六十八歳の春、孫が教えてくれたこと
夕暮れ時の台所に、出汁の香りが静かに漂っています。
千葉県の郊外、築三十年のこぢんまりとした一戸建て。
庭の梅の木は今年も白い花を咲かせ、窓越しにその枝が見えます。
田中節子、六十八歳。
夫の哲夫は、三年前に定年を迎えました。
二人でいる時間が増えたはずなのに、なぜか家の中はしんとしています。
今日の夕食は、筑前煮と豆腐の味噌汁。
昔から変わらない献立です。
「お母さん、産まれたよ」
娘の美咲からその連絡が届いたのは、去年の秋のことでした。
初孫の誕生。
その瞬間、節子の胸の奥で何かが、静かにほどけていきました。
退職金と、わずかな貯蓄。
哲夫の厚生年金は月十八万円。
節子自身の年金は、専業主婦だったこともあり、月五万円にも届きません。
生活は慎ましいものです。
でも、孫の誕生だけは、心を込めて祝いたかった。
「何を贈ろうかしら」
節子は何日も悩みました。
デパートのギフト売り場を二度訪ね、インターネットで調べ、メモ帳に候補を書き並べました。
最終的に選んだのは、老舗和菓子店の詰め合わせでした。
小豆の羊羹、栗の蒸し菓子、季節の干菓子。
丁寧な包装で、見た目も上品です。
「こういう贈り物って、もらった時に嬉しいのよね」
この物語に出てきた和菓子の詰め合わせは、概要欄からご覧いただけます。
美咲が退院した週末、節子は生まれたばかりの孫を抱かせてもらいました。
小さな手が、節子の指をきゅっと握ります。
その感触に、言葉が出ませんでした。
「お義母さん、素敵なお菓子ありがとうございます。産院でもみんなに配ったんですよ」
娘婿がそう言って、笑いました。
節子は照れながら頷きました。
「大したものじゃないけれど、喜んでもらえたなら良かったわ」
帰り道、バスの窓から夕焼けを眺めながら、節子は胸のうちでつぶやきました。
「こういう時間のために、生きてきたのかもしれない」
旧友の河合美穂から電話が来たのは、その翌週のことでした。
「節子、うちにも孫が生まれたの。もう可愛くて仕方ないわよ」
美穂は、夫が元証券会社の部長で、退職後も顧問として働いています。
「孫には、ブランドの洋服と、積み立てのお祝い口座を作ってあげたの」
「旅行も連れて行きたいし、教育費も援助したくて」
節子は、受話器を持ちながら静かに聞いていました。
否定する気持ちはありません。
でも、心のどこかに、冷たい風が吹いたような感覚がありました。
「私は、和菓子の詰め合わせひとつ……」
その夜、節子はなかなか眠れませんでした。
翌朝、哲夫が庭に出て、長いことしゃがみ込んでいました。
定年後、何をしていいか分からないと言っていた夫が、去年の秋から家庭菜園を始めたのです。
きっかけは、近所のご主人に声をかけてもらったことでした。
「退職したなら、やってみたらどうですか。土をいじると、気持ちが落ち着きますよ」
最初は半信半疑だった哲夫も、プランターにトマトの苗を植えた日から、朝起きるのが少し早くなりました。
スコップ、じょうろ、支柱、防虫ネット。
道具が少しずつ増えるたびに、哲夫の表情が柔らかくなっていきました。
「節子、見てみろよ。トマトに花が咲いた」
縁側に腰かけ、嬉しそうに報告する夫の横顔は、現役時代よりもずっと穏やかに見えました。
この物語に出てきた家庭菜園の道具セットは、概要欄からご覧いただけます。
夏が過ぎ、秋になった頃。
美穂からまた電話がかかってきました。
今度は、声のトーンが違いました。
「節子……実は、主人が先月から入院しているの」
突然の知らせに、節子は言葉を失いました。
「脳梗塞だったの。命は取り留めたけれど、しばらくリハビリが続くって」
受話器の向こうで、美穂が小さく嗚咽しました。
「本当に、突然のことで……先週まで元気にゴルフに行ってたのに」
節子は、じっと聞いていました。
「ねえ節子、私ね、後悔しているの」
「主人と、もっと旅行しておけばよかった。いつでも行けると思っていたから」
「忙しいから来年にしましょう、って、ずっと先送りにしてきたの」
「でも、来年って、来ないことがあるのね」
その言葉が、節子の胸に、静かに刺さりました。
電話を切ったあと、節子はしばらく窓の外を見つめていました。
庭では、哲夫がプランターの前にしゃがんで、何か独り言を言いながら土をほぐしています。
「哲夫」
縁側の窓を開けて、節子は声をかけました。
「どうした」
「来月、温泉に行きましょう。二人で」
哲夫が振り返りました。
「急にどうした」
「美穂さんの旦那さんが倒れたの。それでね、思ったのよ」
節子は、言葉を選びながら続けました。
「行けると思っているうちが、行ける時なんだって」
哲夫は少し黙ってから、照れくさそうに言いました。
「……そうだな。どこにする」
「箱根はどうかしら。紅葉の季節だし」
二人は縁側に並んで座り、スマートフォンで旅館を調べ始めました。
この物語に出てきた温泉旅館の予約は、概要欄からご覧いただけます。
旅行の朝、節子は久しぶりに少し早起きをしました。
旅行鞄に荷物を詰めながら、ふと鏡を見ます。
「六十八歳か……」
白髪が増えた髪、目の周りの皺。
でも、その顔は、どこか生き生きとして見えました。
電車に揺られて二時間。
箱根の宿に着くと、山の空気が頬を包みました。
「きれいね」
「ああ、きれいだ」
窓の外に広がる紅葉を眺めながら、二人でお茶を飲みました。
話すことは、たわいないことばかりです。
哲夫の菜園のこと、孫の最近の様子、来年また旅行に来られるかどうか。
でも、その何気ない会話が、節子にはたまらなく嬉しかった。
翌週、美穂に旅行の話をすると、電話口で笑い声が聞こえました。
「いいわね。主人が良くなったら、私たちも行く」
その声は、少し前より元気を取り戻していました。
「節子、あなたって行動が早いわね」
「そうかしら。ただ、怖くなっただけよ」
「怖い?」
「先送りにすることが、ね」
美穂は少し黙ってから、こう言いました。
「……それ、一番大事なことかもしれない」
冬になり、哲夫の家庭菜園は小休止の季節を迎えました。
それでも哲夫は毎朝庭に出て、プランターの土の状態を確かめています。
「春になったら、何を植えようか」
夕食のあと、そう言って種のカタログを広げる夫の隣で、節子はお茶を注ぎました。
あたりまえの夜。
何も特別ではない夜。
でも、節子はこの時間が、今はたまらなく愛おしかった。
「哲夫、来年の旅行、もう決めましょうか」
「気が早いな」
「だって、先送りは禁止にしたから」
哲夫が、ふっと笑いました。
節子も笑いました。
窓の外では、冬の風が庭の木を揺らしています。
でも、部屋の中は、あたたかかった。
エピローグ――あなたへ贈る言葉
「いつか」という言葉は、ときに残酷です。
行けると思っていた旅行、言えると思っていたありがとう、できると思っていた約束。
でも、今日という日は、今日しかありません。
大きな格差がなくても、華やかな老後でなくても、今ここにいる人と、今できることを丁寧に重ねていく。
それだけで、人生は思いのほか豊かになれるのかもしれません。
今日の物語が、あなたの「先送りにしていたこと」を思い出すきっかけになれば嬉しいです。
それでは、また次の物語でお会いしましょう。
どうか今日という日が、穏やかで心豊かでありますように。
――田中節子、六十八歳の物語でした。