

夫が定年になって、八か月がたちました。

六十四歳の私が最初に気づいたのは、洗い物の回数です。

一日に三回。

それまでは、夜に一回でした。

朝と昼は、私ひとりぶんの茶わんを水につけておけば済んでいたのです。

十一時半の、顔

夫は四十年、同じ会社に勤めた人です。

毎朝六時四十分に家を出て、夜の八時ごろに帰ってきました。

怒鳴る人でも、命令する人でもありません。

お酒もほとんど飲みませんし、休みの日は庭の草を抜いているような人です。

定年の日には、花束を持って帰ってきて、「長いあいだ、ありがとう」と私に言いました。

私のほうが驚いて、言葉が出ませんでした。

だから、これから書くことは、夫の悪口ではありません。

夫は、朝は新聞を読み、そのあと居間でテレビのニュースを見ます。

十時ごろに一度、近所を三十分ほど歩いてきます。

そして、十一時半になると、新聞から顔を上げて、台所のほうを見るのです。

何も言いません。

時計を見て、それから私のほうを見る。

それだけです。

言われないぶん、こちらが先に動いてしまいます。

「もうすぐできるからね」

聞かれてもいないのに、私はそう言いながら、フライパンを出していました。

一時停止のボタン

困ったのは、昼ごはんのことだけではありませんでした。

ある日の午後、友人の佳代さんから電話がかかってきました。

パート先で二十年一緒だった人で、今でも月に一度は長電話をする仲です。

「ねえ聞いて、うちの孫がね」

佳代さんの話に笑っていると、廊下を夫が通る足音がしました。

私は、なぜか声を小さくしていました。

「……あれ、どうしたの? 急に声が小さくなって」

「ううん、何でもないの。ちょっと、主人がいて」

「ああ、そうか。旦那さん、もう家にいるんだものね」

佳代さんはそう言って、少し早めに電話を切りました。

気を遣わせてしまったのだと思います。

夫は、私の電話に聞き耳を立てるような人ではありません。

ただ、廊下を通っただけです。

それでも私は、そのたびに声を落としてしまうのでした。

録画しておいた昼のドラマを観ていても、同じでした。

うしろを夫が通ると、なんとなく一時停止のボタンを押してしまいます。

観るのをやめたわけではありません。

ただ、一時停止を押す回数が、数えきれないほど増えました。

なくなったのは、自由な時間というより、誰にも見られていない時間でした。

家のどこにいても、夫の気配がある。

それが、こんなにくたびれることだとは知りませんでした。

でも、そのことを、うまく説明できる気がしませんでした。

「家にいられるのがつらい」なんて、四十年働いてきた人には言えません。

「俺がいると、邪魔か」

それでも一度だけ、言葉にしようとしたことがあります。

定年から二か月たった、六月の夕方でした。

私は、ちゃんと話し合えば分かってもらえると思っていたのです。

夕食のあと、お茶を出しながら、できるだけ明るい声で言いました。

「ねえ、あなた。昼間、どこか出かけてみたら? 図書館とか、公民館の囲碁とか」

夫は湯のみを持ったまま、しばらく私の顔を見ていました。

「……俺がいると、邪魔か」

「そういう意味じゃないのよ」

私はあわてて言いました。

「ただ、ずっと家にいたら、あなたも退屈かなと思って」

「そうか」

夫はそれ以上、何も言いませんでした。

次の日から、夫は午後になると図書館へ行くようになりました。

三日続けて、行きました。

四日目の昼、夫は居間で新聞を読んでいました。

「今日は図書館、行かないの?」

「ああ。あそこは、同じような年の男ばかりでな」

夫は少し笑って、新聞をめくりました。

その横顔を見て、私はひどく悪いことをした気がしました。

四十年、毎朝六時四十分に家を出ていた人が、やっと家にいられるようになったのです。

その人に、「出かけてきたら」と言ってしまった。

それからは、二度と同じことは言えなくなりました。

話し合えば分かってもらえる、と思っていました。

でも、分かってもらうことと、相手が変わることは、別のことだったのです。

姉の一言

七つ上の姉に会ったのは、その年のお盆でした。

姉は、隣の市の団地でひとりで暮らしています。

義兄を五年前に亡くしてから、ずっとひとりです。

お墓参りの帰りに、駅前の喫茶店に二人で入りました。

「そっちは、どう。旦那さん、家にいるんでしょう」

姉にそう聞かれて、愚痴のつもりはなかったのですが、少し話してしまいました。

十一時半に顔を上げること。

電話の声を落としてしまうこと。

図書館の話をして、夫を傷つけたかもしれないこと。

姉はアイスコーヒーのストローを回しながら、黙って聞いていました。

「ぜいたくな悩みだって、思うでしょう」

私が言うと、姉は首を振りました。

「思わないわよ。私だって、あの人が生きてたら、同じこと言ってたと思う」

それから、しばらく黙って、こう言いました。

「あんた、話し合って何とかしようとするから、しんどいんじゃないの」

「だって、話さないと分かってもらえないじゃない」

「分かってもらって、それでどうするのよ。旦那さんが毎日出かけるようになるわけじゃないでしょう」

私は、何も言えませんでした。

図書館に三日だけ通った夫の顔が浮かびました。

「変えられるのは、旦那さんの予定じゃなくて、あんたの時計のほうよ」

姉はそう言って、少し笑いました。

「私なんかね、今は二十四時間ぜんぶ自分の時間よ。でも、それはそれで、長いの」

姉の笑った顔が、少しさみしそうに見えました。

帰りの電車の中で、私は姉の言葉を何度も思い返していました。

変えられるのは、夫の予定ではなく、私の時刻のほうでした。

五時の台所

夫が起きるのは、七時半です。

会社に行かなくなってから、少しずつ遅くなって、そこに落ち着きました。

私はずっと、六時に起きていました。

四十年、夫の弁当を作ってきた時刻です。

それを、五時にすることにしました。

たった一時間半のことです。

でも、その時間だけは、家の中に私しかいません。

目覚まし時計は使わず、腕時計のアラームを振動だけにして、手首に巻いて寝ました。

隣の布団の夫を起こさないためです。

音の鳴らないもので、手首に巻いたまま眠れる軽さのものを、そのために一本だけ用意しました。

九月の最初の朝、五時に起きると、窓の外はまだ薄暗く、台所の床がひんやりしていました。

やることは、決めませんでした。

決めると、それが用事になってしまうからです。

用事になれば、それはもうひとつ家事が増えるのと同じです。

ただ、ひとつだけ用意したものがあります。

自分のためだけに淹れる、一杯ぶんのコーヒーです。

家には夫と二人で飲む、大きな缶のインスタントコーヒーがありました。

でも、それを使うと、「夫のぶんも淹れようか」と考えてしまいそうでした。

だから、自分だけのものを買うことにしました。

条件は三つでした。

一杯ずつ淹れられて、ポットいっぱい作らなくていいこと。

何種類かあって、その朝の気分で選べること。

箱で買い置きができて、夫と一緒の買い物のときに買い足さなくていいこと。

五時の一杯を、誰にも説明しなくて済むようにしたかったのです。

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やかんに一杯ぶんのお湯を沸かします。

笛が鳴る前に、少し早めに火を止めます。

笛の音で、夫が起きてしまわないようにです。

台所の椅子に座って、湯気の立つカップを両手で持ちます。

何もしないで、窓のほうを見ています。

座る場所も、最初の朝に決めました。

居間のソファは、夫がいつも新聞を読む場所です。

そこに座ると、どうしても夫の読みかけの新聞や、老眼鏡が目に入ります。

寝室の隣の和室は、夫の寝息が聞こえそうで落ち着きません。

家じゅうを歩いてみて、最後に残ったのが、台所の窓の下の丸椅子でした。

二十年前、高い棚の物を取るために買った、背もたれのない木の椅子です。

ふだんは冷蔵庫の横に押しこんであって、夫は座ったことがありません。

その丸椅子を窓の下まで引いてきて、そこを私の場所にしました。

家の中に、夫の持ち物が何も目に入らない場所は、そこしかなかったのです。

六時半になったら、丸椅子を冷蔵庫の横に戻します。

それが、私の一時間半の終わりの合図になりました。

五時四十分ごろ、寝室のほうから、夫の咳ばらいが一度だけ聞こえました。

私は少し身がまえましたが、夫が起きてくることはありませんでした。

「早いね」

五時に起きるようになって、いくつか知ったことがあります。

窓の外が明るくなっていく速さが、月によって違うことです。

九月の五時は薄暗いのに、十月の五時はまだ夜でした。

そんなことも知らずに、六十四年生きてきました。

朝に手紙を書くようにもなりました。

出す相手がいるわけではありません。

亡くなった母に宛てたり、十年後の自分に宛てたりしています。

書きかけのまま、台所の引き出しの奥に入れてあります。

誰にも見られていないと思うと、自分でも驚くほど、正直なことが書けました。

夫は、私が早く起きていることに気づいていました。

十月のある朝、七時半に起きてきた夫が、台所の入口で言いました。

「早いね」

私は流しでカップを洗っていました。

何か聞かれたらどう答えようか、実は前から決めていました。

五時に起きはじめた最初の週に、引き出しの奥の手紙の端に書いておいたのです。

「年のせいか、目が覚めちゃうのよ」

嘘ではないけれど、本当のことでもない言葉でした。

何のために早く起きているのかを話したら、その時間はもう私だけのものではなくなる気がしたのです。

でも、口から出たのは一言だけでした。

「うん」

夫はそれ以上、何も聞きませんでした。

顔を洗いに行く背中を見ながら、私は少しほっとしていました。

寝室の、咳ばらい

冬が近づいたころ、朝の咳ばらいのことが気になりはじめました。

五時半すぎ、ときどき寝室から聞こえてくるのです。

一度だけのこともあれば、二度三度のこともありました。

十一月の終わりの夜、夕食のあとで、私は思い切って聞いてみました。

「あなた、朝、本当は早く目が覚めてるんじゃないの」

夫は、テレビを見たまま少し黙りました。

「年だからな。五時半には目が覚める」

「じゃあ、どうして起きてこないの」

夫はリモコンを置いて、私のほうを見ました。

「お前、あの時間、台所で何かやってるだろう」

「何もしてないわよ。コーヒーを飲んでるだけ」

「それでいいんだよ」

夫は、少し照れくさそうに言いました。

「四十年、俺は六時四十分に出ていっただろう。あのあとの時間、お前にもあったんだろうと思ってな」

私は、返事ができませんでした。

「だから、六時半までは起きていかないことにしてる。ラジオ、イヤホンで聞いてるから、気にするな」

夫は、私が五時に起きはじめたころから、ずっとそうしていたのでした。

何も言わずに、布団の中で、六時半を待っていたのです。

話し合わなくても、夫は分かっていました。

分かっていて、何も言わなかったのです。

昼は、あいかわらずです

とはいえ、昼は、あいかわらずです。

十一時半になると、夫はやはり新聞から顔を上げます。

私はやはり、先に立ち上がります。

電話の声を落としてしまう癖も、まだ抜けません。

そこは、ほとんど変わっていません。

一度だけ、十二月の雨の日に、夫が先に立ち上がったことがあります。

「今日は、うどんでも茹でるか」

夫は鍋に水を張り、冷凍庫のうどんを二玉出しました。

茹で時間を三分ほど長くしたので、うどんはすっかりやわらかくなっていました。

「のびたな」

「のびたわね」

二人でそう言いながら、最後まで食べました。

それきり、夫が昼ごはんを作ったことはまだありません。

洗い物は、今も一日に三回あります。

けれど、五時から六時半までの私を知っているのは、私だけです。

夫は、私がそこにいることは知っていても、何をしているかは知りません。

それだけで、昼の十一時半が、少し軽くなりました。

十二月に入ると、五時の窓はまっ暗になりました。

台所の明かりをつけると、窓ガラスに、カップを持った自分の顔が映ります。

六時半を過ぎても、外はまだ青いままです。

寝室から、イヤホンをはずす小さな音がして、夫の足音が近づいてきます。

冬至が過ぎれば、五時の窓はまた少しずつ、明るくなっていくはずです。

それを待つのが、今は少し楽しみです。

あなたなら、どうしますか?

もし家の中に、誰にも見られていない一時間を作るとしたら、何時にしますか。

そして、その時間に「用事」を入れないとしたら、何をして過ごしますか。

今週、ひとつだけ決めるなら

ひとつで十分です。決めた日を、カレンダーに書いてみてください。

この物語から、考えたいこと

1. なくなったのは時間ではなく、見られていない時間

予定が詰まっているわけではないのに、休んだ気がしない。

その正体は、ひとりになれる時間が消えたことかもしれません。

2. 相手の予定は変えられないが、自分の時刻は変えられる

話し合って相手を動かすのは、時間がかかります。

起きる時刻をずらすのは、今夜から決められます。

3. その時間に用事を入れない

やることを決めると、それは新しい家事になります。

何もしなくていい時間として空けておくほうが、続きます。

振り返りチェック

当てはまるものに、印をつけてみてください。診断ではありません。自分を振り返るためのものです。

印をつけた数:

数が多くても少なくても、良い・悪いはありません。

この物語に登場したもの

ここから下は物語ではなく、物語に出てきた道具の情報です。主人公が選んだときの条件(一杯ずつ淹れられる・種類を選べる・買い置きできる)に合う商品の一例で、登場人物が実際に使ったものではありません。販売ページやメーカーの記載にもとづく事実だけを載せています。

朝の一杯ぶんのコーヒー

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  • 販売ページの記載:原材料はコーヒー豆
  • 販売ページの記載:4種類×10杯で計40杯・1杯8g
  • 販売ページの記載:賞味期限は生産日から540日
  • 選ぶときは、一杯ずつの個包装かどうか・入り数・賞味期限を見ると選びやすくなります。

※価格は変動するため、最新の価格は販売ページでご確認ください。

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この記事について

※この記事には広告(アフィリエイトリンク)を含みます。
※このお話は、実際に寄せられている相談や声を参考に、物語として再構成しています。登場人物・出来事は実在のものではありません。
※記事中の写真はイメージです。

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